第8話 後悔の男
明るい王広間を抜けて薄暗い廊下を一人、胸の痛みに堪えながら歩く男がいた。
「……いつの間に、結婚なんかしてたんだよ」
壁に拳を打ち付けて、モーリッツは心の内を漏らす。
ミュゼリアの加護を得た歌姫に告白する自信をつけるために、世話になっていたクルフェルト楽団を抜けた。
これまで音楽旅行と称して様々な楽団のゲストとして演奏してきた。
多くの経験を積めば、自分にもミュゼリアの加護が与えられるかもしれない、と。
シエラはずっと、幼い頃に助けてくれた、名前も顔も分からない男の子に恋をしていた。
そんな初恋の相手は見つかるはずがない。
モーリッツはシエラが初恋の男の子を思っている間は、自分に分があると思っていた。
しかし、数年ぶりに会ったシエラは、ロナティア王国に夫とともに現れた。
幸せそうなシエラの笑顔に、モーリッツの心は鋭い針で何度も刺されるような痛みを覚えた。
(それも、あのベスキュレー公爵と結婚だと……?)
社交界が仕事場であるモーリッツはベスキュレー公爵の噂話をよく知っている。
【包帯公爵】との異名を持つ、〈ベスキュレー家の悲劇〉唯一の生き残り。
他人との関わりを避け、領地に引きこもって人間の皮膚を蒐集しているとかいないとか。
とにかく怪しくて、恐ろしい人物であることに変わりはない。そういう認識だった。
しかし、実際に現れたベスキュレー公爵は包帯姿ではなく、美しい顔をしてシエラを愛おしそうに見つめていた。
愛し合っていることが、赤の他人にも一目で分かるほどに。
「俺だって、ずっとシエラのことを好きだったのに」
目頭が熱くなってきた。
長年こじらせて、好きな相手に素直になれなかった。
優しくできなかった。愛情を伝えられなかった。
――もしもあの時、気持ちを伝えていたら……。
後悔ばかりが渦を巻く。
目元を抑えたモーリッツの側で、ちりんと澄んだ音がした。
顔を上げ、音の主を確かめる。
「……猫?」
漆黒の猫が、モーリッツを誘うように尻尾を振っていた。
普段なら無視して素通りするところだが、妙に引っかかる。
黒猫の示す先に何があるのか、確かめずにはいられなかった。




