第25話 王女の葛藤
――まだ、王都に異変が起きる前。
薔薇の香り漂う部屋で、イザベラは物思いに耽っていた。
(どうすればいいのかしら……)
ここ数日、クリストフに避けられている。
彼の真っ直ぐな告白を拒絶したのだから当然である。
たとえクリストフに嫌われたとしても、イザベラがすべきことは変わらない。
そう考え、イザベラはヴァンゼール王国での女神の加護や魔女の呪いについて調べるため、王宮図書室に通い詰めていた。
わざわざクリストフの執務室が見える庭園に寄り道しているのは、けっして彼のことが気になるからではない――そう誰にでもなく言い訳をしながら。
しかし、本を読みながらも、頭に浮かぶのは魔女だった前世のことよりもクリストフのことばかりで集中できないのだ。
イザベラを好きだと言った眼差しが、イザベラの笑顔を見たいと言ってくれた優しさが、ずっと忘れられない。
グリエラの気持ちが、今なら痛いほどに分かる。
愛する人に愛される幸せも、一緒にいることが許されない苦しみも。
『許せない』『憎い』『殺してやる』
イザベラだけが感じられる怨念の声は、日に日に大きくなっていた。
呪いを封じ込めている女神の加護が弱まっているのだ。
魔女の怨念がこの国を襲う日はそう遠くないかもしれない。
イザベラの中で危機感が募っていく。
このことをクリストフにも伝えるべきか。イザベラは悩んでいた。
人々は魔女の怨念のことなど知らずに平穏な毎日を送っていて、忍び寄る闇に気づくことはない。
けれど、それでいい。
古の魔女の呪いなど、後世にまで残すものではないのだ。
魔女の記憶を持つ自分も、クリストフの前から消えなければならない。
呪いを解けば、イザベラがヴァンゼール王国に足を踏み入れることは二度とない。
だから、クリストフに関わるのも今だけだ。
彼もきっと、イザベラのことは忘れて新しい人を見つけるだろう。
見つけてもらわなければ困る。
イザベラはクリストフを不幸にしたいわけではない。
幸せになって欲しいから、自分では駄目なのだ。
クリストフに避けられている現状は、かえって都合が良い。
そう頭では理解しているし、納得もしている。
それなのに、避けられて傷ついている自分がいた。
原因を作ったのは、他でもない自分なのに――。
魔女の声を聞かなかったことにして、クリストフの傍にいられる時間を引き延ばそうとしたせいだろうか。
王都は、呪われた。
地響きは、声にならない魔女の叫びそのものだった。
黒い靄が王都を襲った時、イザベラもまた魔女の怨念に呑まれた。
親友を奪い、魔女を虐げた人間への恨み。
一度は鎮めた前世の憎悪が沸き上がる。
(憎くて、たまらない……やっぱり、人間は滅ぶべきだ……)
しかし。
――あなたの心からの笑顔が見たかったから。
ふと、頭に過る声は誰のものだったか。
――あなたのことが好きなんだ。
優しい眼差しでイザベラを見つめるその人を、憎むことなどできなかった。
「クリストフ殿下……っ!」
愛している。
許されないのに、愛してしまった。
魔女の感情とイザベラの感情が混ざり合い、涙があふれ出す。
彼は無事だろうか。
どうか無事でいてほしい。
そう願った時、部屋の扉が開く。
「イザベラ王女!」
ずっと避けていたくせに、必死な顔でイザベラを呼ぶ。
美しい紫の双眸がイザベラを映した直後。
「っ無事でよかった……!」
イザベラの体はクリストフに抱きしめられていた。
あまりに強く抱きしめられたせいか、この現実をすぐには受け入れられなかったせいか、イザベラは何も言えずに固まった。
その背に腕を回すことも、突然の抱擁を責めることもできずに。
「イザベラ王女? もしかして、呪いの影響が……?」
「……」
「ど、どうすれば……」
固まったままのイザベラが、魔女の呪いを受けていると勘違いして、クリストフはパニック状態に陥った。
そして、その結果――。
「許してくれ、イザベラ王女」
彼は太古の昔から語り継がれる呪いを解く方法――口づけをしようとした。
目の前にクリストフの整った顔が近づいてきて、ハッと我に返ったイザベラは、思わず突き飛ばす。
「わ、わたくしは大丈夫ですわっ!」
ドキドキと心臓がうるさく喚く。
呼吸が乱れて、胸が苦しい。
「あぁ、よかった……無事だね?」
心からの安堵の笑みがイザベラに向けられて、落ち着かない気持ちになる。
「え、えぇ。それにしても、酷いですわ……! 同意もなく、その、く、口づけを迫るだなんて!」
思わず責めるように言ってしまったのは、心の動揺を隠すため。
イザベラはクリストフを赤い眼で睨む。
「そ、それは本当に悪かった。咄嗟に思いついたのがあれしかなくて……」
「現実はおとぎ話とは違うのですよ。王子様のキスで呪いが解けるのは、真実の愛があってこそ、ですわ……」
「そう、だよな。俺の一方的な片想いで、イザベラ王女を救えるはずもないか」
クリストフはイザベラの態度に怒ることもなく、諦めたように優しく笑う。
また傷つけてしまったと分かっても、イザベラにはどうすることもできない。
真実の愛など、二人の間にはないのだから。
「わたくしのことよりも、殿下にはやるべきことがあるはずです。魔女の呪いが浸食してきているのですから」
「あぁ。分かっているよ」
頭では理解していても、真っ先に無事を確認したかったのはイザベラだ。
クリストフの目はそう言っているようで、これ以上見つめることはできなかった。
イザベラはクリストフに背を向けて、正論で彼の背を押す。
「わたくしのことはお気になさらず、どうかこの国を守るために行動を」
クリストフの足音が去っていくのを聞いて、ようやく脱力する。
そして、考える。
今この時にイザベラにできることは何なのか。
魔女たちの声は、望みは、何なのか。
「わたくしも、もう一度みんなに会いに行くわ」
“呪われし森”に行かなければならない。
手土産が何もないのは寂しいから、薔薇の花束を用意しよう。
イザベラは、静まり返った王宮の庭で薔薇を手折る。
一本一本、丁寧に。
――その時に備えて。




