第2話 転生した理由
真っ白な紙を前に、イザベラは数度目のため息を吐く。
ペン先にインクを付けて、試しに前世の自分の名前を書いてみる。
黒い文字は、名前であることを認識する前に消えてしまう。
「やっぱり、この方法ではダメね……」
何を書いても、インクが消えていくのだ。
魔女のための墓石が必要だと進言したのは自分だ。
墓に必要なのは、故人の名前。
弔うためにも、忘れないためにも、名前は必要だ。
それに、アルフレッドは、ただの墓ではなく、慰霊碑をつくってくれるという。
とてもありがたいことだ。
魔女の呪いは、彼らの人生を変えてしまったというのに。
迷惑をかけてしまった分、どこまでもお人好しで、心根の美しい二人の役に立ちたい。
それに、前世の仲間たちを安らかに眠らせてやりたい。
しかし、肝心の魔女の名前を書き記すことができないのだ。
魔女の真名には魔力が宿る。
この世に存在するあらゆる魔力を自分と結びつけるために必要なものでもあった。
だから、ただの人間が魔力が宿る魔女の真名を残すことはできない。
「困ったわね。これでは、もしわたくしが名前を教えられたとしても、誰も名前を刻むことができない……」
どうしたものか。
イザベラは静かに頭を悩ませていた。
(せっかく音楽会のおかげで、前世の記憶が鮮明に思い出せたというのに)
先日招待されたベスキュレー家の音楽会を思い出す。
イザベラは、クリストフの従者に扮して出席した。
王子としての彼に迷惑をかけたくなかっただけなのだが、何故かクリストフは苦虫を嚙みつぶしたような顔をしていた。
一方的に婚約破棄をした自分が、堂々とクリストフのエスコートを受けられるはずもないのに。
それでも一緒に出席したのは、クリストフはこんな自分でも友人になろうと手を差し伸べてくれたから。
その思いまで裏切るようなことはしたくなかったのだ。
それに、友人であるシエラの招待でもある。
彼女が歌姫として舞台に立つ姿を純粋に見たかった。
シャンデリアの光だけではない輝きが、舞台上で歌うシエラにはあった。
あまりの美しさに目を奪われていたのは、イザベラだけではないだろう。
クルフェルト家の素晴らしい演奏と、皆を優しく包み込むようなシエラの歌声。
なぜか、泣きたくもないのに、涙が浮かんできて。
じんわりとあたたかなものが胸に広がり、目を閉じると、かつての――前世の自分の姿が見えた。
家族と幸せそうに笑っていた。
親友と楽しそうに話していた。
年上の魔女たちに可愛がられて、嬉しそうにしていた。
初めて前世の記憶を思い出した時には、憎しみばかりに囚われて思い出せなかった大切な人たちの笑顔。
優しくて、あたたかな記憶。
ベラにも幸せな時があったのだと、シエラの優しい歌が思い出させてくれた。
そして、かつての同胞たちの真名も。
「……また忘れてしまわないように、覚えておきたいのに」
前世のベラとはすでに別の人間に転生しているため、現世の記憶ほど鮮明には覚えていられない。
憎しみという強い感情に支配された記憶は別だが。
イザベラはもう一度大きなため息を吐く。
ふと顔を上げると、客間に飾られた赤い薔薇が目に入った。
広い客間の各所に置かれた花瓶には、薔薇を主役として様々な花が生けられている。
イザベラの好きな花が薔薇だと調べてくれていたのだろう。
クリストフの配慮に気づく度に、胸がきゅっと締め付けられる。
そして同時に、彼が優しければ優しいほど、罪悪感で胸が苦しくなる。
自分が何をしようとしていたのか。
今更ながら、その罪深さに押しつぶされそうで。
けれど、あの森の魔女について知るのはイザベラだけ。
何のために、人を憎む自分が人に転生したのか、ずっと疑問に思っていた。
最初は、今度こそ復讐するためなのだと疑わず、そのために準備をして生きてきた。
(でも、違った……)
イザベラが転生したのはきっと、人を憎むためではない。
前世のベラが犯した罪を償うため。
かつての同胞たちの魂を救うため。
魔女の呪いを終わらせるため。
今度こそ、大切な人たちを守るため。
――そのためにできることはどんなことでもやろう。
「試してみる価値はあるかもしれないわね」
立ち上がり、イザベラは自分の瞳と同じ赤い薔薇を花瓶から引き抜いた。




