第16話 出ていく妻、追う夫
――わたし、実家に帰らせていただきます!
シエラの一言に、アルフレッドの脳内は大混乱だった。
何故、こうなった?
クルフェルト伯爵家へ一緒に挨拶へ行こうと言うつもりだった。
何が原因でシエラは出て行ってしまったのか。
出ていく前の会話を思い返しても、シエラの体調を気遣っただけで、怒らせるようなことを言った覚えはない。
そもそも、今までシエラがアルフレッドに対して本気で怒ったことなど一度もなかった。
(……昨夜のキスがまずかったのだろうか)
段階を踏んでいこうと思っていたのに、いきなりあんなキスをしてしまったから。
戸惑っているだけならばいいが、もうキスしたくないと思われていたらどうしよう。
「……あの、旦那様?」
遠慮がちに背中から声をかけられた。
振り返ると、気まずそうな顔のオリバーがいる。
「何だ?」
「えっと、その~、奥様が出ていかれてからずっとこちらにいらっしゃいますので……」
オリバーの言葉で、アルフレッドは日が高くなっていることに気づく。
シエラが屋敷を出たのは、たしか朝食中だった。
あまりのショックですぐに追いかけることができず、アルフレッドが我に返った時にはシエラが乗った馬車は出発していた。
茫然とシエラの馬車を見送った状態のまま、アルフレッドは立ち尽くしていた。
もう昼過ぎになっている。
「王城からお手紙も届いておりまして……その、そろそろお部屋に戻られては」
「……分かった」
オリバーが言いにくそうに告げた言葉に、アルフレッドは力なく頷いた。
シエラが出て行ったショックを引きずったまま仕事ができるとは思えないが、いつまでも玄関前に突っ立っている訳にはいかない。
オリバーから手紙を受け取り、アルフレッドは執務室へ向かう。
手紙はクリストフからで、明日もう一度“呪われし森”へ同行してほしいことと、今日の出仕は事務的な処理をするだけなのでいつでもいい、ということが簡単に書かれていた。
明日は、"呪われし森"で聖堂を建てるための場所を探すという。
本気であの森に聖堂を建て、呪いを解こうとしているのだ。
そのために、アルフレッドは女神ミュゼリアの加護を得なければならない。
女神の加護を得る資格など、とうに失っているかもしれないこの自分が。
(……私にできるのだろうか)
愛する妻が出て行った理由も分からないのに。
ずんと沈む思考に、やはりこのままでは仕事どころではないと立ち上がる。
「私は今からクルフェルト伯爵家へ向かう。留守を頼む」
アルフレッドはオリバーにそう言い置き、愛馬に跨り屋敷を飛び出した。
シエラが出て行った理由も分からないまま、迎えに行ってどうなるというのか。
さらに怒らせることになるかもしれないが、話をしなければシエラの心が分からないままだ。
「どんな理由があれ、あなたを迎えに行く権利を持っているのは夫である私だけだろう……?」
もし拒まれたとしても、アルフレッドはもうシエラを諦めたりしない。
それに、ずっと側にいると笑ってくれたシエラの言葉を信じているから。
***
勢いのままに馬車に乗り、クルフェルト伯爵家へと向かったシエラは、頭を抱えていた。
誤解を招くような物言いで、ろくに話もせずに飛び出してしまった。
アルフレッドにどう思われたか。
想像するだけでシエラは後悔に苛まれる。
「メリーナ! どうしましょう!?」
「奥様、とりあえず落ち着いてください」
「……うぅ、自分から言い出しておいてなんだけど、アルフレッド様の側を離れるなんて嫌なのよ……だけど」
「歌の練習がしたいのですよね?」
メリーナの冷静な問いに、シエラはこくりと頷いた。
女神の加護はいつでも望むままに奇跡を起こす訳ではない。
これまでもシエラは様々な場所で歌ってきたが、奇跡を起こしたことなどなかった。
アルフレッドと出会うまでは。
だから、女神の加護というものは、精神的な癒しを与える力なのだと思っていたのだ。
アルフレッドを想う気持ちが、本当の奇跡を起こした。
呪いを解き、愛する人のもとへ導いてくれた。
しかし、その奇跡はすべて自分自身やアルフレッドに関わるもので、あの広大な森に作用するような奇跡を起こす力はきっとシエラにはない。
(もっと、歌が上手くなりたい……!)
“呪われし森”の呪いを解く。
それは、アルフレッドを助けてくれた魔女グリエラの願いでもある。
シエラは、彼女の悲しみを癒せる歌を歌いたい。
グリエラの魂は、いまだにあの森に縛られている。
だから、元凶となってしまった彼女が死んでも、森の呪いは解けずに残っているのだろう。
長い年月を経て、悲しみは怒りとなり、自分自身でも消すことのできない深い恨みへと。
アルフレッドとシエラが出会えたのは、グリエラが彼を助けてくれたからだ。
シエラは、会ったことのない魔女に心から感謝している。
命の恩人である魔女のために、自分にできるのは歌を歌うことだけ。
ロナティア王国で魔女グリエラの話を聞いてから、ずっと気にかかっていたのだ。
クリストフが“呪われし森”の呪いを解こうとしていなくても、いずれシエラはあの森へともう一度行きたいと思っていた。
今度は呪われるためではなく、あの森に眠る魔女へ感謝を伝えるために。
アルフレッドに言えずにいたのは、余計な心配をかけたくなかったから。
しかしこんな風に飛び出してしまっては、本末転倒である。
「アルフレッド様に心配をかけないために、お父様のもとで練習したいと思っていたの。それを相談しようと思っていたのに、あんまりにもアルフレッド様が過保護だから、つい……」
実家に帰る、ということだけを告げて逃げてきてしまった。
「奥様のことを大切にしてくださるのは結構ですが、たしかに旦那様は過保護すぎますわね」
思い当たることがあるのだろう。メリーナもシエラの言葉に頷いた。
「そうでしょう!? まあ、わたしが目の前で倒れちゃったのがいけないんだけど……」
一人で腹式呼吸をして倒れかけたなんて恥ずかしすぎて、忘れてほしい。
父に知られたらお叱りものだ。
クルフェルト家の歌姫として情けない。
「ですが、きっと今頃、旦那様は奥様に嫌われてしまったのかと落ち込んでいるでしょうね」
「うっ……やっぱりそう思われちゃうわよね?」
「はい。旦那様のことですから、思いつめて変な方向に考えなければよいのですが……」
「ま、まさか、離婚とか!? 絶対、嫌よ! アルフレッド様と別れるなんて考えたくもないわ!」
シエラは真っ青になる。
たしかに色々と考える時間が欲しいと思ったが、アルフレッドと離れたい訳ではないのだ。
「では、引き返しますか?」
というメリーナの問いに、それでもシエラは首を横に振った。
「いいえ。きっと、アルフレッド様は離婚を考えたとしても、わたしを迎えに来てくれると思うの。だから、すれ違いにならないように、わたしはクルフェルト家でアルフレッド様を待つわ」
そして、今度こそ思っていることをすべて話す。
しかし、シエラは忘れていた。
アルフレッドと話し合う前に、クルフェルト家の家族と話し合う必要があるということに。
「シエラ!」
クルフェルト家でシエラを出迎えてくれたのは、最後まで結婚に反対していた姉――ベルリアだった。




