第五話「自称世捨て人と記録の書庫」
「紹介が遅れた。私はマッドハッター、帝都で帽子屋を営んでいる」
最初に男はそう名乗った。
「そうか…なぁ、さっきの女と話していたのは何のことだ?ネタばらしだとか、人形劇だとか」
「さあな。あちらの話だ」
マッドハッターと名乗った男は、アリスの質問をそう受け流す。しかしアリスは、
「……何か知っているんじゃねえのか? さっきの口ぶり、俺には何も知らない風には聞こえなかったが」
と言う。
「知っていたらなんだ? 君に何か不都合なことがあるわけでもあるまい」
「……」
しかしマッドハッターの口は堅く、如何せん言っていることに誤りなど無く、アリスはやむなく本題を切り出した。
「そんなことより、俺に話があるんだったよな?」
「ああ。そうだな、何から話すべきか──」
マッドハッターは少し考えると、口を開いた。
「単刀直入に申す。君に特異点の護衛と施設の管理を依頼したい」
「施設……あのラビットの、ミクルらの家のことか。交渉……なるほどな、つまり見返りの方は既に用意してあるんだろうな?」
「当然だ。この話を請けるのならばあの施設に住んでもらう必要があるためしっかりした寝床だけは保証できないが…それ以外の快適な生活なら約束する」
「そうか……まあ、俺はうまい飯さえ喰えれば何でもいいがな」
アリスはそんなことを言う。どうやら、この話を請けるつもりでいるようだった。
確かに、今のアリスにとってこれほど好都合な話が舞い込んでくるなど願ってもいないことだった。不安なことが全く無いわけではないが、多少のことに目を瞑れば苦労せずとも快適な生活が手に入ると言うのならば、誰だってそれを選ぶだろう。そんなことを考えていると、マッドハッターが再び口を開いた。
「構わないのか?依頼には特異点の護衛も含まれている。それがどういうことかわかるか?」
と。アリスは少し考える。
仮面の男たちはミクルを──特異点を狙っていた。つまり、それの護衛をすると言うことは当然、今後激しい戦闘は免れない。この男が心配しているのは、そんなところだろう。しかしアリスは、
「上等だ、請けてやるよ……て言うか、もう遅いだろ」
と、一笑に付し言い切った。
「──君なら、請けてくれると思ったよ」
それを聞き、マッドハッターはまるでアリスのことを知っているかのような口ぶりで応えた。
「……は?」
しかし当然、それを聞いたアリスは困惑した。
「そういや、俺の名前を聞いた時、反応してたよな?どういうことだ、まさか俺のことを──」
「ああ、私は君を───正確には、君たちの世界における能力者たち、特に傭兵としての君たちのことを知っている」
アリスの言葉を遮ったマッドハッターから放たれた思いもよらないことを聞き、アリスは言葉を失った。
この男には、自分が別の世界の住民だということを一切話していない。なのに彼は、〝君たちの世界〟と言った。それが、彼がアリスのことを一方的に知っている裏付けにもなる。
「私の知っていることは全てここにある本に記されていた。……まあ管理機関なるものが不要と判断した情報は破棄される為、何でも知っているわけではないがな」
と、彼は言い立ち上がると、本が隙間なく詰め込まれた、一番近い本棚に向かい歩きながら、続ける。
「ここは神により選ばれた人間にのみ閲覧する権限を与えられる記録の書庫。世界の全てが記録されていて、君の元居たオリジナルの世界もまた例外ではない」
マッドハッターは淡々と話を続ける。アリスはすっかり聞き入っていた。
「こちら側には君たちの世界、向かい側には私たちが今居る、さしずめ模倣の世界と言ったところか──それぞれについて記された本が無数にある」
そこでマッドハッターは振り向き、アリスの目の前まで来ると、その続きを口にした。
「さて、私は選別されし鍵の所有者のひとりだ、現在この鍵の所有権は私にある」
いつの間にか彼の手には先ほどと同じ鍵が握られていた。
「……何が言いたい?」
アリスがそう訊くと、マッドハッターは愉快に、しかしどこか不気味な笑みを浮かべ応える。
「──これから君の身に起こりうる災難に比べれば、私の提示した報酬は些か割に合わないのだ。そこで、君にもうひとつ、この鍵の所有権を譲渡しようと思うのだ」
「……それは可能なのか? その鍵は神様とやらに選ばれた特別な人間にだけ所有権を与えられるんだろ?」
アリスの素朴な疑問に、マッドハッターは淡々と応える。
「ああ、簡単な話だ。所有権が今私の手にあるということは、それを私の意思で破棄しようと他の誰かに預けようと私の勝手というのも道理だ」
「……まあ、そうだが…それは俺にとってどんな益があるんだ?」
「そうだな。例えば──」
マッドハッターは鍵をアリスの目の前へ差し出し、続ける。
「君は──君の居た世界についてどれくらい知っているか、自分で理解っているのか?」
「……は?」
その言葉に、アリスは疑問符を浮かべるほかなかった。
「君が、君たちが戦わなければならなかった理由や、世界が何を以て平和となったか。君にはわかるのか?」
「……ああ、俺は自分の居た世界について、何も知らない。だが知ることに意味はあるのか?今の俺は、この世界の住人だ。もし戻れたとしても、あの世界と決別した俺にはもう──」
「関係のないこと、か?」
マッドハッターはアリスの言葉を遮り、抑揚なく話し続ける。
「世界と決別した──本当にそう思っているのか?私の眼には、君の中で未だに消えない苦悩が蔓延っているように視えるが」
「……」
会って間もないお前に何がわかる、と言おうとしたが、声に出せなかった。
確かにアリスには、知りたいことが少なからずある。だが、世の中には知らない方がいい事実もあるということをアリスは理解している。
今アリスが知りたいことは、それに該当すると、自らの直感が告げていた。だからアリスは、目の前の鍵を受け取れなかった。その勇気がなかった。
それを知ってしまえば、今まで自分を築き上げてきたものが壊れてしまう気がした。アリスにはそれが恐かった。ある時期まで成長した人間は、ある程度〝型〟が創られる。型が瓦解してしまうことを、人は最も恐れるものだ。
しかしマッドハッターは、すっかり黙り込んでしまったアリスを見てもなお、話を続けた。
「まあ、今はそれほど考えなくとも良い。どちらにせよ、君にとってこの鍵は必要なものだと私は思うが」
「え?」
「言葉は通じるようだが、それぞれで使われている文字は全く異なる。それらの読み書きくらいは心得ておいた方が良いだろう」
「それは…そうだな」
全くの正論だった。それに、別に知ることを強いられているわけでもない。自分が知りたい時に調べれば良いのだ、少なくとも鍵を持っていて損をすることは間違いなくない。
アリスは立ち上がると、マッドハッターから鍵を受け取った。
「賢明だな」
「……まあ鍵の所有権は付属品だな、俺にとって重要なのはうまい飯だけだ」
アリスが気楽にそう言うと、マッドハッターは鼻を鳴らしハットの鍔を擦りながら、身体の向きを自分たちの来た方向へ変え、歩きだした。
「では、戻るとしよう。今日はもうひとつやるべきことが残っているのでな」
♠︎ ♡ ♢ ♣︎
「俺のような大人にはなるなよ、お前ら」
と、師はよく言っていた。
「言われなくても、師匠のようなろくでなしになんかなるつもりねえよ」
と毎度アリスが応えると、飽きもせずみんなで笑った。そのやり取りが、アリスにとってはいつからか掛け替えのないものとなっていた。
そんなある日のことだった。
訓練が終わり、アリスが玉蹴りをしてはしゃいでいる仲間たちをひとり眺めているところに、師は話しかけてきた。
「ようアリス。お前もこれ食うか? 腹減ったろ」
「いつもの硬ぇパンじゃあねえか。なんで師匠がそんなもん食ってんだよ」
「たまには庶民の食いもんも味わってみてえのさ。にしてもよくこんなもん食えるな」
「バカにしてんのかそれ」
かかか、と師が笑うと、アリスは呆れた様子で、小さくため息を吐いた。
「──なあアリス。お前、自分の境遇についてどう思ってる? ほんの少しでも、もっと恵まれて生まれてきたかったと願うか?」
声色を変えて、師はそんなことをアリスに訊いた。
唐突な質問に戸惑いながらも、アリスは真剣に考え、応える。
「そうだな…そりゃあ、普通の人間として生まれて、普通の家庭で育ちたかったよ」
「……」
「けどまあ、戦友がいて、そいつらと競ったり笑いあったりしている人生も、悪くはねぇんじゃあねえかって思うよ。境遇を呪ったりなんかしねえ。今の俺は、十二分に恵まれてるんじゃねえかな」
晴れ晴れとした笑顔で、アリスはそう言った。
「……なんかお前、俺に似てきたな」
「はぁ!? それだけは勘弁してくれよ」
かかか、と師は笑うと、息を整え話を続ける。
「お前も十分普通の人間だよ、アリス」
「なんだよ、気持ち悪い」
「まあ…俺のような大人にはなるなよ、アリス」
「はっ、言われなくても──」
──この時にもっと、色々な話をしておけばよかったのかもしれない。
だがこの時、普段は決して師が自分たちに見せることはない表情を、はっきりと見てしまった。
どこか儚げで、物寂しくて、切ない。そんな表情を見てしまった。見てはいけないものを見てしまった、そう思った。
「ああ──できる限り努力するよ」
たったそれだけの理由で、アリスは会話を無理矢理終わらせてしまった。師から逃げるように、目を背けるように。
アリスは、戯れている仲間たちの元へ向かい、走り去った。目に焼き付いた、師の見たことのなかった顔をかき消すように。
そしてそれが、最後に師と交わした言葉となった。
翌日、師はアリスたちの前から姿を消した。
なんの言葉も残さずに、忽然と。
アリスたちが憧れ、慕い、そして追いかけた師は、それから全てが終わるまで戻ってくることはなかった。
彼はやはり、筋金入りのろくでなしだった。