貴方から滴る血は誰のせい?
婚約破棄ざまぁをしてみたいお年頃だった。
今は昔。
はるかはるか昔のこと。
世界の澱みより現れた魔王が、その悪しき力で世界を闇で満たした。
血と死と嘆きばかりとなった世界で、人々は天に救いを願う。
その願いは力となり、天よりの御使に導かれた聖女を遣わした。そして、聖女に見出された勇者の手により魔王は退けられ、世界に再び光が戻ったという。
「セルリアヌ公爵令嬢ジル・ブランシュ。あなたとの婚約は、この場をもって破棄させていただくと宣言する」
この日が来るのが、ずっと怖かった。
まるで、とても汚いものを見るように、わたくしを見つめる冷たい瞳。その、傍らには、まるで彼らに守られるように佇む彼女。
「――理由をお訊きしても、よろしいですか?」
「理由? 心当たりがないとでも?」
お前がそれを訊くのか、と蔑むような色を浮かべる王太子ウィリアム・サルヴァトル殿下。その学友であり、将来の高い地位を約束された、文武とも誉れ高い上級貴族の令息たち。
そして、ふるふるとまるで蛇に狙われた野ネズミのように震えて、わたくしをじっと見つめる彼女。けれど、その目に滲み出ているのは怯えなどではない。優越感と侮蔑と喜びと……決して、下級貴族の身の程を超えた事態への怯えなどではないものを浮かべて、わたくしを見つめていた。
次期国王と望まれるべくして立太子したのだと、その能力を讃えられるほどの方だったのに、なぜ彼女のその表情には気付かない?
「――わたくしが、殿下に纏わりつくその娘を厭うあまりに陥れようとしている……などという根も葉もない噂でしたら、耳にしております」
「噂ではなく事実であろう? まさか、この後に及んで知らぬ存ぜぬなどと言い逃れるつもりか」
「神に誓って、わたくしの身に覚えはありません」
は、と殿下は小さく吐息を漏らす。
後ろに控えた侍従に合図をすると、すぐにぶ厚い紙束を差し出した。
「この場でいたずらに皆を騒がせてもと考えたのだが……せめてこの場だけでも穏便に済ませようという配慮は、無にされてしまったな。
だが、お前の自業自得なのだからしかたあるまい」
雲行きが怪しい。いったい何を穏便にというのか。
怪訝に首を傾げるわたくしを殿下はちらりと見やって、手の書類を突き付けた。
「お前が、デボリア子爵家及び子爵令嬢マリアンヌに無実の罪を被せ、陥れようとした証拠だ」
ざわ、とこの場に集まった者たちが、驚きに声を上げた。
大きく見開いたわたくしの目に、書類の文字が目に入る。
隣国と共謀し、ままならない殿下と国王陛下を謀殺して、まだ幼い第二王子を傀儡として打ち立てる……そして、その摂政宰相としてお父様……現セルリアヌ公爵が就くと、そう書いてあった。
「まさか、そんなはず……わたくしも、お父様もそんな大それたことを企てるはずなどありません! 何かの間違いです!」
「私も最初はそう考えた。だが、これだけの証拠が上がったのだ、信じざるを得まい? お前にはすっかり騙されていたよ、かつての婚約者殿。
まさか、父上と私を亡き者にしようと企んでいたとはな。
お前……いや、セルリアヌ家が大罪人であることは、もう公に告知されている頃だろう。これは父上もご存知のことだ。
――セルリアヌ家一門は叛意ありとして、全員が処刑となる」
「全員、処刑……?」
「ああ、既に手は回っている。もう捕らえられているだろう」
「な……そんな! 殿下、これは何かの間違いです! わたくしにも、公爵家にも、殿下や陛下を弑そうなどという企みなど、これっぽっちも……!」
王太子殿下は、もう一度片手を上げた。
すぐに護衛の近衛騎士が前に歩み出て、わたくしの腕を捉える。
「わ、わたくしも、父も、陛下と王国に忠誠を誓っております! これまでだって、誠心誠意お仕えしてきましたのに……殿下!」
「とても残念だよ、ジル・ブランシュ嬢。まさか、かつての聖女の血筋がこれほどまでに堕落していたなんてね」
床に這いつくばるように押さえつけられたわたくしに、殿下は蔑みの眼差しを寄越す。しんと静まったホールに、ゆっくりとざわめきが戻る。まさか、忠臣と名高い公爵家が……などと誰かの囁きも聞こえてくる。
何が起こったのか理解が追いつかず、涙すらも出てこない。
わたくしは……父は、家は、いったいどうなるのか。
我がセルリアン家は、遠く聖女の血筋を伝える家系だ。
その昔、もう伝説としてしか伝わっていないほどの昔、天より遣わされた聖女と勇者となった王子が結ばれ、セルリアン家の開祖となったという。
その後、代を経るごとに聖女の血は薄まっていったが、それでも聖なる血筋であることに変わりはない。
わたくしは、幼い頃に発現した癒しの力のおかげで、その聖女の血が濃く出たのだと言われていた、
「癒しの乙女」
「聖女の再来」
そう呼ぶものも多く……だからこそ、王太子殿下の婚約者にと選ばれたのだ。
けれど、その癒しの力は歳とともに弱くなり、今ではもう、ほんの少しの擦り傷の血を止めるだけで精いっぱいだ。
けれど、そこに本物の聖女が現れた。
青みがかった黒い髪は、伝説にある聖女そのもののように美しい。
それに何より、彼女はわたくしなど足元すら及ばないほどに強い、完璧な癒しの力を持っていた。
その、彼女の存在に焦ったわたくしが、彼女を亡き者にしようと画策している……というのが、ここ半年ほどまことしやかに囁かれてきた噂だった。
もちろん根も葉もない噂だ。
王太子殿下のことはお慕いしていたが、彼女が真実聖女であるなら、わたくしが身を引かざるを得ないのは必然であるとも考えていた。
それが、王家の忠臣たるセルリアン家に求められる役目なのだから。
カツカツと靴を鳴らして、誰かが近寄る気配がした。
押さえつけられた状態で顔を向けることは叶わなかったが、視界に入った靴に、男性であることはわかった。
「殿下」
落ち着いた低い声が、王太子殿下へと呼び掛ける。
「ふぇ?」
マリアンヌ嬢が、淑女らしからぬ気の抜けた声をあげた。
「え、北方辺境伯令息ジョスラン・ナタナエル様……? ここで登場だったのね。じゃあ、私、フラグ全部立てられてたんだわ、やった!」
いったい何の話かと思う。マリアンヌ嬢は、何を言ってるのかしら、と。
「王太子殿下、処刑は全て執行されました」
「ずいぶん早かったんだな」
殿下も、さすがに驚いた顔で彼を見返す。
彼は何でもないことのように軽く頷き、わたくしへちらりと視線を投げた。
「陛下のご意向です。セルリアン家一門で残されたのは、こちらにいらっしゃるジル・ブランシュ嬢のみですよ」
けれど、そのことを疑問に思う間も無く、告げられた言葉に息を呑んだ。
「わ、わたくし、だけ? ……お父さまは? お母さまも兄様も、それに……下の妹は、まだ十にも満たない子供で……」
「全員……一族郎党、使用人達も含めてすべてです。禍根は残すべからずというのが、陛下のご意向ですので」
世界から音が消える。
あれほど響いていた声も何も聞こえない。
王太子殿下とマリアンヌ嬢が何かを言っているのに、何も耳に入らない。
無慈悲に告げられた言葉に、カタカタと身体が震えだす。
何かの間違いに違いないのに……なぜこんなに早く? 裁判にすら掛けられず、それに、使用人達まで? すべて? 全員?
「そんな……そんなのって……わたくし、ひとり……」
目を見開いたままただ震えるだけのわたくしに、彼が近づき、膝をついた。
「ああ、こんなに傷を負って」
くつくつと笑う彼の手がわたくしの顎にかかり、顔を持ち上げる。闇に輝く月のような双眸に笑みを湛えて、わたくしを見つめている。
「何……? 傷?」
「こんなに滴るほどにたくさんの血を流して……美しいね、あなたは」
何を言われているのか、わからない。
「お、お父さまは……お母さまも、皆、本当に、死んで……?」
「ああ、死んでしまった」
「そんな……」
「あなた以外はすべて死んでしまったよ。あなたひとりだけを残して、全員残らず殺された。首を括られ、あるいははねられ、あるいは焼かれて。
皆殺されてしまった、見世物となってね」
「何かの、何かの間違いなのに……どうして、そんな酷いことを……」
「そんなもの関係ない。証拠が上がってるんだ」
「証拠……証拠なんて、知らないのに、やってもいないことなのに、どうしてそんなものがあるの?」
「どうしてだろうね?」
楽しそうに笑って、彼は問う。
「どうして証拠なんてあったのかな……ねえ、ジル・ブランシュ? 聖女の再来たる乙女。あなたから滴る血は誰のせい?」
「誰……の、せい?」
「そう。誰の、せい、なんだい?」
わたくしはゆっくりと顔を上げて……視線の先にマリアンヌがいた。
優越と嘲りと憎しみの笑みを浮かべて、マリアンヌがわたくしを見ていた。
「おまえ、なの?」
「え?」
「おまえが、わたくしたちに……おまえなのね!」
「え、なに?」
身じろぎをするわたくしを、近衛たちが抑え込む。おとなしくしろ、暴れるなと鋭く囁き、力任せに床に押さえつける。
「許さない……許さないわ」
「早く縄を打て!」
「――呪ってやる。そうよ、呪ってやるわ」
「謀反人を連れて行け!」
「わたくしの全身全霊をかけて、お前も、この国も、王も……何もかも、すべて呪ってやる! わたくしの血にかけて! この、聖女の再来と言われたわたくしの、血と名にかけて、お前たちを呪ってやる!」
* * *
ああ、堕ちた。
ようやく、堕ちた。
聖なる乙女の末裔は堕ちた。ようやくこの手に堕ちてきた。その絶望は蕩けるように甘く、その嘆きは咲き誇る薔薇のように芳しい。
呪いの言葉は、まるで愛を囁くように甘美な響きとなる。
くっと口角を釣り上げるわたしのそばへ、あの娘が駆け寄った。
「ねえ、ねえ! ジョスラン・ナタナエル様でしょう? ねえ、私、マリアンヌ。マリアンヌ・デボリアよ」
「マリアンヌ、何をしている?」
仔犬がじゃれ付くように纏わり付く、やたらとわたしの身体に触れてこようとする娘を、王太子は力任せに引き寄せた。
「ウィル様、北方辺境伯の嫡子のジョスラン・ナタナエル様よ? ようやく会えたの。私、ジョスラン様に会いたくて頑張ったの」
「マリアンヌ、何を言っている」
困惑した表情の王太子が、しかし、油断なくわたしを見つめる。
「それにマリアンヌ、北方辺境伯には息子などいない。伯には娘だけだ」
「え?」
「辺境伯には娘ひとりのみ。奥方を亡くしてからずっと、彼は愛妾も持たずに独り身を貫いている。それに、少し前、娘の入婿が爵位を継ぐと届けもあった」
「そんな、嘘。だって、あの方は……」
「お前は何者だ」
くすりと笑うわたしを、王太子が睨みつけた。
騎士団長の令息がその正面に、庇うように立つ。ほかの取り巻きたちも、王太子と娘を囲んで立つ。
「でも、だって、北方辺境伯の嫡子であるジョスランは太古の王の血を引く隠しキャラで、剣術も才覚も攻略対象の中ではダントツで……逆ハー王太子エンドの後に現れる彼を攻略すれば、ジョスランの王位復活トゥルーエンドが見られるってサポートも言ってたのに……」
「マリアンヌ、いったい何を言ってる? 太古の? 王位復活? こいつも逆賊のひとりということか?」
混乱しきった娘は、自分が何を口走っているのかわからないのだろう。
娘の言動に、王太子と取り巻きたちは戸惑いの視線を交わす。
「――遥か昔、名無き者と呼ばれるものがいた」
「何を……」
「名無き者は強大な力を持っていたが故、人々から王と崇められた」
訝しむ王太子は何かを察してか、ハッと目を見開く。
「力故に名無き者は歳を取ることもなく、絶対的な強者として立ち続けた。
そこに現れたのが、勇者と名乗る逆賊と、それを支える聖女と名乗る女だ」
「お前は……伝説を愚弄するのか?」
「愚弄したのはお前たちであろう?」
何を、と言いかける王太子を放って、わたしはくつくつと笑う。
いっぱいに目を見開いた娘が、もう堪えられないとまた口を開く。
「だ、だって……私、知ってるのよ? ここは私が前世でやり込んだ乙女ゲームの世界なんでしょ? 私はこの世界のヒロインで、だから誰からも愛されるし、サポートが助けてくれるから好感度上げるのも簡単だったし……サポートが言ったとおりにしたから、悪役令嬢のざまぁだってうまくいったのよね? 証拠だって、サポートのアドバイスどおりにしたらサクサク集まったのよ? それに、やっとジョスラン様が出てきたからいよいよ本番だって、だから私……」
「マリアンヌ、お前もどうしたんだ。さっきから何の話をしている?」
とうとう我慢しかねて、わたしは笑い声を上げた。
ひとしきり笑い、腕をひと振りして呆然とするばかりの近衛たちを弾き飛ばすと、黒く染まり始めたジル・ブランシュを抱え上げる。
この広いホールの中、未だ残っていた人間たちの中から小さく悲鳴が上がる。
「その妄想が真実だと、何を根拠に信じた?」
ひくりと、娘の顔が引き攣った。
思えば、別世界からの生まれ変わりだというこの娘の妄想を後押しするのは、本当に簡単だった。
心に渦巻く現状への不満と己は特別だという過信を育て、あとは娘の妄想どおりに事が進むよう、采配するだけ。
実に簡単な仕事だった。
「だって……だって、何もかもが私の知ってる通りに進んで、シナリオどおりにイベントだって……!」
「なぜお前の思いどおりに進むのかと、疑問すら持たないのだからな。お前の傲慢さと愚かさには、おおいに助けられた」
「……どういう、ことなの?」
「ああ、お前に貸していたものを返してもらわなくては。お前には過ぎた力だ。それに、もう不要だろう?」
指を鳴らすと、娘の身体からふわりと抜け出した光の玉が、ジル・ブランシュの身体へと溶け込んだ。
「それと、どういうことか、だが――お前のおかげで、聖女がわたしの手に堕ちたということだよ」
「貴様……貴様、まさか」
「そうだ、感謝の意を表さねばな」
「何が感謝か!」
「お前たちだけはこのままいられるようにしよう。お前たちの引き起こしたことなのだ。その目で最後まで見届ければいい」
――聖女はもういない。聖女が現れる余地も潰した。
勇者よ、今回はわたしの勝ちだ。
お題:貴方から滴る血は誰のせい?
悪役令嬢、流行ってるから軽率に乗っかりたかった。3周遅れくらいで。
婚約破棄でくっそざまぁ展開に力技で持ち込むほどの悪事ってなんだろうかと思ったら、やはり大逆罪かなと思った。
やはり謀反人は一族郎党速やかに根絶やしにしないといかんよね、って歴史がたぶん証明している。よくわかんないけど。
この後、聖女堕ちしたジル・ブランシュは復活した魔王とくっついて魔女王になり、打ち捨てられていいようにされた王太子殿下と取り巻きが勇者とその仲間として覚醒、自称ヒロインちゃんも聖女としての真の覚醒を果たして魔王と魔女王に反旗を翻す熱い展開があってもいいかもしれない。
が、この王太子殿下はともかく自称ヒロインちゃんにそこまでの根性があるかどうかは、甚だ疑問であるよ。