俺にしか見えない世界
神社の石階段を降り、木々の屋根を抜ける。
スバルは隣をちらりと見る。
昨日の夜はわからなかったが、改めて隣に立ってみると、玉兎はかなり長身だった。百八十半ばはあるだろうか。隣に並ぶと、二十センチくらい差があるけれど……羨ましくなんて決してない。
少し歩くと、橋姫こと葛の住む橋に差し掛かった。
「スバルさま!」
「ああ、葛」
欄干から軽やかに飛び降り、一直線でスバルに抱きつく。
葛は、しばらくそうしていたのだが、覗き込んできた玉兎にぎょっと目を剥く。
「はっはっは。俺は玉兎。驚かせたか?」
一瞬固まり、玉兎からぷいっと顔を背けた葛は、スバルをぎゅっと抱きしめた後、一目散に川のほうへと走っていってしまった。
「嫌われてしまったか」
大して動じた風もなく言う玉兎を横目に、スバルは葛の去った方向を見ていた。
「橋姫か。さては、彼女も俺の美しさに嫉妬してしまったのかな」
顎に手を当て、玉兎は考え込む。割と本気のようだった。
「それはないだろ。行くぞ」
「案外はっきりと物を言うのだな。スバルは」
「あれは何だ?」
「俺たちが通う学校だな」
「あそこは?」
「商店街。食べ物とかを売ってる場所だ」
「して、このもふもふするものは何だ?」
「猫」
町の郊外まで足を伸ばして金烏のことを聞いてみたが、めぼしい情報は得られなかった。結局、葛の橋まで戻ってきてしまった。
休憩を兼ねて、堤防に並んで腰掛ける。玉兎は、そこで見つけた三毛猫を撫でていた。
ほんわかしたオーラをかもし出している玉兎から、空へと視線を移す。
相変わらず雲が覆って暗い。日が沈むにはまだ早い時刻なのに。
「そろそろ金烏を見つけないと、こちらにも影響が出てくるか」
「影響?」
「金烏は太陽だからな」
意味を掴み損ねたが、玉兎は答えてくれる気配はなかった。
ひとつ息をついたスバルは、おもむろに立ち上がる。
「ケイの進捗を聞きに行こう」
「そうだな」
名残惜しそうに猫を放した玉兎もスバルにならった。
葛の橋に差し掛かる時、小学校低学年くらいの男の子ふたりと、彼らより一・二歳年上の少女がはしゃぎながら、横を駆け抜けていった。
その光景にふと脳裏によぎるものがあった。
『真神さま。ケイとケイトを、はなればなれにしないでください』
幼い自分の声だ。ちょうど男の子たちと同じくらいの歳の。
これは神への願掛けだった。本当は褒められるものではないのだが……あのとき真神はなんと答えたか思い出せない。
ふと、黒い風が視界をかすめる。
「……?」
そちらを向くと、水気をまとった重い風は見る間に増えていく。先を歩く玉兎は気付いていないようだ。
ざわりと木々が騒ぐ。嫌な予感がした。
「なぁ、ぎょく――」
呼びかけた言葉は風に掻き消える。
そして気付いたときには、黒い水に包まれていた。
水がしたたる音が聞こえる。
目が慣れると、ぼんやりと明かりが見えてきた。その元に浮かぶ植物の橋と、小さな背中。
「……葛」
思わず名を呼ぶと、欄干に腰かけた小学校低学年くらいの少女はゆっくりと顔をあげる。その表情は抜け落ち、ぎゅっと拳を握っていた。
「――心にもあらでうき世にながらえば 恋しかるべき夜半の月かな」
小さな唇から固い声が発せられる。
……確かこの歌は、百人一首のうちのひとつだったはずだ。
「とある帝の悲痛な歌。月を羨む人の子の」
歌うように紡がれる葛の声は、表情と同じく感情に欠けていた。
「ねぇ、スバルさま。スバルさまは、わたしたちを映す。他の人とは違う。自覚しておられるでしょう?」
凍えた声で言い、つた草で作られた欄干から降りて近づいてくる。そして数メートルの間を開けて、じっと見据えた。
今の葛は、いつもの橋の守護神ではない。嫉妬に狂う女神だ。
「何が言いたいんだ」
しかし、それにひるむほど弱くない。しっかりと葛の目を見返した。
「神と人の境界にいるのは、さぞお辛いでしょう。こっち側で楽しく可笑しく暮らしましょう?」
小さな腕を大きく広げて熱っぽく言う。
子どもの姿をした女神の申し出は、とても魅力的だった。けれど――。
「――行けない」
葛が首をかしげる。尼そぎの髪がさらさら揺れた。その無機質な視線をとりあえず無視し、ゆっくりと息を吸い、吐き出す。
「確かに辛いな。でも、俺は好んでここにいるんだ。それに今は、あいつがいるから」
葛が艶やかな唇を噛む。その反応を見て、スバルは自分が笑んでいることに気づいた。
「あの狼に、スバルさまが守れるとお思いで……!?」
「あいつなら守ってくれる。でも、守られるだけじゃ嫌だ」
そう断言し、スバルはひざまづいて葛の頭に、ぽんと手を置く。
周りが明るくなってきている気がした。
「葛、俺はそっちには行けない。……けど」
一度言葉を切り、苦い笑みを浮かべる。
「傍にいることは許してくれるか?」
頬を膨らませていた葛だが、くしゃっと顔を歪ませた。
「……スバルさまは、ずるいです」
葛が、泣いているような笑顔を浮かべた。
と同時に、つたの橋とふたりの姿は太陽のような光に包まれた。
ずるいのはお互い様じゃないかな、と思うスバルであった。
蒼い闇に浮かぶ金の三日月。
中秋の名月とは、このことを言うんだろうな。
「真神」
少年の声に名を呼ばれた。
そちらを向くと、白いマントを肩にまとった金髪の少年と、今夜と同じ色の青年がいた。
相変わらずのでこぼこコンビだなぁ、と思うケイである。
「座れば?」と本殿の階段を示すと、ふたりは口々に礼を言って腰掛ける。
「スバルはどうした?」
「さぁ」
玉兎の問いに、ケイは首を振る。
親友は戻って来たかと思うと、彼の母に呼ばれてそのまま家に入ってしまったのだ。
「スバルのお母さんは、優しげなのに豪快だからねぇ」
そう笑うと、玉兎も「なるほど」と笑みを浮かべた。
「まぁ、スバルも金烏も帰ってきて何より」
ひとしきり笑った後、そう切り出した。
玉兎と歩いていたスバルは、橋姫であり水を司る葛の作りだした世界に取り込まれた。
そこで何があったかは置いておいて、とりあえず帰ってきた。玉兎の探し人を連れて。
金烏がなぜ取り込まれたのかと聞いたら、
「金烏は綺麗だからなぁ。嫉妬されてしまったのだろう」
玉兎が何でもないように答え、「綺麗言うな」と金烏がつっこむというコントじみた回答があった。
色々と察したケイが出した結論。
人であれ神であれ、女性を怒らせちゃダメだな。
――これ一択である。
しばらくすると、スバルが帰ってきた。その手には大ぶりな皿を持っていた。
「おや。月見団子か」
皿に載った丸い団子を認めて玉兎が言うと、金烏は声もなく、がたっと立ち上がる。
「それ、どうしたの?」
ケイが訊くと、平坦な声音でスバルは答えた。
「作ってたから、持ってきた」
「ほう。うまそうに出来ているではないか」
満足げにうなずく玉兎。
「……もらってもいいか?」
なるべく平静を保とうとしている玉兎だが、空色の目をきらきらと輝かせて、興奮を隠しきれていない。
「ご自由に」
それを見たスバルは、本殿の渡し廊下に皿を置く。
「感謝する……!」
金烏はさっそく白玉に手を伸ばし、むぐむぐと食べ始める。
「では、俺ももらうとするか」
小柄な少年のそばで、満月のような団子をほおばり、玉兎も目元を和ませた。
スバルはケイの隣に腰かける。
そして、ぼんやりと。でも穏やかな表情で、金色の月を見ていたのに気づいたのは、きっと自分だけだろう。
月見団子の匂いにつられたのか、草木の精霊たちが顔を覗かせ始めた。
それらを手招きしながら、スバルを見て微笑む。
――心にもあらでうき世にながらえば 恋しかるべき夜半の月かな
――人間であるスバルにとって、この世界は辛いことが多いだろう。だがもし、彼の傍に長く居られたら、この、美しい夜空を親友は懐かしく思ってくれるだろうか。
「ケイ? 俺の顔に何かついてるか?」
訝しげな声に我に返ると、スバルの切れ長の瞳が自分を見ていた。
「なんでもないよ」
にっこりと笑ってケイは言う。親友はまだ怪訝な顔をしていたが、「まぁいいや」と月に視線を戻した。
「……いつまで、一緒にいられるだろう」
美しい三日月の空に、そうつぶやく。
「いつまでも。ずっと傍にいるさ」
親友は静かに、だが力強く肯定する。
「あ、ケイトのことも忘れるなよ?」
「それはないよ。たったひとりの姉さんだもん」
茶化すように笑うと、スバルも控えめに微笑む。
ふと、スバルが何かに気づいたように立ち上がった。
「スバル?」
呼びかけるが、応えてくれる声はない。暗い砂利道を迷いなく歩いていく姿に首をかしげる。
「金烏。ちょっと」
しばらくして戻って来たスバルは、金烏を呼んだ。
「どうした?」
月見団子を飲み込んで答えると、親友は後ろに隠れた少女を優しく引きずり出す。
スバルの背後に戻ろうと、もじもじしている葛の背を押し、何事かを促している。すると、意を決したように金烏を見た。
「ご、ごめんなさい」
頭を下げた拍子に、黒いストレートの髪がさらっと揺れる。
金烏は無言だったが、ふいに団子の載った皿を持ち上げて葛に差し出す。そして、太陽の笑顔で言った。
「一緒に食べようよ」
一瞬虚を突かれた葛だったが、明るい笑みを浮かべて頷いた。
今夜は、太陽が月に遊びに来る日。
人と霊魂と精霊、そして神。絵に描いたように美しい月は、すべてを平等に照らしていた。
おはこんばんにちは。音操でございます。
名前の「音操」は「ネク」とお読みください。
今回のお題は「百人一首」。ファンタジーの一編でございます。
得意分野のファンタジー。楽しく書かせていただきました。いえ、小説を書くときはいつも楽しいです。
今回は、月をテーマにした一首を選びました。
月は、古来から日本人の心に寄り添っていて、神秘的な力もあるようです。
また、八月十五日の夜の月のことを、「中秋の名月」と言います。「仲秋」は秋を三つに分けたときに、八月が真ん中にくるからで、「仲秋」と言うと八月全体のことを指してしまうのです。
さて、調べれば出てくる情報はこれまでにして、月と桜って風流ですよね。いつか書いてみようかな。
小説のネタは、日々尽きません。むしろ、書きたいものが多すぎて時間が足りないくらいです。
これからもどんどん書いていきますよ! ……なんて。
最後に。
ここまでお読みくださり、ありがとうございます。
アドバイスをもらおうとしたら丸投げされたり、「とりあえず頑張れ」とお言葉をいただいたり。そんな皆様に、ここで感謝を申し上げます。
誤字脱字、文のつながりなどにおかしい点があっても目をつむっていただき、もっと読みやすく、誰かの心に残るような作品を書いていきたい所存です。
それでは、また。