狼と月と
幼い頃からよく、奇妙なモノを見た。
自分だけに見えているらしいそれらは、霊魂とか精霊とか、神などと呼ばれるモノの類。
木々の合間から濃い灰色の空が垣間見えた。
朱く塗られた一の鳥居をくぐって長い石段をのぼる。二の鳥居をすぎると、質素ながら立派な拝殿が見えてきた。
それと同時に、銀の混じった白い髪を揺らす親友の姿も。
「あ、スバル。おかえり」
彼は邪気のない笑顔で迎えてくれた。
「ただいま、ケイ」
抑揚もなくスバルは答える。と、そこに母の声がかけられた。
「あら。おかえりなさい」
「うん、ただいま」
答えると、母は「ご飯出来てるからね」とにこやかに言い、社務所の奥に入っていった。
母の瞳がケイを素通りする。
「今日の朝も大変だったみたいだね」
ほけほけと笑うケイ。
今朝は、少女の神の『構ってくれ攻撃』に学校を遅刻しそうになったのだ。
「まぁ、好かれるのはいいことだよ」
苦汁をなめたようなスバルに、気付いているのかいないのか、ケイは楽しそうに言った。
「スバルさまー!!」
「うわっ」
スバルの胸に飛び込んできた少女を思わず抱き止める。
「やぁ、葛」
「真神さま、こんにちは!」
葛と呼ばれた小学校低学年くらいの少女は満面の笑顔で答え、腕に収まっている。
橋のたもとに住まうこの女神は「橋姫」とも呼ばれ、何かにつけて遊びにやってくる。ついでに今日の朝、絡んできたのも彼女だ。
「相変わらず、スバルが好きだねぇ」
そして真神とは、狼を神格化したもので、この神社に祀られている神である。ケイは人間と、そうじゃないモノの両方からそう呼ばれる。――この白髪の親友は、普通の人には見えないのである。
抱かれながら満足げに笑う葛と、にこにこしているケイを見、スバルはまた、ため息をつくのであった。
両親から、普通の人には見えない世界について、それは特別なことだから誇りに思いなさい、とよく言われた。
けれどあくまでも、あなたが生きるのは普通の人の目に映る世界なのだから、それを間違えてはいけないとも言われた。
幼い頃から、自ら人と違うことについて話すことはしなかったものの、何もないところで立ち止まっていたりする姿を目撃されるたび、少しずつ遠巻きにされていった。その頃にはもう、反論することさえ面倒だった。
どうして自分だけが、と思ったことは、数えきれないほどある。
でも、自分にしか見えない美しいものと、神様の親友を得ることができた。
夜風が心地よく吹き抜けていく。
拝殿の奥にある同じような建物――本殿の入口にある外に面した階段に腰かけて、ぼんやりと暗い空を見上げた。
「夜更かしなんて珍しいね」
涼しげな着流しに身を包んだケイは、金色の大きめの瞳を和ませた。
「……眠れなくてさ」
言葉少なく答えると、「そっか」とケイは隣に座る。
「ああ、明日は三日月か。それもいいなぁ」
唐突にケイが口を開いた。話が別の方向に飛ぶのは子供のころから変わっていない。
「へぇ……。お前は満月のほうがいいって言うと思ってたけど」
そんなことを気にすることなく、素直に感想をもらすスバルである。
「満月も好きだよ。やっぱり狼と関連付けられるのは満月だしね」
「……そういえば、北欧神話で月を喰う狼っていたような」
「そうそう。あれ格好いいよね」
目を輝かせるケイに、ため息をついた。
「狼の神様であるお前がそれ言うって、どうよ」
「神様だって憧れていいじゃん。人間に近いとなおさらね」
あっけらかんとした親友である。
もうひとつ息をつくと、細い月に目を戻した。
「はっはっは。月は、欠けてるほうが雅だという者もいるのだがな」
唐突に、隣からマイペースな声が聞こえた。ケイと顔を見合わせ、ふたりで隣を確認した。
藍色のさらさらした短い髪、濃紺の上質な狩衣。髪と服にはそれぞれ金色の飾りをつけている。見た目は二十歳半ば。
髪よりも薄い色の瞳は、遠くを眺めていた。
「……どちら様?」
不審に思いながらも、抑揚に欠けた声で尋ねる。
「玉兎と呼ばれる。玉のウサギさ。ちと休ませてもらった」
ははは、と鷹揚に笑う白皙の青年。ふと視線をケイに向けると、目を和ませた。
「邪魔しているぞ。真神」
「いえいえ。久しぶりだね、玉兎」
どうやら知り合いだったらしい。
「うむ。お主はこちらに来れないからな」
「あー……そうだね。ごめん」
「謝ることはない。お主には守るべき場所がある。それだけのことだ」
霊魂、精霊。そして神。この三者の境界はどうやら曖昧らしい。
ケイの知り合いということは、ひとまず悪いモノではないのだろう。しかし、この青い夜の色をした青年が何者なのか、判断がつかないのである。
「そこの」
「ん?」
玉兎に呼びかけられて、そちらに向くと、目の前に絵に描いたような目鼻立ちの美しい顔。
じっと見つめてくる瞳の中に、細い金色の三日月があるのに気付いた。
「この世で生きるのが、辛くはないか?」
唐突の問いかけにもそうだが、内容にも目を見開く。
生きるのが辛い。
――思ったことは確かに、ある。
見える世界と、見えない世界。人の身でありながら、その境界に在るのは出過ぎた真似だとわかっている。
わかっているが……今は、大切な親友がいるから。
「辛くない」
月の差す瞳を見返し、きっぱりと答えた。
一瞬の間を置き、玉兎は細い体をそらして、さも可笑しそうに笑い出した。
「あっははは! 真神よ、良き友を得たな」
なおも笑っている玉兎に、ケイも誇らしげに笑い返す。
「自慢の親友さ」
「おいケイ、買いかぶり過ぎだ」
すかさず言うと、親友は「いや、事実だし」と取り付く島もなかった。
「……そういえば、玉兎はどうしてここに?」
ふと思いついたスバルが尋ねると、玉兎はぽんっと手を打つ。
「そうだ。金烏――金色のカラスと書くのだが、見ていないか? いなくなってしまってな」
その金烏というのは背の低い少年の姿で、金色の髪と青い瞳で綺麗な顔をしているという。
首を横に振ると、玉兎は困ったように頭をかいた。
「仕方ないな。他をあたってみるとしよう」
そう言って立ち上がろうとする玉兎に、スバルは無意識に声をかけていた。
「……何かできること、ないか?」
一瞬遅れてケイも「俺も手伝うよ」と名乗りを上げる。その声が、少し微笑んでいたのは気のせいだろうか。
ふたりの答えに、玉兎は端整な顔をほころばせた。
「すまんな」
「「大丈夫さ」」
ケイとスバルの声が重なる。驚いて顔を見合わせた。
玉兎は「よきかな」とまた笑い出す。
金烏の捜索は、次の日に持ち越しとなった。
日曜日。
休日なのも手伝って、今日は朝から参拝客が多い。厚い雲のせいで薄暗いけれど。
朝のお勤めを終えて本殿に戻る。もちろんその間も、参拝客への挨拶を忘れない。
集合場所に指定した本殿は、参拝客からも両親の目からも触れない、密会には最適の場所である。
「スバルって、変なところでお人好しだよね」
一番に来ていたケイが、開口一番に言った。
「変なところ?」
「平気で人じゃないモノの手伝いしちゃうところ」
何気なく、ずばりとケイは言う。
「…………」
それに、少し考えてしまった。
自分にしか見えない世界で、自分にしか聞こえない悲嘆があるのであれば、他に誰が手を差し伸べるというのか。――これが、スバルにできることだと思っている。
そう伝えたら、盛大なため息をつかれてしまった。そして、十七にしては幼く見える顔をむっとさせて、スバルの額を指でつつく。
「それがお人好しだって言ってんの。人はね、他のモノから見れば無防備すぎるんだよ」
襲われたとしても、助ける者がいない。身を守るすべも持たない。――赤子も同然なのだ。
「自分の身は守れるさ……多分」
つつかれた額を押さえながら、スバルは小さく反論する。
これでも、神社の跡取りだ。
知識や資料はここの倉庫に大量にある。それを片っ端から読み漁っているし、ちょっとした術の修行もしている。多少の護身はできるはずなのだ。
ケイは肩をすくめる。
「ま、スバルが自立しちゃうと俺の立場ないからね」
「そこかよ」
そんな会話をしていると、夜空より青い狩衣が近寄ってきた。
「あ、玉兎。おはよう」
ケイがにこやかに挨拶すると、スバルは口を開く。
「金烏が行きそうなところとか、わかるか?」
尋ねられ、数分考えた玉兎は顔をあげた。
「わからんな」
「タメてそれ!?」
真っ先につっこむケイである。
当の玉兎は悪びれる様子もなく笑うだけだった。
「……とりあえず、玉兎と俺で外を見に行ってくるから、ケイは周りの精霊たちに訊いておいてくれ」
ケイはスバルの申し出に、二つ返事で答える。
「あ、了解」
こいつもこいつで切り替え早いな、とスバルは心の中で密かに思うのであった。
灰色の雲の下。
狼の祭神と藍色のウサギ、そして彼らを映す人の子で構成された、小さな捜索隊の結成を見る者は、誰もいなかった。