今から君の唇に
今から君の唇に――
七々和幸は人差し指をこちらに向ける。指の腹には真っ赤な粉末がびっしりとこびりついている。
「――この粉末唐辛子を塗りたくります」
「やめろ!」
私は今にも触れてきそうな指をがっしと掴んで、自分から遠ざける。ひたすら遠くへ、遠くへ――。願いが通じたのか、危険物に赤く色づいたそれは、和幸の鼻の穴にスポッと収まった。
アーと情けない叫び声が響く。私は背を向けた。走ってその場を逃げ出す。後ろから、悲鳴とくしゃみが一緒になった、奇妙な音が響いたが、無視した。
七々和幸は性質の醜い男だった。そう、まるで女のように粘着質な――実際後ろ姿だけみれば女のような痩せた体躯である。柳やしだれ桜の下に立ち、三角布を額にあてがったら超似合うぜアイツ。
初対面の和幸も今と同じく、ひょろひょろとして突き飛ばすと簡単に前に倒れてしまいそうな、弱弱しい人間に見えた。
実際突き飛ばすと面白いように転んだ。
ナイススライディング! 内心ガッツポーズを決めた私に、顔だけなんとか引き上げた和幸は、擦りむいた額をこちらに向けて、声の主を探るように目を細めた。泣くか喚くかすればまだ反応のしがいがあるものの、和幸は無言でただこちらを見上げた。手を貸すタイミングを逃して、まだ幼くいたいけな私はアッカンベをして走り去った。
唐辛子を鼻に突っ込んだ和幸を置いて走る間、私はそんな過去を思い返していた。
えっとどこまでいったっけ、――そう、和幸の性根の醜さについてであった。といってももうそう語ることもない。
転んだまま反応のない気味の悪い子供が七々和幸という名前であると知ったのは、それから一週間後のことである。
私はすっかりその出来事を忘れていたから、はじめ転校生といって教壇に先生と共に上がるその男子を、他の同級生達と同じように、なんだかよく分からないが転校生という響きにわくわくしながらただ紹介を待っていた。
和幸は黒板に名前を書いた。変な名前、と思ったような気がする。
こちらを向いて名乗る時、和幸は真っ直ぐに私を見て、「なな、かずゆきです。よろしく」と言った。和幸の額には大きな絆創膏がはりついていた。私は「その頭、でっけーばんそーこー」と指をさして笑った。皆も合わせて笑った。和幸は俯いた。その一瞬の後に、教室の真ん中に座る私に、和幸は突進してきた。
一瞬何が起こったかわからない私の顔を、和幸は拳でぶん殴った。先生は和幸を怒鳴ろうとしたけれど、その後すぐ躊躇して、結局二つの名前を大声で咎めた。私が反射的に和幸に掴みかかって、その絆創膏つきの額に頭突きを食らわせたからである。和幸は昏倒した。私は石頭だった。
和幸はクラスの中である程度の地位を確立した。それまで教室のボスだった私にけんかを売り、見事一週間後、堂々と登校して見せたからである。
二人のボスの存在に、教室は沸き立った。私は面白くなかった。和幸はクラスの皆に親切だった。
――「けんりょくにおごらない、だれにでもやさしい、まさにリーダーのかがみだ!」
覚えたての言葉を声高々に、初めに和幸に付いたのは、今まで私がパシっていたメガネであった。メガネを和幸に取られて以来、私は宿題を自分でする羽目になった。その後も、私が振るう権力は「おうぼう」だとされ、和幸陣営は膨らんだ。私はますます面白くなかった。和幸は私の取り巻きを、卑怯な方法――皆は頑なに認めないが――で着々と自分の側に付けていった。
――これは復讐だ。初対面で蹴り飛ばし、傷を負わせた私を恨んでいるのだ。それで、私をクラスで孤立させようと躍起になっているのだ――
そして気づけば、私の側には、幼なじみのよしみでかろうじて繋ぎとめている増野功治一人しか残っていなかった。
――アイツはヤバイ。
それからの私は必死こいた。功治まで取られてはたまらないと、暇さえあれば功治を側に置いて、和幸に付け入る隙を見せなかった。その甲斐あってか、功治は小学校から、中学校、高校まで上がった今も、決して私を一人にしない、頼れる幼なじみである。代償として、私は当時の教室の面々から、「勝負から逃げた卑怯者」のレッテルを貼られた。
もう絶対同窓会行ってやらねえ。
――私はふと顔を上げる。覚えのある通りだった。当然である、私はこの家から、今朝も登校して、学校へ行って、その帰り、あの卑怯者に捕まって――とにかく、ここまで逃げ切り、無事帰路についていたらしい。
今朝も通った我が家への道のりに足を任せようとして、私ははたと立ち止まる。この行動は、もちろん和幸の予想の範疇であろう。私は四ツ角まで歩いてから、家とは正反対の方向へ曲がった。功治の家に避難することにしたのである。
「――あら、ななみちゃん、久しぶりねえ。功治、今出てるんだけど、すぐ返ってくると思うから、二階で待っててちょうだい。いやねえ、夕飯の買い物頼んだんだけど、あの子ったら要領悪くてねえ、何をこんなに時間かかってるのかしら。ごめんなさいね、ちょうどおやつがあるから、持ってって食べててね。おばさん、ちょっとお隣の奥さんところに行ってくるからね、楽にしててちょうだいねえ」
功治の部屋はいつ来てみても半分片付いて、もう半分は荒れている。足の踏み場は十分あるが、大抵脱ぎ捨てたパジャマや靴下がベッドの周りに散らかっているのだ。
ジュースとお菓子の載った盆を短い足のテーブルに置くと、壁の側に積み上げられている漫画を手にとって、床にしゃがみ込む。読み耽ってどのくらいだろう、そう経たないうちに、玄関の戸が開く音がした。腰を上げようとして、私ははっと息を詰める。
――何をこんなに時間かかってるのかしら。
おばさんの言葉が蘇る。まさか、功治はすでに和幸の手に落ちているのではないか。今玄関から階段を上がってくる足音は、本当に功治なのか――。
ばん、と、私の想像を打ち破って扉は開かれる。とっさに漫画を頭から被った。頭上から呆れた声が降る。
「ナミ、何やってんのお前」
「……功治?」
くたびれたTシャツ、裾の擦り切れたジーパン、本人は寝癖ヘアと言い張るも、実のところはただの不精頭……どう見ても功治だった。
「おかえり、どこからどう見ても功治」
「お前今すごい失礼な事考えなかった?」
「ところで、外で変態に会わなかった?」
功治は少し考える仕草をした。その右手は私にチョップを食らわせていた。質問を無視した代償を甘んじて受けながら、その答えを待った。
「回覧板には何もなかったけど……何、この辺今危ないの?」
回覧板をいちいち見てるとかカーチャンかお前は。といつもなら小馬鹿にするところなのだが、今はそんな悠長に戯れているゆとりはない。
「うん、超危ないの。変態な卑怯者がこの辺に出没してるの」
卑怯者、と私が口にした瞬間、功治の表情が緩んで、どっこいしょとそのまま座布団に座り込むとお菓子をつまみ始めた。
「なんだ、また七々の話か」
「なんだとはなによ」
「お前ときたらまた執念深く……いいかげんにしてやりなさいね」
「執念深いのは和幸でしょ。昔のことをうじうじネチネチと……」
「はあ?」
功治は一瞬ばかにしたように鼻をならした後、すぐ真面目な顔になって、また表情を緩める。汗をかいたジュースのコップを手にとって、一服、「まさかな」と呟いた。
「なに?」
「お前、アイツの気持ちに気づいてないってことないよな」
「もちろんわかってる!」
「ですよねー」
「アイツ、私の事が憎くてたまらないんだよ!」
功治は口に含んだオレンジジュースを噴出さないようにタコみたいな顔になって、やっとのことで飲み込んだ。肩を落とす。飲みきれなかった分が口の端から伝った。
「うわ、きたな」
「え、お前、マジで? マジで?」
功治は私の肩を掴んで前後に揺すった。つばが飛ぶ。目前のオレンジ臭から鼻を背けて私は応じる。
「意味が分からん」
「だから、――七々はお前が好きなんだよ」
「ふーん」
「うわ、マジかよ、マジで知らんかったんかよ。ていうか信じてない、その顔は欠片ほども信じてないな?」
「ったりまえじゃん。てかバカじゃん?」
功治はまたチョップを食らわせる。「こら、バカバカ言うんじゃありません」
「すまん」
「よし」
功治はチョップした辺りをぽんぽん、とはたくと、満足げにしかけて、また顔をしかめた。
「ねえ、ところでマジ? ほんとに、これっぽっちも、アイツの気持ち、知らないの?」
「功治、しつこい」
私が顔をそらすと、功治はちょっと距離を取って袖で口を拭った。
「……お前、もしかして、今日うちに来たのって」
「変態から避難してきた」
「やっぱりー」
頭を抱える功治に、私は冷たい視線を送った。ちょっと言ってやりたい。
「普通、好きな相手の顔に唐辛子塗りたくろうとしたりしないでしょ」
功治が怪訝そうに顔を上げる。
「カマキリの卵机に入れたりさ、読んでる途中の本から目の前で栞抜いたりさ」
「何その微妙な嫌がらせ」
「連絡網に載ってる番号から堂々と無言電話が掛かってきたりとかさ、かと思えば間違った連絡網回されたりさ、おかげで日曜日に誰もいない学校に来ちゃったりとかさ」
「……それ、七々が?」
「昨日は造花の一輪挿しが机の上にあった。今日の帰りは唐辛子持って校門前にいた」
「好きな子に、いじわるしちゃう小学生みたいな、そういうあれかな……なんて」
「ちなみに一昨日は、靴箱に封筒が入ってました」
「お、それっぽいじゃん! 中身は? なんて書いてあった?」
「何にも。画鋲がバラバラ入ってた」
功治は笑顔のまま動きを止めた、次の瞬間私の両手をつかんでテーブルの上にでんと置いた。されるがまま、表に返してやる。無傷である。
「んな怪しいもん、素手で触るわけないじゃん」
「――なんで言わなかった」
「誰にも言うなって、言われなかったから」
功治は肩で息を吐いた。「ひねくれもの」と、その口が動きかけて、ほかの事を呟いた。
「アイツ、俺に、ナミが好きだって言ったんだ……」
「嘘でしょそんなもん」
「嘘、かな」
功治は考えるのに疲れたみたいに首を振った。ポーズだけで、実際に緊張はそのままみたいだった。
「そうだな。嘘だなきっと。ごめんな、気づいてやれなくて」
初めは自分に、後半は私に、聞かせるために声にする。功治はどっと老け込んだような顔をしていた。
私は言った。
「私思うんだけど」
「うん」
「和幸にとっては、栞抜くのも、画鋲レター入れとくのも、たいした違いはないよ」
「それはたいした違いだろ」
「アイツ私が嫌いだもん。とにかく嫌がりそうなことを思いついてはやってるだけ」
功治はオレンジジュースを一息に飲み干して、真っ向から見つめてくる。その目に決意の色が見えた。
「――気づかなくてごめんな。これからはちゃんと守るからな」
「いらん」
「な、なぜに」
功治は拍子抜けしたようにこちらを見る。ふとまじめな顔をして
「もし俺の心配してるんなら……」
「いや」
「あ、そうですか」
「……功治が言われて信じたってことは、向こうもそれなりに考えて行動してたってことでしょ。発言の中身も気になるし。ちょっと今から聞いてくる」
「え? なんでまた唐突に……それに嘘だったんだろ?」
「いや、功治がほんとに信じてたみたいだから。もしかしたらガチで私のこと好きかもしれないですし」
「お前棒読みだぞ」
「うっさい。心配ならついてこい」
「仕方ねえ行くか。そんかわり危なくなったら代わるんだぞ」
「……」
「返事しろよ!」
私たちは連れ立って、お互い時間は違えど一度帰った道を引き返した。四ツ角までくると、その前で道を選びかねたように首をひねる人影がある。男にしては低いが、女にしては骨格の張ったその姿に、隣を勇み歩いていた功治が「げっ」と声を漏らして電柱の影に身を潜める。
功治は隠れてうかがうことになっていた。一対一の方が、和幸が本性を晒すかもしれないという功治の発案である。
功治の目配せに応えるより早く、人影がこちらに気づく。視線が交差した。
近寄ると、和幸は片手を広げるような仕草で私を迎えた。変わらない、私の嫌いな、人を問わず向けられる笑顔をたたえている。
互いの背丈の差がかろうじてわかる距離まで詰めると、和幸はくるりとこちらに背を向けた。首だけで振り向く。もう笑っていない。
「ついてきてください」
こちらに丸腰の背を向けて、悠々と自分の道を行く。男の癖に細い肩、そばに寄らなくても薄いとわかる胸。そして謎の敬語キャラ。
私が後ろから襲い掛かる心配を――まさにあの時のように、蹴とばされて地べたに這いつくばるなんて可能性を、これっぽっちも考えていない、リラックスした体で私を先導する。
――私はあの肩が怖い。異常な吸引力を持っている。誰もの全てを受け止める、和幸の受容的に広げられた両手が、背を向けていても見えた。
今だから白状しよう。私はいつだってこの男が怖かった。だって普通じゃない。昔の恨みがどんなに募ったか知らないが、十年も昔の子供の喧嘩に、今尚つきまとって嫌がらせをするなんて、理解できない。
他の人間にはいつだって、おそらく心底から慈愛の手を貸す用意がある人間なのだ。それだけでも私にはまともに見えないけれど、もうひとつ私の前に惜しみなくさらされる特殊性と相まって和幸は不気味だった。
――ああ、功治。
心の中で自然と一番親しい友の名を呼んだ。振り返らないが、必ず後ろについてきてくれている。
そして彼の先ほど語った言葉を思い出し、改めて胸が冷たくなる。あの功治が、和幸を疑わなかったなんて。
……功治が懐柔されたら怖い。私は功治をすっかり信じているから、気づかないうちに自分が死んでいたらと思うと怖い。
私は割とマジで、和幸に怯えている。
懐かしい風景が流れてゆく。足を止めずに、桜木の並木道の新緑を仰いでもみた。懐かしさにいっそうくっきり影を生む後姿を追って早足になる。和幸の歩調が緩められた。目的地の白く乾いた土を踏んで、和幸は校庭を横切った。遊具の並ぶ小道に入り込む。滑り台の前でその足を止めた。錆びた梯子に触れかけて、その手を引っ込めざまこちらを振り向いた。和幸はこちらを観察するように目を細める。
私は口火を切った。
「あんた私が好きなの?」
和幸は嘲笑した。
「なわけないじゃないですか。頭おかしいんじゃ?」
「お前、好きだっていったじゃねえか!」
「あんたすぐ出てくるな」
桜の幹の後ろから、飛び出して功治は喚いた。和幸は目を見張って見せた。そのままはにかむ。
「好きですよ。本人の前だと素直になれなくて」
「うわ白々しい」
功治が一瞬ほだされかけた自分を責めて頭を抱えるのを横目に、私は鼻を鳴らす。和幸は苦笑した
「二人で話したかったんですけど」
「……俺、じゃま?」
どちらともなく表情をうかがう功治。私は功治を責められない。誰もが絆される何かを、この卑怯者はいつだって放出しているのである。「そこにいて」とだけ頼むと、功治は頷いて私より一歩後ろに下がった。
「率直に聞くけど、七々、あんた私のことどう思ってるの」
和幸は笑った。何を今更とその顔が言っていた。それでも答えを待つ私に肩を竦めて応じた。
「率直に答える前に。僕のこと苗字で呼ばないで下さい。ななみさん」
嫌がらせに嫌がらせで返される。何の因果か和幸の苗字と私の下の名前はよく似ていた。その響きを互いに聞き間違えることが頻繁にあった。それが気に入らないのは、たぶん和幸と私との唯一認識しあった共通点である。
「和幸、教えて。私のことどう思ってる?」
和幸は満足そうに頷いてからあっさりと応じた。
「僕は、君が憎たらしい」
その答えは受け入れやすいものだった。想定していた通りで、かえって拍子抜けしたほどである。その代わり、功治が息を呑んでいた。その様子を確認して満足すると、私は和幸に、たぶん生まれて初めて礼を言った。
「ありがとう。よく分かった。それが聞きたかった」
「僕からも、君に聞きたい。君は僕をどう思ってる」
私は受け取ったとそっくり同じ言葉を和幸に返した。本心では「マジ怖い」だったが、それを今本人に告げるのはプライドが許さない。
和幸は意外に私の言葉を噛みしめた様子だったが、すぐまた人を舐めきったような顔に戻ると、「僕も、聞けてよかった」と呟いた。
「あっそ、じゃあね」
私は和幸を置いて踵を返す。そこにまだ縫いとめられたように立ち尽くす親友を見出して、その肩を叩いた。
「功治、帰ろう」
「ナミ、先に行ってて。ちょっと七々と話したい」
私は一瞬自分の行動の意味が無に帰したかのような絶望を感じたが、功治が柔らかく髪に触れてきたのと、その目が厳しい色で私の背後に向けられるのを認めて、やっとその言葉を受け入れた。それでも一人で帰る気にはなれなくて、声が届かない距離でそのやりとりを眺める。
始めは静かな調子で言葉をかける功治も、和幸の貼り付けたような笑みに次第に食って掛かるような態度をあらわにした。怒鳴るような響きがここまで届く。和幸は一瞬だけちらりとこちらを見て、苦い顔をした。その目がすぐに功治を睨む。私は、和幸が誰かを睨むのを初めて見た。驚きはすぐ安堵へ変わる。
きっと、これで功治はもう――。
二人で何度も通った道をまたたどる。行きとは打って変わって上機嫌の私を傍らにしながら、功治は考え込んでしまって、昔の通学路には見向きもしない。私は声をかけても無駄だと悟って、学校で飼っている堀の鯉にパンくずを放った。両手が空になるころ、功治は欄干の上から、一段水面に近い石段を踏む私を見下ろして言った。
「俺はアイツを馬鹿だと思う」
「和幸、学年首席」
そういう意味ではないと分かっていたけれど、私の中の認識と違っていたから、ふざけて返した。何も持たない両手を堀の上で表裏と返すと、群がっていた鯉がまた各々濁りに潜んでいった。
「違うんだよ。お前に関して、アイツは俺よりずっと馬鹿なんだ」
「なんだそれ」
功治はまっすぐな目を、ほんのり悲しげな色に染めた。私を見下ろしながら優しく緩む。
「俺に関してのお前も馬鹿だけどな」
私は何かよく分からないものが胸の中で沸き立ってたまらなくなる。鯉の餌を堀に備え付けのポリバケツから取り出して、手につかんでは、投げた。二度、三度と出来る限り遠くへ落ちるように放る。そこへ魚影が集まるのが見える。またつかみ取って、投げかけたそのパンの耳を、一つ口に入れた。業者から昼に出たばかりのパンの耳だった。懐かしい、いつも食べた味がする。成長期の私たちはいつだって空腹を持て余したものだった。
いつの間にか功治が一つ段を降りてきていた。
「……食べる?」
「幼なじみ舐めるなよ」
功治は私の手から奪ったパンくずを、むしゃむしゃと食べきると、ふうと息を吐く。
「なんか……鯉の餌って感じ。固いし」
「当たり前じゃん」
「だな」
四ツ角で功治と別れて、家に帰った私は、戸棚からラスクを引っ張り出してむしゃむしゃと食べた。
「おいしい」
それでもあのパンの味が、舌にこびりついて離れなかった。
一度だけ見た、あの、一人で鯉の餌をかじる和幸の姿も。