天才という凡才
敵は所詮天才と呼ばれる類の人間だ。才能があったともいえる。
天才…勉学にたとえるならば応用力が高い人間たちのことを言う。ここでいう応用力は見たことのある問題を解ける力ではない。見たことのない問題を解く力だ。世の中には三種類の優秀な人間がいる。
一つは努力によってその力を手にできたもの。
一つは才能によってその力を手にしたもの。
一つは才能を持ちながら努力を怠らなかったもの。
世の中にいる天才と呼ばれる類の人間は大体が一つ目か二つ目で、三つ目の人間はそうそういない。少なくとも今僕が退治している敵は三つ目の部類だろう。
ちなみに言うと、僕は所詮二つ目である。
理由は簡単。努力というような努力をせずたまたま精霊と契約し、召喚されて莫大な魔力を手にし、固有魔法がその努力を埋め合わせるものだったから敵に対して優位に立っている。
どれか一つでも抜けていればこいつら誰一人にも勝てない。これら三つの偶然がなければ、僕はただの偽善者で終わっている。
天才を努力が凌駕するという小説や漫画などはよくあるが、それで超えられる相手は実際のところ天才ではないのだ。
相手が三倍早く成長するなら三倍の時間で練習すればいい。こんな理論は意味がない。高々練習時間だけで埋められる差というもの…つまりは練習によって手にできる技術だけで天才は天才と呼ばれない。
誰にでも得手不得手というものがある。単純な陸上競技でも走り方がいろいろあるように、やり方の違いというものが天才を支える。
魔術において、その才能というものはより大きく現れる。
一度に多くの魔力を放出できる。一度に多くの魔術を使える。前者は才能で、後者が技術。
難しい魔術が使える。難しい魔術を創る。前者が努力で、後者が才能だ。
誰にでもできること、いうなれば時間を掛ければどうにでもできることこそが努力。
特定の人物にしかできないこと、時間を掛けてもできないことは才能だ。
そう考えると、僕は才能にあり、また才能がなかった。
魔術を使うという点で、僕には魔術の才能はなく、魔術を知るという点において、僕は才能があった。
もっと大きく考えるならば、僕は実行する側の才能はなく、調べる、知るという点においての才能があった。
三つの偶然。どれ一つとっても起こることの少ないあまりにも低い確率。さらには自身の才能を活かせる精霊との契約など、おそらくもう二度とこの世では起こらないのではなかろうか?確立は天文学的数値になってしまう。
だが、偶然もここまでくると必然。起こるべくして起きたこと。
恐らくだが、刈谷の生まれたときに決まっていた運命というものだろう。
「ふう……」
一息つく。知ってはいたが、破壊したはずの剣をなり損ないが持っている。
「お前の魔剣技は魔力さえあれば誰にでもできるようだな……お前に、自分の技はないのか?」
「………………」
一人の天使の声、否定できない。なぜならその通りだから。
「この剣にはお前の技…絶とかいったやつが使えるように魔力が込められている」
絶と言うことは魔力を込めただけなのだろう。防御はできない。同じ絶でも魔力を見る限り先に魔力が無くなるのはこちら……。
「そして、この剣には無とかっていうのが込められている。自身の技で死ね」
別の天使がそういうと二人の天使が同時に攻撃してくる。
―――自身の技。そんなものは恐らくない。
そう思って時間を稼ごうと絶で迎撃しようとする。
ふと、頭にイメージが浮かぶ。この感覚は……愚者の英雄伝だろう。今思うと一切使いこなしていない。特殊な効果があるのは知っているが、これを記憶を読み取るという目的外で使えたことはなかった。
―――なんでいまさら……だが、これの起源を考えれば分かりやすかった。
これはただの“足掻き”だ。それ以上でも、それ以下でもない。
刈谷という凡人に近い天才の足掻き、現実と虚実の否定。
ならば、そこに何が残るというのか……?
わからない。そして、こんなときまで思考を止めない自身についてもわからない。
よく考えろ、魔術は発動している場所に近いほど効果が高くなる。つまり、固有魔法なんて使ったらその起源や概念に身体は引っ張られる。
現実と虚実を否定したとき、単純に考えたら何も残らないのではないか?
だが、それでも、実際問題、刈谷は存在している。確かに、僕は現実を否定している地点ですでに虚実を肯定し、また虚実を否定しているので現実を肯定しているのだ。
歪だ。今まで気付かなかったことが不思議なぐらいに。
もしかしたら、まだ愚者の英雄伝には分かっていないことがある?
二人の天使が刈谷を襲う。
その攻撃をまるで機械のように防ぐ刈谷。すでに十分は経過している。
「ならば…………?」
いろいろつぶやいている。まるで天使たちのことを眼中にないといわんばかりに。
これは挑発ではない。恐らく本当にこの天使たちのことが眼中にないのだ。つまりは彼らが意識すらされていない。
刈谷の動きは最小限であり、また低燃費だった。
攻撃を受ける瞬間だけ絶をまとい、それ以外のときはまとっていない。
それに対して天使たちは常に魔力を放出し、そろそろ残り三割を切るだろう。それに対して刈谷は一割すら使っていなさそうである。
勝負はあった。これは刈谷の勝ちだ。あとは、俺たちが……。
「バカな…………!」
急に巨大な魔力が刈谷からあふれ出す。まるで“今まで出られなかったもの”が出てきたかのように、とどまることなく。
「――――――――」
刈谷はすでに二人を切り裂いていた。返り血を浴びて、黒い衣を血で赤黒く染めつつ、天使が堕ちたかのような雰囲気を出しながら。
「あの気配は……まさか…………!?」
背後でなにやら驚きの声が聞こえ、それ以上の数の疑問や驚愕の気配を感じる。
そんな中で、刈谷はただ一言、
「なんだ、そんなことじゃないか」
つき物が落ちたかのように清々しく言った。
―――愚者の英雄伝から世界の大本にたどり着き、そこにあるものを攻撃して現実世界に干渉する。存在自体への攻撃を昔考えた。
やつ曰く、そんなことはできるかもしれないが一つ間違うと世界を滅ぼす。と。
だが、大きな間違いがある。そもそも愚者の英雄伝で見れるのは過去のみであったことを。つまりは確定した過去をどのようにしたとしても現実には何の影響もないということだ。タイムパラドックスが起きるかもしれないぐらいには思うが、それもないだろう。だって、歴史の教科書の年表を書き換えたり消したりしたところで、現実問題として何の影響もない。愚者の英雄伝は、その歴史の教科書を頭の中に映像や体験として入れるもの。そこに現実に干渉する力はない。もっと言うなら愚者の英雄伝はただの記録だ。記録とそこにいたるための道しるべを用意してあるだけ。刈谷というものの中に情報を入れて、それをするための方法を与えるだけのもの。“よくできた学習装置”に過ぎない。
―――まったく、何をしているんだか。そんなこととっくに気付いていたんじゃなかったのか?もしくは、気付いていても理解していなかったのか……。まあ、そんなことはどうでもいい。今やるべきことは“不必要な”ことを考えず、“無駄な”魔力を使わず、“機械的に”自らの敵を葬り去るだけだ。
ふと自らの中の魔力を見る。
固有魔法に使われていた魔力は実際には自身のうちにとどまっていた。使うことなどできはしまい。なぜなら…もう見たことのない英雄録はないのだから。
ほかの事は全て自分の力。使おうとして使われなかった魔力を開放し、行き場をなくした魔力があふれていくのを他人事のように眺め、いまさら自分にとって本当に知りたかったことに気付いた。
「なんだ、そんなことじゃあないか」
全ては子供の夢。されど、子供の夢。大きくは間違っていなかった。これからもおそらくは間違えない。
だったら大丈夫。何の問題もないし、もとよりそんなものを考える必要はない。
「さて、天使諸君待たせたな。そろそろ本当に決着をつけよう」
顔は笑っていた。
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