【リアリア】 (9)
サークルビルはガラス張りを多用したビルだった。とても広く静かだ。静かすぎて胃がせり上がる感じすらあった。
学生の足音が重く反響している。遠くから、アコースティックギターの音色が、エコーが掛かったように聞こえる。
925Eは何処だろうか。925だから、9階にあるのだろう。
天井には監視カメラがあり、案内板が吊り下がっている。[ エレベーターホール→ ]と書かれている。私は案内に従い、廊下の突き当たりを曲がり、ヒジリとすれちがった。
「あ」
私は動物的な声を出した。
頭よりも大きいほどの黒いシルクハットを載せていたが、観察を続けていた子の姿だ、見間違えるわけがなかった。
ヒジリも立ち止まり、私を見ていた。授業で一緒だった私の顔を、覚えていてくれたのか。
「烏賊夏、菖蒲?」
ヒジリは覗き込むようにし、何気なく私のフルネームを訊いた。私はぎょっとして、立ち竦んだ。
私はいつも名前を呼ばれるとドキッとした。それは脅えに近かった。「烏賊夏」を「イカサマ」と読ませる最悪なセンス。「烏賊夏」という漢字の不恰好さ。「イカサマ勝負」に連なる情けなさ。それでいて、「イカサマ勝負」という語の妙なリズムの良さ。余計なダブルミーニングは要らない。なんて脆弱な名前だろうか。
ヒジリは、一瞬だけ私を見て、すぐに歩き出した。同じ講義の学生と教室以外で会うのは珍しいが、それ以上の驚きでもない。
「ヒジリ」
私は、ヒジリを呼び止めた。
今を逃したらヒジリと私的に近づく機会は無いと判っていた。これまでの観察から明らかだった。いつもの授業での、「現実」の関係に沈むだけだ。いきなり呼び捨てにしたのは礼儀を欠いたが、しかし、ヒジリも私を呼び捨てた。対等に応じねばならない気がした。
「この紙、机の下に、落としていたわよ」
私はビラを差し出した。
ヒジリは訝しげに見た。当然だろう。ビラを一枚届けに、わざわざサークルビルを訪ねる他人が居るものか。そもそも、ヒジリのビラなのか。たまたま机の下に落ちていた物かもしれない。私の行動は極めて不自然だ。本当の目的はヒジリだったからだ。
「確かに、この紙はあたしのだわ。間違って落としてしまった。でも、別に、落としても構わなかった。あなたはこの紙を見て何か意味が分かる?」
ヒジリは私から紙を取り上げ、広げた。自然な不躾さで私をじろりと見た。
ヒジリは色素の薄い皮膚をしていて、目もそうだった。灰色の瞳は日本人には少ないので、吸い寄せられるように見てしまう。どこか、狂った綾波レイのような雰囲気を持っている。
「この紙は預かる。もともとあたしのだから。じゃあ、あたしは行く」
早々に切り上げ、ヒジリは踵を返す。私は引き止める。
「何のサークルなの? 925号室に行けばいいの?」
「興味あるの?」
どうせ冷やかしでしょ、という半眼でヒジリは私を見た。私は相手にされない自分が悲しかった。ヒジリはビラの向こうの秘密を一人で保持し、その壁の向こうから私を眺めている。だが、無下な応対にもほどがないか。あのビラを見て意味が分かる奴が居たら見てみたい。私は怒りに似た意欲が湧いた。そっけなく振り落とそうとするなら、意地でもついていってやりたいと思った。
「やれやれ、あなたは不幸ね、あたしが誤って落としたモノに興味を持つなんて」
ヒジリはシルクハットの下部の髪の毛を掻いた。動きにはメリハリがある。身体動作に知悉したダンサーのよう。
「興味を持つと死ぬようなことって、あるんだよ?」
ヒジリは言い、脅すように、顔を近付けた。ヒジリの声は、外見から想像される繊細でか弱いものではなかった。まるで、この退屈な世界に鳴り渡るラッパのようだった。その音色は私に知らせている。「世界が退屈である」という、普通は誰も見ようと思わない、真実を。
「どういうこと? 意味ありげな事を言われると、余計に気になるわ」
私は怯まずに訊き返した。ただヒジリとの時間を続けたいだけの動機とも言える。
ヒジリは深刻な表情を解き、ぷーーっと面倒げに息を吐いた。
「しようがないな。今から勧誘に行くところだったけど、キャンセルしてやる。ごはんを食いに行くから、来るかな? めんどくさいけど喋ってあげる。『もう一つの人生』のことをね」
私は、このとき初めて、自分とヒジリの背が同じぐらいなんだと気付いた。