【リアリア】 (7)
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その月曜日、私が遅刻ぎみに後ろのドアから教室に入ると、ヒジリが最前列に座っていた。いつもどおりの景色だ。
教室にヒジリと私しか居なかったこと以外は。
それは少ない確率の実現だった。いつもヒジリを取り巻いている仲間たちも居ない。教師も来ていない。授業もまだ始まっていない。
偶然的に、今までヒジリを取り巻いている障害であった「現実」的状況が消えていた。
この日は、朝からの雨で、学生の出足は悪かった。今までも、授業の開始時点で私とヒジリと教師の三人だけということはあったが、二人になったのは初だった。
瞬間、私はヒジリに声をかけようとしたができなかった。ヒジリの背中に拒絶感のようなものを勝手に感じ、次の瞬間には躊躇してしまったのだ。一秒という時間が、私の身を削るように激しい。現実世界から解き放たれた時間。つねに唐突で、詐欺的に短く、二度目は絶対にない。私は焦った。何か「非現実的な」行動をすべきだ。また現実世界が戻ってしまう――
全く予想外に。
ヒジリが振り向き、声をかけてきた。
「先生かと思った」
その声は、ぎりぎりまで潜水した後で吸った空気のように、私の中に濃く入り込む。
「まだ来てないの?」
私は馬鹿なことを訊く。黒板を見れば、教師が居ないことは分かり切っていた。この間、頭が真っ白であったことを、事後的に確認する。
「そうなの。遅いよね」
ヒジリは答えた。ニコリと笑った。ヒジリは人間と話す時によく笑う。私の胸が痛くなるほどに奇麗に。
ヒジリは元通り向き直り、教科書をぱらぱらとめくった。
しまった。
会話を続けるべきだった。今のが千載一遇のチャンスだった。私は、凍り付いたような時間が、溶け出したのを感じた。
まとめて学生と教師が入ってきた。
いままで堰き止められてでもいたように。
私は何て発展性のない会話をしてしまったのか。後の祭りだった。
これが「現実」なのだ。「ヒジリと会話させてやったが、お前ごときには二~三秒で充分だ」と嘲笑しているのだ。この、のべ三言分の会話が、一生で唯一のヒジリとの接点になってしまうのだ。その確信を裏付けるように、いつもどおりに授業が始まった。
そして、いつもどおりに終わった。
昼休みになり、ヒジリは仲間と一緒に出て行った。
ほら。いつもどおりだったろう。
無人になった教室で、しばし私は呆然とした。といっても、五秒、十秒、そのくらいだったろう。
煌々たる蛍光灯の白さが空しく目に刺さるような、よくある「現実感」が湧いてきた。
その時、床に、何かが落ちているのが見えた。
ヒジリの座っていたテーブルの下に、白いモノが落ちていた。
黒い床に落ちていた小さな紙。
私は歩いて行き、それを拾い上げた。紙は八つ折りに畳まれていた。几帳面な折り跡である。ヒジリが折ったのだろうか。そもそもヒジリの紙だろうか。私は滑稽にどきどきしながら紙を開けた。
A4の紙に印刷されたビラであった。原稿はサインペンで描かれたのだろう、手描きと思われる、大小さまざまの文字が躍っていた。下手でも上手でもない字だ。特徴がないので、なぞるのは難しそうな字である。文字列は水平に、あるいは縦横や斜めに、レイヤを重ねたように描かれていた。
サークルの催しを告知するビラのようだ。
最初に目に留まった水平方向の文字を見ると、こう書かれていた。
[ 人生捨てませんか サークルビル 925E 本日 ]
これだけだ。読める文字列はこれだけで、あとは脈絡のない文字の展示だった。サークル名も時間も無い。まったく意味不明だった。
人生を捨てたい人間は、サークルビルという所の[925E]号室に行くといいのか。しかし人生を捨てたい人間がそんなに居るだろうか。俗的な事を言うとそんなことが合法なのか。そもそも人生を捨てるとはどういう意味であるのか。
それとも、このコピーから何か深い意図を読み取り、回答させる狙いなのか。正しい回答をした者は、褒賞がもらえるのか。
しかし普通の者はビラを真に受けてサークルビルに行ったりしないだろう。
大学の規模は小さくないため、色物サークルも多い。このビラを学生が見たら、無価値なサークルの一つだと断じるだろう。
私は、ビラを折り畳み、ジャケットのポケットに入れた。