【リアリア】 (4)
午後、大講義室で宗教学の講義があった。
教養科目なので他の学部からも学生が集まっていた。大きな階段教室はほぼ満員だった。
講義が終わった後、私は、講義棟から出たところで、名前も知らない男子学生から話し掛けられた。メガネをかけた弱々しい感じの男だった。声を掛けられなければ、同じ講義室に一年間居ても、存在を知ることすらなかっただろう。
男は私よりも背が高かったが、萎縮した態度のせいか、妙に小さく見えた。おどおどしているくせに、自意識のふてぶてしさを宿している目玉は、無性にイラッとさせた。神経質そうな男だ。だけど私は初めて会う男にイライラをぶつけるほど不躾ではない。
男は「 あ の こ れ 」とか非日本語じみた音列をゲップのように吐き、手紙を私に差し出した。私はココロのうちでは「今時手紙だと!?」と叫びながらも、カラダでは戸惑いながら受け取るスムーズな動作をした。
「じゃあ」とか「よろしく」とか言いながら、男は逃げ去った。
私は封筒を見た。飾り気のない小綺麗な封筒は、なぜか逆に男の汚い執着にまみれている感じがした。
顔を上げると、キャンパスの雑然とした通りには、男の姿は失せていた。
私は封筒を開けてみた。メモ用紙が入っていた。
『突然申し訳ありません。お話があるので、よろしければ連絡頂けないでしょうか。ぜひお待ちしております』
そう書かれていた。下にはメールアドレスと電話番号もあった。クシャクシャとした小さい字だが、とても丁寧だ。納豆の粒のように気色悪かった。
私は手紙を捨てたい衝動に駆られたが、近くにゴミ箱は無かったので、手紙を丸めてジャケットのポケットに突っ込んだ。
昔から、私は男に声を掛けられたり、手紙を貰ったりした。二十回は超えていると思う。だが、全員の男に言いたいが、客観的に見て私に釣り合う外見や性格を持ち合わせていない男ばかりだった。私は進んで懐にゴミを仕舞いこむ趣味は無い。ゴミではなくジャンクフード並の男も居ることはあったが、腹にもたれるだけだから遠慮願ってきた。
今の男も、そんな一人だった。新しいゴミの一個。
ふと私は妥協してみようかなと思った。しかし、あんな奴に私を安売りしようというのだろうか?
安売りしちゃおうかしら。
なんて、前振りもなく吹く春の夜風のように、一瞬だけ思った。私は実に愚かだ。
たとえば、あの男と付き合ったりして、極端な可能性として、結婚したと想定してみよう。おぞましい想像だ。あの人間と付き合う・結婚する・生活する! 現実世界の最も現実的なフォーマットを踏襲する行為。「不幸の中の不幸」「最悪の中の最悪」を自ら選ぶ愚行。私はあの男に怒りが湧いた。何を考えて私に近づいたんだろう? そんな「現実的」なことに執着できるなんて信じられない! そして、「現実的」なプランに何となく足を踏み入れようかと思った自分に、一番腹が立った。
改めて言うけれど、私は現実世界に触れられていたくないのだ。
あらゆる現実世界的なものに無関与でいたいんだ。
はっきり言って私は、現実世界を、世界で一番軽蔑している。だから、現実世界に埋もれ、現実生活するなんてことは、もってのほかなんだ。紙屑餌の中をのたくるミミズのように、ぶざまな人間め。