【第2面】 (14)
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女は走った。
息は上がり、化粧は崩れていた。だが、気にしなかった。黄土色の髪を振り乱し、女は走った。
サークルビルの階段を上がり、女は確かめるように、ショルダーバッグの中を探った。鞘付きの果物ナイフを出した。果物を剥くのには使わない。剥いたこともない。親指を立て、すこし、ナイフの鞘を浮かせた。
ビルの中は学生もまばらだった。あと30分で閉館の時間になる。女は[ ラウンジ ]に辿り着いた。
いちばん隅の、椅子が並んだ区画。
「……みつけた」
そこに烏賊夏菖蒲が寝ていた。菖蒲は椅子を三つほど占有し、無防備に仰向けに寝ている。
ハアハアと荒れた息を吐き、エルフは菖蒲に近寄った。防犯カメラへの注意も吹き飛んでいた。そのくらい思い詰めなければ、人を殺すという計画は実行に移せない。ショルダーバッグに入っている手は、さっきからずっと、ナイフを握り締めている。
この烏賊夏菖蒲だけは許せねぇ、殺す、必ず殺してやる。
周囲を見回した。人影は見当たらなかった。誰か来ても、居なくなったら殺すだけ。今は誰も居ない。じゃあ、殺ろう。エルフは静かにバッグを投げ出し、ナイフを開陳した。
両手をしっかり添えて、菖蒲の腹に狙いをつけて、ゆっくり倒れ込んだ。
一発で逝っちまえ!
エルフの腕を握り、止めていた。
止めたのは、観葉植物の裏から現れた、ヒジリであった。
「それはルール違反だと説明したはず」
「おまえッ……!?」
エルフは怒りをあらわに、ヒジリの腕を振りほどく。ナイフの刃がLED灯を反射し、輝く。エルフは距離をあけ、ヒジリにナイフを向ける。
「っ、どういうことよ!! あたしひどい目に遭ったんだぞぉ!? 死ぬとこだったんだぞ!? ゲームオーバーになったら死ぬなんて聞いてねぇよ!!」
「それは妙。どこかで説明したはず。君の聴く姿勢に問題があったと推断する。『聴いていなかった』では済まされない」
「あたしはもう嫌だからなこんなゲーム。下りる下りる。下りまーす。やめさせてくだせー」
「ゲームを下りることは認められていない。また、君は今、現実にゲームを持ち込むというルール違反を犯した。あたしは違反者に対し、ゲームオーバーを宣告する権利を有している」
「う、うるせえ!! ち、近付くなあ!! 刺すぞ! 本気だぞ!」
「……」
ヒジリは乾いた音で鼻をすすり、しばらく黙考した。
やがて、言った。
「結果的に、殺害を実行したわけではない。今回だけは、目をつぶってあげる。この場を去りなさい」
エルフは安心したようだったが、警戒の姿勢は解かず、ゆっくり後退した。
バッグを拾いナイフを放り込むと、捨てゼリフを吐き、一目散に駆けて行った。
「お、覚えてなさいよ。こんなひでえゲーム、絶対許さないから……!!」
エルフはいきり立ち、キャンパスの門のそばまで駆けて来た。
門の中、長身の男の黒い影が立っていた。
ヒッと声を上げ、エルフは引き返そうとした。あたりは暗いし、ほかの学生もいるし、まだ見付かっていないかも……。
「失敗したねぇ、エルフ」
背後で男の声がした。
エルフの肩には男の手が置かれていた。
逃げたかったが、逃げられないことも知っていた。エルフは小動物のように肩を震わせた。心から脅える顔は、可愛らしかった。
「君なら、現実のノリで『ゲーム』を簡単にクリアしてくれると、期待してたんだけどな。案外、脆かったねえ。――所詮、ここまでなのかな」
ぽん、ともう一度、男はエルフの肩を叩く。エルフは激しく震えた。
「君が戦ったプレイヤーは、強かったのかい?」
「あんなやつ、全然、強くなんかないわよ……ないです」
「だが、君は逃げ帰ったようだが?」
「あいつとは、ちょっと相性が悪いだけなんですよ。だって、勇者だか魔法だか知らないけど、ありえなくないですか?」
エルフは感情的に反論する。もちろん、ショウブへの怒りの感情。
「そうだね。仕方ないよね。ありえないことが起こってはね」
男は、ヌッと腕を伸ばし、エルフの髪を掻き混ぜた。エルフは脅えたが、身をこわばらせ、撫でられていた。
「ところで、わたくしの言いつけは守ったかね?」
「あの、言いつけって、何でしたっけ……?」
「他のプレイヤーに会ったら『くすり』を飲ませろ、と」
「ああ、水に混ぜて、ちゃんと飲ませました!! あいつ飲んでましたよ。子供のほうは、トランプとかしてて、飲まなかったけどー」
「そうかね。ご苦労。じゃあ君はもう要らないよ」
エルフは、蛇のように素早く後ずさった。肉体の勘による反射的な警戒反応。男の声色から、危機を察知した。しかし肉体がいくら警戒しても、エルフは自分では男の前に無力であることを分かっていたので、恐怖と涙が湧き出すだけだった。
ぽん。エルフの肩に男の厚い手が載った。
「ありえないと言うがね、君、それは違う。君は対処できなかったのだよ。対処できない者は、使えない者だ。君は敗北した。敗北者は要らない――解るね?」
「ま、まって、おじ様。あたしまだ――!!」
「わたくしの現実世界での能力を知っているね?」
知っている。男がその気になれば、この場で自分は消される。もう、声をひり出すこともできない。
「君を半分いただく」
ぽん。
男は何気なくエルフの肩を叩いた。――だけに見えた。
「一度だけ、試してあげよう。君が他のプレイヤーより優れているかどうか、わたくしに見せられたら、君の半分は、返してあげよう。だが、失敗したら、残っている半分もいただく。君は切り捨てられる」
男は顔を寄せ、エルフの耳に、命令を囁いた。
「……いいかね? 初心者の君に『ゲーム』の進め方を教えたのも、街を試作してあげて、その街をプレゼントしたのも、親愛なる『おじ様』ということを忘れぬように。わたくしを失望させるなよ?」
男は踵を返し、門から出て行った。
エルフは放心状態で立っていた。我に返ったエルフは、珍しく深刻な面持ちで歩き出した。それは滑稽な様子だったはずだ。
皺だらけの老婆が若者の服を着て通りを歩いている様子は。
エルフが変化に気付いたのは、鶏ガラのような細腕が自分のものだと判った時だ。それに、肩や腰は鉛の布団に巻かれたように重い。ある店のウィンドーにエルフは姿を映した。顔じゅうを覆っているシミと皺。濁った目と、垂れた瞼。こしのない白髪。エルフは自分が一度も想像したことすらない姿になっていた。若さという「自分の半分」を失った姿だった。




