【リアリア】 (3)
*
けだるい昼下がり。私は、講義棟から吐き出される学生を避けるように、前庭の縁に腰を下ろしていた。
私の周りに散りばめられている学生達は、なるべく群れようとしているように見えた。歩く姿勢からして非常に機械的で、「群れるために行動しないのは犯罪」と罵るような空気を放っている。蟻塚にはびこる蟻のようだ。
うららかな太陽がぬるま湯のように注ぐ。ガラス片のように散るサクラの花びらが目に痛い。
私は、自分が「突然にここに居る」気がした。
それは、ぼやっとした春の空気のせいだろうか。建物のギザギザに浸食された青い空を見ていたら、煙のように雲が湧いたかと思うと、やわらかい通り雨が、しなしなと降って来た。足元のコンクリートには白い紙片がへばりついた。サークルの勧誘のビラだろうか。
みせかけだ。サクラが散ることも、雨が降ることも、ここで自分が時間を浪費していることも、みせかけなのだ。
この前庭の縁に私は何万回も座った気がした。あるいは今日が初めてかもしれない。要はどっちだろうとよかった。
一回まばたきするぐらい簡単に、一日は過ぎそうだった。いや、実際のところ、過ぎたのかもしれない。それどころかすでに七十年くらい過ぎたかもしれない。ぼんやりしているうちに私の一生は終わり、今また唐突に七十年前に戻ったところかもしれない。――だとしたら、ここに自分が脈絡なく居る感じを納得できた。
「時間」は見せ掛けの仕掛けだ。
私が思うに、現実世界には実質的なものは皆無だ。
現実世界の本質は、無内容なのだ。
無内容であるためには、毎日が何一つ「獲得」も「成長」も「進展」もない構造でなければならない。
つまりループでなければならない。
私の意地によれば、強くそう思う。
したがって、現実世界はループであり、時間は存在するように見えるだけなのだ。この世界を装飾する装置の一つなのだ。
皆は私を狂ったと言うだろう。そうではない。ループなのにループでないように見せる活動を、全員がしているためだ。
カレンダーをめくったり、時計を着けたりしている……。
もちろん、「時間」に合わせて人間が成長したり老いたりするように見えるのも錯覚だ。人間は、「ジブン」という最も初歩的な大きな錯覚によって、すべてを見るからだ。
「ジブン」の姿は、実際に存在しているように見える。だから錯覚と言うより幻視と言ったほうがいい。分かり易すぎるために誰も目を向けない場所こそが、病根そのものだ。
「ジブン」。それは「現実病」を発症させる根源。
人間は「ジブン」を疑わないし、「ジブン」をチューンアップすることには余念がない。そして、あわよくば、他の「ジブン」を出し抜くことを狙っている。
「ジブン」、つまり自らの心身のことだが、これらは「時間」と同じく、肝心なものではない。現実世界の「幸せ-鬱回路」と連結されている肉製機械だ。それは箱庭に設置された一個の麦球のようなもの。よくて箱庭を走る鉄道模型くらいのものである。
心身はいわば、牢獄なのである。
「ジブン」から一度も出たこともない人間達。牢獄の中で起こった事象を、宇宙的真理のようなものと取り違えるミスを犯している。
「ジブン」は現実世界を演出する大きな装置の一個でしかない。
その集まりが、人間社会だ。
私にとっては、人間達は、板きれの裏でひしめく虫のようだ。
社会の複雑さや重厚さ・目が眩むような街の派手な景色・キャンパスを闊歩する個性的なファッションの学生達……。
そういうものは世界の無内容さを押し隠すためのデコレーションに過ぎない。
現実世界には実質的なものは、ない。
そう、ほぼ皆無だ。




