【第2面】 (1)
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大きく広い階段教室の講義は、人間たちの不快な雑音と私語に包まれている。
このクズカゴのような空間に居ると、私自身、詰め込まれた紙クズの一個であるような落胆を覚えた。今日のジブンが着ている服が、わざとツギハギして作ってある古着のシャツだったが、それも路上生活者のような趣だ。
人間が密集した空気は蒸し暑い。古い建物のためか、冷房も効いていない。
そういえば、前、気色悪いメガネの男に手紙をもらったのはこの講義だった。私は教室を見回した。メガネの男は居なかった。
後ろの列でいちゃついているカップルが居た。女は、肩が丸出しで胸元が丸見えの、ぶかぶかのカットソーを着ている。その場所だけ真夏だ。机の上にはブランド物の銀色のバッグを出していた。男は机に両足を投げ出していた。ガムを噛みながら、女にボディタッチしていた。
いちゃつくのは構わないが、声が大きいのはウザいな。無内容な会話が聞こえてしまう。作り損ねたカレーのような粘着質な声。頭がズキズキと痛んだ。この教室の講義はいつも不快だが、今日は輪をかけて不快だった。世界全般がいつもよりも重かった。
体じゅうが熱い。
現実世界をぐちゃぐちゃに破壊したい。
発作的に思った。
――ハッとした。
熱い汗が冷め、いやな冷たさに変わった。
私は「現実病」に圧迫されている時には考えもしなかった衝動に駆られた。自分自身に驚いた。
頭をよぎったのは、『SC』の経験だった。あのゲームをやってから、現実世界が波立っていた。現実世界の重量が変わりつつあった。まだプレイしたのは一回だが、これからも没頭したら、どうなってしまうのか。
ジブンの現実世界の行く末が心配だった。馬鹿らしいことだ。私が現実を心配するとは。
『SC』で感じる重みに比べたら、現実世界は軽すぎた。いや、文字どおり比較にならなかった。
あっちの世界の密度が高すぎるのだ。
重厚感のある王宮、ヒジリの姿をした王、襲い来る魔物の群れ、魔物と戦う勇者、仲間が加わり始まる冒険。あの世界では、全てが最高に必然、だった。筋書きが完璧にあり、プレイでの幸福感さえ、筋書きに従った。世界の隅々が、たとえ魔物でさえも、みずみずしい質感。究極に良い夢のように。
それにひきかえ現実世界の賞味期限の過ぎた糸こんにゃくのようなだらしない存在感はどうか。空気も地面も机もニンゲンも、糸こんにゃくだ。ふにゃふにゃと撫でられ、ぎゅるぎゅると縛られて。心の芯が不気味に痒くなる。
『ゲーム』と現実世界が、乖離し始めた。
その距離がストレスとなり、私の肩に掛かっていた。蒸し暑い教室で、私は不貞寝した。視界を真っ暗にすると、ようやく薄紙一枚ぐらい現実世界から離れた。息が苦しかった。
『ゲーム』の代償がこんなに早く来るとは思わなかった。
講義が終わって、昼休みになった。石を引っくり返された虫達のように学生達が移動を始めた。わらわら、ぐしゃぐしゃと。
私もその一個になって歩いていたら、教室を出るあたりで、胸の大きな女と衝突した。私は突き飛ばされ、机の角に腰を打った挙句、べたり、尻餅をつかされた。――ところで、私が気まぐれに自慢する髪の毛は結構長さがあり、尻餅をつくと間違いなく床にくっつく。実際くっついた。床の埃にまみれた。
だが女は、チューリップの花のような、あっけらかんとした面を私に向け、それで終わりにした。私は寝ぼけ眼を引きずっていでもいたのだろう。女は謝るどころか、言葉をかける必要もないと判断したようだ。その卑屈な計算は、私の腹に据えかねた。
女は、机に置き忘れたらしいブランド物のバッグを持って、出口に向かった。出口には彼氏の男が待っていた。二人の像は、私の目にはほとんど同じに見えた。ただの汚いデータ。直視に耐えない茶色の屁泥人形。そういう醜物ばかりが現実世界では眩しい。とてつもなく目に悪い。
私は立ち上がり、
――気付くと女の首を持ち上げ、壁に押し付けていた。
女の右目の小さい泣きボクロが鮮明に見えた。
女の悲鳴。やがて、呻きに変わり、沈黙になる。無理もない。窒息しかかっている。私は、持ち上げている女を客観的に見ている。動揺している男。情けない。助けてやったらいいのに。周囲のざわめき。喧騒が輪になって、波紋のごとく、少しずつ拡散する。そうしたデータから、私はたぶん誰より明敏に、この場の状況を把握していた。五感は研ぎ澄まされ、見るまでも聞くまでもなく、周囲の様子が判った。心地良い冷たさだった。
目を剥き、憎しみ・脅え・執念といった感情を発する女。このまま持ち上げていたらどうなるだろう。やってみようか。いつから私は人間を片手で持ち上げる力持ちになったのだろう。まあいいか。『ゲーム』では熊や龍のような怪物を切り伏せた。現実世界でも力の片鱗があっても不思議ではない。……いや、なんだろう、なにかおかしい。
そうだ、ありえない。ここは現実世界だった。
途端、体からドッと力が消えた。
女は私の手から砂袋のように落ちた。現実世界であるという認識と同時、私は現実法則の適用を受けた。
「現実」のむかつきが還ってきた重い疲れの裏で、このあたりの匙加減はまだ自由にはできないかと、冷静な『ゲーム』の私が思った。私の手には、女の温い汗と、ゼリーのような皮膚の感触が残っている。
ゼリーをぐちゃっと潰したら、どんな感じがしただろう? まあいいだろう。いつでもできる。汚物を握り潰す趣味も無い。
「チョ、ナニスンノヨ、シンジランナイ」
女は捨てゼリフを言い、怨みがましい目をした。それは弱者にできる最大の抵抗だと分かっていた。今の私には、自分と相手の力関係が明瞭に見えていた。山の頂上から麓を見るようなハッキリとした認識。より視野を広げれば現実世界全体の構造を解き明かすことも夢ではなかっただろう。特に興味を覚えなかったから、しなかったが。私は、限界以上に張り詰めつつも、度を越してリラックスしていた。
女は、引っ付くように、男の所に行った。男に仕返しをしてほしいのだろう。だが私には男も敵ではなかった。というか、この流れでは男は敵にはなりえないと感じていた。敵と認識するのも馬鹿らしいことだった。私は大きな文脈をひしと感じていた。また、味方につけているとも感じた。
私は、男を威圧するように見て、その場を立ち去った。これで充分だろう。
事実、男も女も、野次馬たちも、追って来なかった。




