【リアリア】 (2)
*
私にも、大学の初日頃には友達が居た。(笑)
会話したり授業の代返を頼んだりという形式的なことをする間柄を友達と言うなら、今も居る。しかし最初に比べると激減した。今は一人か二人だ。
友達は私を「現実世界に引き止めようとした」からだ。じつに涙ぐましい努力をしてくれた。それがじつに押し付けがましい動物的な努力だったことを私は覚えている。あの群れる動物達は、じつに現実世界の無意識の手下であり、現実世界的な快楽を強く私に推奨した。まずは男だ。合コン、クラスの飲み会、イベント系サークルのパーティー。私は知見のために連日のように十二回ほど参加した。じつに現実世界の臭気芬々たるイベントであり、このような人間の集会は見切らざるを得なかった。綺麗な会場・さまざまな料理・ゲームや出し物を取り入れた趣向などが眼を引いたのだが、これらが芸のない装飾であることを私は鋭く見抜いた。そもそも、人間達が「人間達自身を」目的とするイベントを開くということは、どのような「理知的」な彩りを誇っても、性器を金モールで飾る以上の行為ではないのであった。
有名で高級な食べ物やお菓子や服を漁るとか、難関資格や羨望される就職やイイ男との結婚を目指すといった、「ステータスを追う遊び」も割と人間人気的だった。
馬鹿か?
そういうものを追い掛けて許されるのは幼稚園児までである。これは、おままごとそのものだ。本気でやっているとすれば、犯罪者として逮捕すべきレベルの低脳である。そのうち必ず有害なことをやるに決まっている。
あるいは、「ステータスは生きるのに有利だから」と故意にやっているなら醜悪だ。私が事実を言ってやろう。食べ物やお菓子はまずい。服は値段以外はチープだ。そして、化粧している自分達の顔は全くカワイクナイ。
しかし、事実は死力を尽くして黙殺される。「オイシー」「カワイー」「スゴーイ」ものばかりが蔓延している。だいたい女というものは演技がヘタである。それで通用していると思っているマヌケは論外だし、仲間内で通用していることにする馴れ合いもイタい。仲間内では誰も「ヘタクソ」と指摘しないから、茶番は続いていく。指摘してしまうと、自分も演技がヘタだという真実を指摘されるからだ。こういう卑怯な女子連中に比べたら、登校拒否したりメンヘラの卵になっている女子小中生のほうが何倍も純粋で高貴である。女子大学生など、ペンキを塗った肉団子にすぎない。
しかし、私は別にいいと思う。「やりたいことをやればいい」というありふれたフレーズを送りたい。現実世界に所狭しと並ぶ遊戯をプレイしていたらいい。みんなで手を取り合い、仲良くフォークダンスの輪を作ればいい。その輪こそ、人間達にとっては大事な、現実世界サークルというものである。
私は既にこのような「普通人間達」の外に居るのである。今更そちらの檻にわざわざ入っていかないのは当然のことだ。
むしろ不思議なのは、どうしてまわりの人間達は私にくっついてくるのだろうか。人間達は、友情や人間関係を持つのは当たり前のこと、いや持たなければ何も始まらないという強迫観念さえあるようなのだ。それはロボット的な慄然とさせる習性であった。私の思想をいちいち全て説明しなければ、「普通人間達」は、私が内心どのように見ているかが解らないのだろうか。けれど、説明しても解らないのではないのか? いや、説明したら最後、私は暴力的な非難・中傷・弾圧にさらされるはずだ。「普通」というモノサシはとても強引なモノだ。
まったく、人間達は仕方がない。なぜ私に近づかずには居られないのだろう。
そんなにうらやましいか?
私は「遊び」に誘われても、必ず断ってきた。それを三週間も続けたところ、誘われる回数も、友達の数も、ようやく減ってきた。いい傾向だった。このまま友達がゼロになるのが望ましいと思った。
私は友達なんて要らないのである。
欲しくもない雑貨のようなガラクタを押し売りされるのは願い下げだ。