【リアリア】 (1)
・タイトルは仮題です(4/3,12)。 また、書きながらの更新により、名詞や本文の変更は随時ありえます。
・原稿執筆期間:120303-121220
私はきれいな顔をしている。思い付くだけでも四~五人の女優に酷似しているし、全体的には超えている。うぬぼれはやめろって? ちがう。控え目に見積もっても、私と対極の顔をしている奴らはブスと形容するのが適切であるのだから、私はきれいということになる。事実を述べただけである。
が、私の容姿の完成度など、私が喋る事とは一切関係がない。つまり、顔や体の形なんて、僅かも実質的なことではない。どうだっていいことだ。
ついでに言えば、私の髪は、焦茶色がかった気品あるロングヘアだ。目はパッチリとまではいかないが、クッキリとした完璧な二重瞼といえる。耳から顎にかけてのラインは彫像のように滑らかだ。やや口が小さいのが不満だが、ガマ口のように大きいより、よっぽど気に入っている。どうでもいいことだけど。
*
「現実世界うざい」
なんて言うのはヲタクの専売特許じゃない。
私からしたら、ヲタクだって充分にうざいしむさ苦しいし邪魔だ。私はヲタクのカルチャーやメディアにも興味を覚えなかった。その世界での「古典」「聖典」と言われる作品を幾らか鑑賞したが、たしかに現実的なドラマや映画ほど煩わしくはなかったものの、特別に訴求するものは無かった。ヲタク世界さえ、私にはめんどうくさかった。要らないものと思えた。
よく知らないが、ヲタクだってやることがあると聞いた。グッズを買ったりとか、「聖地」に行ったりとかだ。充分生命力がある。流行のモノを買ったり食ったりし、会社や学校と行き来する、普通人間と変わらない。
私は、この現実世界のすべてが、うざいと思っているんだ。
そして、私が思ったからといって、世界には良い影響も悪い影響も与えることはなかった。そんな固い絆で私は世界と結ばれている。(笑)
まるでゲームのような、作り物のような、底の見える物事の広がり。
それが私にとって現実世界の姿だ。
代わりばえのしない幸福と鬱の反復。
幸福と鬱のシステマティックな回路。
人間とは、この回路を回り続けるよう計算ずくで配置された生物だ。回し車のハムスターと構造は同じだ。子供騙しは御免だ。――いや、「御免だ」と思うのも御免だ。こうして悩んでも、鬱になるだけである。そして、鬱の結果、薬浸けになったり自殺したりするだけである。所詮それも「回路」の中に居るに過ぎないのだ。
もちろん、鬱とは反対の幸福というものも、同様に欺瞞的だ。人間の心や、その振れ幅も、正確に解析し尽くされている。驚きは何も無い。
幸福と鬱という二極を持つ回路は、人間のための「飼育ケージ」だ。全ての人間は、回路から出ることを考えない。――なんて、調子に乗って断言してしまった。たまに私は勇み足を犯す。
人間は計画的に設計された箱庭に住んでいる。いや、私も含めて、人間も箱庭の一つの部品なのだ。
この全体的な構造は「現実世界」と呼ばれている。
人間そのものが、計算ずくで作られたのだ。人間は、現実世界の出力結果なのだ。だから、人間がいくら喜んだり悩んだりしても、出力結果の中だ。人間は当たり前のことをしているにすぎない。どんな驚きだって、本当の驚きには、なりえない。
この現実世界には「究極の目的」など無いはずだ。「究極の目的」があるなら、目的を達成したら、世界は終わらなければならない。けれど、世界は続いている。終わらないし消えもしない。これからも延々と続くだろう。
これが現実世界の姿だ。
現実世界に生まれたら最後、死ぬまで延々と生きるだけだ。「死ぬまで延々と生きるだけ」という構造は、論理的は、不幸以外の何でもない。この事実は、生まれた瞬間、人間に人生を絶望させるには十分のはずだ。
だけど、飽きもせずに人間は、回路の中で悲喜こもごものプレイに専心している。人間は、理解しがたい。
私はそんな子供騙しの回路に加わるつもりはない。お金を積まれてもお断りだ。
私がせめてできることは、回路に参与しないことだ。幸福にも鬱にも振れることがなく、現実世界を、ただ観ている。私は、駅のホームで通過電車を眺めるような気怠さで、現実世界をやりすごす。だけど、やりすごすことはできない。現実世界は無限に続くからだ。それはほぼ確実な無限。人間の営みがある限り、駅の通過電車がなくなることはない。
この現実世界は、まるで作り損なったゲームソフトのようだ。
いつも同じ一日をループしているかのようだ。
出来が悪すぎて腹も立てられない。
現実世界は、私に、あらゆる不快感を叩き付けた。
つまり、不安。臆病。怒り。憂鬱。味気なさ。寂しさ。冷たさ。耐えがたい吐き気。妬みや憎しみ。自責の念や自傷的衝動などを呼び入れた。
もちろん私には、所詮、お仕着せの落胆に過ぎないと解っていた。回路の一方の「鬱」という極であると。
そして、もう一方の「幸福」という極は、私には水滴ほどの実在感も無かった。
人々が幸福の象徴として唱える、家族、友情、恋愛、協力、貢献、昇進、賞賛などといった価値には全く共感を持てなかった。こういうものにとらわれることは、邪魔な紙っぺらを背中に貼り付けて歩くようなことに思えた。
したがって、世界は私にとっては不快ばかりがあり、幸福は皆無な場所だった。それはきっと、現実世界というものが、もともと、そういう性質だからなんだ。そうとしか考えようが無かった。
だけど、不快が多く幸福が少ない事は、一番の問題ではない。
世界に揃えられた鬱や幸福の装置。多数の人間達はそれらを脱着してはエンジョイしていた。いや、そこまでいかなくても、飽きてはいないように見えた。いわば人間達は、この世界での、生真面目なプレイヤーであった。
しかし、私は、現実世界の定型的なありかたに飽き飽きしていたのだ。とても倦ざりだった。おもちゃ売り場に満足できるのは子供だけだ。品質のよくない「鬱」や「幸福」の商品を押し付けられ、一喜一憂を繰り返す人間。まるで、右に左に振れるメトロノームだ。
現実世界は驚きに満ちていた。現実世界がある、という驚きだ。世界が何とも胸糞悪いこと。そんな世界しか無いこと。
この世界全部が、最悪の驚きだった。
だから私は思った。この現実世界に、意識をもった人間は存在するのだろうか? 意識があれば錯乱せずには居られまい。なのに、町に溢れる膨大な人間達を見ても、平然と意識を保っているようだった。
だから、人間達は意識が無いのかもしれない。
人間達は、現実世界という巨大生命体の一部なのだ。
そして私は意識を持った限られた人間なのかもしれない。目の前で這いずる巨大怪獣の肌の模様が、吐き気を起こさせる。
普通人間たちのようには、私は世界に適応できなかった。
「お前も人間だろう」って?
分かっているよ人間。そう焦らないで。私は人間が言うことは分かっているから。
私は、現実世界の普通人間たちのように暮らせないし、暮らしたくなかった。
その状態を、私は「現実病」と名付けた。私が勝手に名付けた。
私は普通人間であることができないからだ。ぶっちゃけた言い方をすると、「普通人間とかマジムリッス」という感じだ。私みたいな状態を指す正確な言葉が必要だった。
「現実病」は、生きている限り治らないと思う。
なぜなら、私が生きているのは「現実世界」だからだ。
私は、入学したての大学のキャンパスで、そんなことを思ってた。