蛇足:クロード視点
婚約者を選んだと聞かされた時は、「ああ、そうか」としか思わなかった。
婚姻は政治だ。
三年前、兄には他国の王女との婚約が決まった。
自分で相手を選べるとは思ってはいなかったし、国にとって有益な相手であれば、別に誰でも構わなかった。
しかし、相手が自国の男爵令嬢だと聞き、わだかまりを覚えたのは確かだ。
王位に興味はないが、王位継承権第一位の兄には他国の王族を、二位の自分には自国の、それも下位貴族の令嬢をあてがうとは。口では兄弟格差をつけぬと言いつつも、やはり兄を贔屓するのかと、苦い気持ちになった。
マリー・モンゴメリー男爵令嬢
わずか六歳で領地運営を手伝い始め、男爵領の発展に大いに貢献したという才媛。
あまりにも現実離れした経歴を、王家との縁談のために仕立て上げられた作り話ではないかと半ば侮って臨んだ初顔合わせは——良くも悪くも、俺の予想を大きく裏切った。
「お初にお目にかかります、クロード第二王子殿下。お噂はかねがね聞いておりましたが、やはり人生でたった一度でもそのかんばせを拝見することができて大変光栄です。女神も嫉妬に狂って歯軋りするあまり、歯が平らになってしまいそうなほど秀麗なお顔でいらっしゃいますね。本日殿下の顔面を間近で拝見させていただいた記憶は、冥土の土産にいたします」
「……どうも」
顔を真っ青にした男爵に頭を叩かれている彼女に、俺はかろうじてそう返した。
他に、なんと言ったら良いのか分からなかったのだ。
父と母が、そばで肩を震わせているのが視界の端に見える。他人事だと思っていい気なものだ。これは父が組んだ縁談だというのに。
二人の態度に苛立ちつつも、叩かれた頭を押さえながらもキラキラとした瞳を真っ直ぐに向けてくる令嬢には、なぜか不快感は覚えなかった。それどころか、あまりにも純粋なその好意がどうにもくすぐったくて、彼女の顔をどうしても直視することができなかったことをよく覚えている。
◇◇◇
その後、婚約は正式に決まったものの、手紙でのちょっとしたやり取りだけが続き、直接会うことはなかった。
学院に入学した後も、俺はマリーとなるべく距離を置こうとしていた。
どう接すればいいのかが、あの初顔合わせからずっと分からないままだったのだ。
すれ違えば、あの調子で顔を絶賛してくる。そうなったら俺はまた言葉を失って、間抜けな顔を晒すことになる。だから彼女を廊下で見かけても、視線を合わせないようにしていた。
——なのになぜ、マリーが廊下を歩いているのを見かけるたびに、目で追ってしまうのか。なぜ毎晩、図書館に通っているのか。
俺はあえてその答えを、見て見ぬ振りしていた。
それが間違いだったと気付いたのは、クラリス・ノートンの謹慎が決まってしばらく経った頃のことだった。
「クロード殿下、少々よろしいでしょうか」
その夜、マリーを寮の前まで送り届けてから自室に戻ると、ルームメイトのアべルが珍しく俺を待っていた。
「モンゴメリー令嬢のことで、一つ申し上げたいことがございます」
「……聞こう」
アベルは少し言葉を選んでから、静かに言った。
「殿下が婚約者である彼女に対してああも素っ気なくされていては、周囲のものは“殿下はあの令嬢を軽んじておられる”と判断いたします。そのような見られ方をしてしまうと、心無いものの標的になりやすい。……今回の件も、無関係ではなかったかもしれません」
俺はアベルの指摘に、言葉に詰まってしまった。
気にかけていなかったわけではない。ただ、どう接すればいいのか分からなかった。そんな俺の態度が、マリーを危険に晒す一因になっていたのかもしれない。
「差し出がましい真似をしてしまい、申し訳ございません」
「いや……助かった。忠告感謝する」
◇◇◇
アベルから忠告を受けた翌日から、俺はマリーと昼食を共にするようにした。
彼女は突然の俺の行動をいぶかしんでいたが、昼食を前にすると、すぐにそちらに意識を奪われて、目を輝かせた。
カトラリーを扱う所作は令嬢らしい優雅さがあったが、食べ物を口に運ぶスピードはおおよそ令嬢とは思えぬ速さだ。
「……随分と食べるんだな」
思わず口に出してしまった。しかしマリーは気分を害した様子もなく、へらりと笑った。
「昔から、美味しいものを好きなだけ食べるのが好きなんです」
そう言って、彼女はすぐに皿へと視線を戻した。小さな口を忙しなく動かしては、時折幸せそうにため息をつく。
そんな彼女の姿に、自然と口角が上がっていくのを感じた。
◇◇◇
昼は向かい合って昼食をとり、夜は図書館でひっそりと並んで各々の作業に没頭する。
そんな日常が当たり前となったある日、俺はずっと疑問に思っていたことを思い切ってマリーに尋ねてみた。
「そんなに頑張っていて、お前は疲れないのか?」
マリーが告発文書を携えて廊下を歩いていた日のことを、俺はよく覚えている。
あの量の書類を、一週間で仕上げたと平然とした顔で言ってのけた上に、俺が矢面に立つと申し出ても首を縦に振らなかった。
「私が調査したのですから、最後まで責任はとります」
頑固だと思った。
同時に、これが彼女の在り方なのだと、腑に落ちた。
マリーが動く理由は、いつも同じだ。
——他人のためだ。
領民のために夜更けまで働き、自分が嫌がらせを受けても気にも留めないくせに、同級生に頼まれた途端に証拠を集め始め、国民のためならと侯爵の不正まで暴いた。そのうえ、加害者である令嬢にまで救いの手を差し伸べるなんて。
これを底抜けのお人好しと言わずして、なんと呼ぶのか。
しかし本人には一切その自覚がないらしく、俺の質問にキョトンとしている。
「私は美しいものが好きだから、私欲のために動いているだけですよ」
「どういうことだ」
「心の底から笑っている人は美しいし、幸せそうな領民の生活も美しい。私は美しいものを見ると気分がいい。だからその美しさを守るためなら、どれだけだって頑張れるんです」
これが愛社精神ってやつですかね、などと訳のわからないことを言うマリーは、幸福に満ちた、心の底からの笑顔を浮かべていた。
マリーのその笑顔こそが、世界で一番美しいと——いつか彼女に伝えられるだろうか。




