白い結婚と呼ばれた三年間のすべてを、夫の日記で知った
『フォルスター卿は、北方戦線にて名誉の戦死を遂げられました』
使者の声が、暖炉の爆ぜる音に溶けていった。
膝から力が抜けるのが分かった。椅子の肘掛けを掴んだはずの指は空を切って、わたしはそのまま、床に崩れ落ちた。
……三年間。
あの人は、一度もわたしに触れなかった。
指先すら。
理由を聞きたかった。聞きたくて、でも──聞けなかった。「愛していないから」と言われたら、わたしはたぶん、この屋敷に居られなくなる。それが怖くて、ずっと口を噤んでいた。
もう、聞くこともできない。
使者が何か言っている。弔意がどうとか、聖女府からの通達がどうとか。頭に入らない。ただ一つ、耳に残ったのは「ご遺品です」という事務的な言葉だけだった。
差し出されたのは、革表紙の日記帳が一冊。
……それだけ?
剣は。聖騎士の紋章は。遺体は。
疑問が浮かんだけれど、形にする前に使者は頭を下げて帰っていった。
わたしの手には、使い込まれた革の感触だけが残っている。
「奥様」
侍女のメルルが、しわだらけの手でわたしの肩を支えてくれた。この屋敷でずっと、レナート様の世話をしてきた人だ。
「坊ちゃまのお兄様方から直接お預かりしたものです。……読みなさい。あの子がどれだけ貴女を想っていたか、知る権利がある」
……想って、いた?
メルルは泣いていなかった。ただ、口元がわずかに震えていて、皺の深い目が妙に強い光を帯びていた。
わたしは日記を受け取った。
革の表紙は体温で温まらないくらい冷たくて、なのに不思議と、持っているだけで手が震える。
開けば、あの人の字がある。あの人の言葉がある。
──でも、もし。
(もし、わたしのことなんて一行も書かれていなかったら?)
そう思ったら、指が動かなかった。
暖炉の薪が、ぱちん、と弾けた。
その小さな音に背中を押されるように、わたしは表紙を開いた。
◇
最初のページに日付があった。わたしたちの婚姻の日。三年前の、春。
レナート様の字は、話し方と同じだった。飾りがなくて、余白が多くて、必要なことだけが静かに並んでいる。
『婚姻の儀、終了。イレーヌは少し緊張していた。手が冷たかった。握ってやりたかったが、できなかった。』
──……え。
握ってやりたかった。
たった一行。それだけのことなのに、視界が滲んだ。
結婚初夜のことを思い出す。
「俺はお前に触れない」
あの人はそれだけ言って、わたしにはベッドを使わせて、自分は窮屈そうなソファに横になった。理由は言わなかった。わたしも聞かなかった。
あの夜、わたしは枕を抱いて眠った。
……この人は、本当はどう思っていたのだろう。
次のページ。
『イレーヌが庭の花に水をやっていた。髪にかかった水滴を払ってやりたかった。ただそれだけのことが、俺にはできない。』
また。
「やりたかった」「できない」。
ページをめくるたび、同じ構造の文が繰り返されていた。触れたいのに、触れられない。したいのに、できない。
一年目の日記は、そればかりだった。
季節の記録は素っ気ない。「初夏」「秋」「冬の入り」。でもイレーヌという名前が出てくる箇所だけ、文字が少しだけ大きくなっている。丁寧に、ゆっくり書いたのだと分かる。
二年目に入ると、筆圧が変わった。
『聖女が言った。「可哀想に。あの人は、貴女に触れられないのではなく、触れたくないのですよ」と。──イレーヌの前で。』
次の行に。
『殴りたかった。』
……レナート様。
あの日のこと、覚えている。社交の場でセラフィーナ様がわたしに微笑みながらそう言ったのだ。慈悲深い顔で。優しい声で。わたしの横で、レナート様は何も言わなかった。
ずっと、反論してくれないことが少しだけ辛かった。
日記を読んで初めて知った。
『殴れば問題になるのはイレーヌだ。聖女に逆らえば、社交界でのイレーヌの居場所がなくなる。拳を握るだけで、俺は何もできなかった。』
ああ。
……そうだったの。
涙が日記の上に落ちた。慌てて袖で拭く。字が滲んだら困る。これはあの人の──あの人が、わたしの代わりに書いてくれていた言葉なのだから。
二年目の終わり頃、ページの間から何かが滑り落ちた。
押し花。
四つ葉のクローバー。
庭で見つけて、ふざけて「幸運のおすそわけです」とレナート様に見せた覚えがある。あの人は「そうか」としか言わなかった。
拾って、挟んでいたのか。あの人が。
歪に潰れた四つ葉は、押し花になって少し茶色くなっていた。
でも、形は残っていた。
(……ばか。そういうことは言ってよ)
声に出したら泣いてしまいそうだったから、心の中だけで呟いた。
◇
三年目。
ページをめくる手が、不意に止まった。
文体が変わっていた。
それまでの観察日記のような穏やかな文章が消えて、走り書きに近い筆跡になっている。インクの染みが目立つ。何度も書いては消した跡がある。
『神殿の古文書庫で確認した。聖騎士の誓いの、本当の意味を。』
心臓が跳ねた。
『聖女の加護は、聖騎士の身体を通じて守護される。聖騎士が妻に肌を重ねた場合──加護は妻へ移る。加護を失った騎士は、次の戦場で神護なく戦うことになる。』
次の一行は、震えた字で。
『つまり、死ぬ。』
──嘘。
日記を持つ指が強張った。文字が揺れる。わたしの手が震えているのだ。
触れたくなかったのではない。触れたら、死ぬ。
あの人はそれを知っていて、三年間──。
『イレーヌに理由を話せば、あいつは自分を責める。「わたしのせいで触れられないのですね」と泣く。それだけは嫌だ。俺が我慢すればいい。任期は三年。三年が終われば加護は正式に解除される。──この三年が、こんなに長いとは思わなかった。』
泣いた。
堰を切ったように泣いた。
声を上げて泣いたのは、いつ以来だろう。没落寸前の実家にいた頃でさえ、わたしは声を出して泣けなかったのに。
三年間ずっと、レナート様は一人で背負っていた。わたしに心配をかけまいと、理由を一言も明かさなかった。あの不器用な人が。あの寡黙な人が。
日記だけが、あの人の口だったのだ。
涙を拭って、残りのページをめくった。
三年目の冬。出征が決まった記述。
そして──出征前夜。日記の最後から二ページ目。
『明日、北方の戦線に出る。任期満了まであと四十日。帰れば、やっとイレーヌに触れられる。』
次の行。
『触れたら、まず髪を撫でる。三年間、ずっとそうしたかった。次に手を握る。それから──』
文章はそこで途切れていた。
「それから」の先が、ない。
出征の朝が来てしまったのだ。書きかけのまま、あの人は戦場へ発った。
(……帰って来るつもりだったんだ)
当たり前のことが、今になって胸を抉る。帰るつもりだった。帰って、わたしの髪を撫でて、手を握って、「それから」を書き足すつもりだった。
でも。
帰って来なかった。
……本当に?
最後のページをめくった。
レナート様の字ではなかった。
見知らぬ筆跡の、走り書き。紙の端が血で汚れている。
『フォルスター卿、北方戦線にて重傷。意識不明。第七救護所に搬送。──戦死報は聖女府の指示により発信済み。』
目が止まった。
三回、読み直した。
……聖女府の指示。
戦死報は──聖女府が出させたもの。レナート様は、重傷で意識不明。搬送された。
死んでいない。
生きている。
日記から顔を上げた。暖炉の火がごうごうと燃えている。いつの間にかメルルが薪を足してくれていたのだ。
遺品が日記一冊だけだったのは。遺体が戻らなかったのは。──死んでいないからだ。
頭の中で歯車が噛み合う音がした。
聖女セラフィーナは、レナート様の任期満了を阻止したかった。あと四十日で加護は解除される。解除されれば、レナート様はわたしに触れられるようになる。白い結婚は終わる。
それが、彼女には──都合が悪かった。
だから。
重傷のレナート様を「死んだこと」にして、わたしから引き離した。
(ふざけないで)
椅子から立ち上がった。足は震えていたけれど、もう座っていられなかった。
三年間、わたしは何も聞けなかった。なぜ触れてくれないのか。なぜ理由を教えてくれないのか。怖くて、臆病で、全部飲み込んだ。
──もう、いい。もう、待たない。
「メルル」
「はい、奥様」
振り返ると、メルルは外套を二枚、抱えて立っていた。
……この人は、最初から知っていたのだ。
「馬を。一番速い馬を」
「どちらへ」
「北方第七救護所」
メルルが微笑んだ。皺だらけの顔が、くしゃりと崩れた。
「ようやくですね、奥様。──早馬を出します。馬車じゃ間に合いませんから」
◇
北方への街道は冬枯れの木々に挟まれて、風が刃のように冷たかった。
早馬の背にしがみつきながら、外套の内側に日記を押し込んだ。胸の近くに。あの人の字が、体温で温まるように。
街道の分岐点に差し掛かったとき、一台の馬車が道を塞いでいた。
教会の紋章。
馬車の前に立っていたのは、白い法衣の老人だった。神官長ベルトラン。聖女セラフィーナの後見人であり、聖女府の実務を取り仕切る人物。
「フォルスター夫人」
穏やかな声だった。穏やかだけれど、目が笑っていない。
「夫君の戦死は大変お気の毒なことでした。弔問の手続きは聖女府が──」
「あの人は死んでいません」
遮った。自分でも驚くほど、声が通った。
神官長の目が、一瞬だけ細まった。
「……何をおっしゃっているか」
「第七救護所に搬送されています。重傷で、意識不明ですが、生きている。戦死報は聖女府の指示で出されたものです」
日記を取り出した。最後のページを開いて、神官長の目の前に差し出す。
軍医の走り書き。血の染み。そして──「戦死報は聖女府の指示により発信済み」の一文。
神官長の顔から、血の気が引いていくのが分かった。
「……それは」
「軍医の直筆です。日記はレナート様の遺品として伯爵家を通じてわたしに届きました。聖女府の検閲を通っていません」
声は震えていなかった。不思議なくらい、頭は冴えていた。
「この一枚の写しを王家の監査局に提出すれば、公文書偽造として聖女府の調査が入ります。……神官長猊下、お立場は大丈夫ですか?」
沈黙。
街道を吹き抜ける風の音だけが、二人の間を通り過ぎた。
わたしは怒鳴りたかった。三年間、あの人を一人にした聖女と、それに加担したこの老人を、声の限り罵りたかった。
でも、そうしなかった。
レナート様が三年間、拳を握るだけで黙っていたように。わたしも、声を荒げない。
ただ事実を、突きつけるだけで充分だ。
「……道を、お空けください」
静かに言った。
神官長は何も言わなかった。馬車を脇に寄せるよう御者に合図して、法衣の裾を握りしめたまま、道を空けた。
すれ違いざまに、わたしはもう一つだけ口を開いた。
「三年間──あの人が何を我慢していたか、聖女様はご存じですか。触れたら死ぬと知っていて、それでも触れたいと、毎晩日記に書いていた人の気持ちを」
返事はなかった。
振り返らなかった。
馬を走らせた。
◇
第七救護所は、石造りの小さな建物だった。
消毒薬の匂いと、薄い血の匂いが入り混じっている。軍医に事情を告げると、奥の部屋に通された。
簡素なベッドの上に、レナート様がいた。
包帯だらけだった。左腕は吊られていて、額にも布が巻かれている。頬は痩せて、髭が伸びていて、いつもの整った騎士の姿はどこにもない。
──でも、息をしている。
「……レナート様」
ベッドの脇に膝をついた。声が掠れた。
あの人の瞼が、ゆっくりと持ち上がった。
灰色の瞳。見慣れたはずの色が、包帯の白に縁取られて、やけに透き通って見えた。
「……イレーヌ」
掠れた声。でも──わたしの名前だった。
この人は、三年間ずっと、わたしの名前を呼ぶとき少しだけ声が低くなる。それが好きだった。
「日記……読んだか」
「全部」
「……恥ずかしいな。あれは、お前に読ませる……つもりは……」
「読んでよかった」
涙が止まらなかった。鼻も目も、全部ぐしゃぐしゃだった。令嬢として最悪の顔だと思う。でもそんなことは今はどうでもいい。
「読まなかったら、わたしはここに来られなかった」
レナート様が、少しだけ笑った。
笑うところを見るのは──三年間で、数えるほどしかない。口の端がほんの少し上がるだけの、分かりにくい笑い方。でも、分かる。わたしには分かる。
包帯の巻かれた右手が、ゆっくりと持ち上がった。
震えている。
わたしに向かって伸ばされた手が、途中で止まった。三年間の癖だろう。触れる直前で、止まる。
「……任期は、あと四十日ある」
「ない」
わたしは言い切った。
「わたしが監査局に報告書を出します。聖女府が戦死報を偽造した件で。聖女様の権限が調査対象になれば、任期の継続なんて通りません」
レナート様が目を瞬いた。灰色の瞳がまん丸になって、包帯の間から見える耳が赤くなった。
……この人は昔からこうだ。少し感情が宿ると途端に人間味が出てくる。
「三年間、わたしは何も聞けなかった。怖かったの。聞いて、愛していないと言われるのが」
言葉が溢れ出した。止められなかった。
「でも日記を読んで分かった。あなたも同じだった。言えなかったんでしょう。わたしが自分を責めるのが嫌で。全部一人で背負って、日記にだけ書いて」
レナート様は黙っていた。否定も肯定もしなかった。ただ、止まっていた手が──もう一度、わたしに向かって伸びた。
今度は、止まらなかった。
指先が、わたしの髪に触れた。
三年分の沈黙を溶かすような、遠慮がちな指先。水を払うでもなく、撫でるでもなく、ただ、髪の一筋を確かめるように。
「……日記に書いた通りだ」
掠れた声が、少し震えていた。
「まず……髪を撫でる。三年、ずっとこうしたかった」
次に、わたしの手を取った。
包帯だらけの、大きな手。骨張っていて、硬くて、不器用で──温かかった。
「次に、手を握る」
指を絡められた。
ぎゅう、と力が入る。怪我人のくせに、握力だけは健在だった。痛いくらい。でも痛いのが嬉しかった。
この手がずっとわたしに届きたくて、届けなかった手だ。
「それから?」
泣き笑いで聞いた。
日記の、書きかけの文。「それから──」の先。
レナート様は少し黙って、それから耳まで真っ赤にして目を逸らした。
「……帰ってから」
もう。
何その、無駄に律儀なところ。
笑った。泣きながら笑ってしまった。
包帯だらけの手を、わたしは両手で包み直す。
日記の中に挟まっていた四つ葉の押し花が、外套の内ポケットでかさりと音を立てた。歪に潰れた四つ葉。茶色く変色して、でも形だけは残っている。
わたしたちの三年間に、似ていた。
歪でも。不格好でも。
ちゃんと、残っていた。
◇
後日。
聖女府から正式な謝罪文と、聖女セラフィーナの権限停止の通達が届いた。
わたしは封を切って中身を確認し、丁寧に折り畳んで書棚に仕舞った。
日記は、仕舞わなかった。
暖炉の上の、一番目につく場所に置いた。レナート様が帰ってきたとき──もうすぐ帰ってくる──最初に見える場所に。
日記の最後のページに、わたしは一行だけ書き足した。
レナート様の「それから──」の続き。
『それから、わたしはあなたの手を離しませんでした。』
白い結婚は、終わった。
書きかけだった「それから」を、わたしたちはこれから、二人で綴っていく。
最後までお読みいただき、ありがとうございました!
もし、この物語を少しでも楽しんでいただけましたら、ブックマークや★評価などの形で応援をいただけますと、大変励みになります!!




