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白い結婚と呼ばれた三年間のすべてを、夫の日記で知った

掲載日:2026/02/26

『フォルスター卿は、北方戦線にて名誉の戦死を遂げられました』


使者の声が、暖炉の爆ぜる音に溶けていった。


膝から力が抜けるのが分かった。椅子の肘掛けを掴んだはずの指は空を切って、わたしはそのまま、床に崩れ落ちた。


……三年間。


あの人は、一度もわたしに触れなかった。


指先すら。


理由を聞きたかった。聞きたくて、でも──聞けなかった。「愛していないから」と言われたら、わたしはたぶん、この屋敷に居られなくなる。それが怖くて、ずっと口を噤んでいた。


もう、聞くこともできない。


使者が何か言っている。弔意がどうとか、聖女府からの通達がどうとか。頭に入らない。ただ一つ、耳に残ったのは「ご遺品です」という事務的な言葉だけだった。


差し出されたのは、革表紙の日記帳が一冊。


……それだけ?


剣は。聖騎士の紋章は。遺体は。


疑問が浮かんだけれど、形にする前に使者は頭を下げて帰っていった。


わたしの手には、使い込まれた革の感触だけが残っている。


「奥様」


侍女のメルルが、しわだらけの手でわたしの肩を支えてくれた。この屋敷でずっと、レナート様の世話をしてきた人だ。


「坊ちゃまのお兄様方から直接お預かりしたものです。……読みなさい。あの子がどれだけ貴女を想っていたか、知る権利がある」


……想って、いた?


メルルは泣いていなかった。ただ、口元がわずかに震えていて、皺の深い目が妙に強い光を帯びていた。


わたしは日記を受け取った。


革の表紙は体温で温まらないくらい冷たくて、なのに不思議と、持っているだけで手が震える。


開けば、あの人の字がある。あの人の言葉がある。


──でも、もし。


(もし、わたしのことなんて一行も書かれていなかったら?)


そう思ったら、指が動かなかった。


暖炉の薪が、ぱちん、と弾けた。


その小さな音に背中を押されるように、わたしは表紙を開いた。



最初のページに日付があった。わたしたちの婚姻の日。三年前の、春。


レナート様の字は、話し方と同じだった。飾りがなくて、余白が多くて、必要なことだけが静かに並んでいる。


『婚姻の儀、終了。イレーヌは少し緊張していた。手が冷たかった。握ってやりたかったが、できなかった。』


──……え。


握ってやりたかった。


たった一行。それだけのことなのに、視界が滲んだ。


結婚初夜のことを思い出す。


「俺はお前に触れない」


あの人はそれだけ言って、わたしにはベッドを使わせて、自分は窮屈そうなソファに横になった。理由は言わなかった。わたしも聞かなかった。


あの夜、わたしは枕を抱いて眠った。


……この人は、本当はどう思っていたのだろう。


次のページ。


『イレーヌが庭の花に水をやっていた。髪にかかった水滴を払ってやりたかった。ただそれだけのことが、俺にはできない。』


また。


「やりたかった」「できない」。


ページをめくるたび、同じ構造の文が繰り返されていた。触れたいのに、触れられない。したいのに、できない。


一年目の日記は、そればかりだった。


季節の記録は素っ気ない。「初夏」「秋」「冬の入り」。でもイレーヌという名前が出てくる箇所だけ、文字が少しだけ大きくなっている。丁寧に、ゆっくり書いたのだと分かる。


二年目に入ると、筆圧が変わった。


『聖女が言った。「可哀想に。あの人は、貴女に触れられないのではなく、触れたくないのですよ」と。──イレーヌの前で。』


次の行に。


『殴りたかった。』


……レナート様。


あの日のこと、覚えている。社交の場でセラフィーナ様がわたしに微笑みながらそう言ったのだ。慈悲深い顔で。優しい声で。わたしの横で、レナート様は何も言わなかった。


ずっと、反論してくれないことが少しだけ辛かった。


日記を読んで初めて知った。


『殴れば問題になるのはイレーヌだ。聖女に逆らえば、社交界でのイレーヌの居場所がなくなる。拳を握るだけで、俺は何もできなかった。』


ああ。


……そうだったの。


涙が日記の上に落ちた。慌てて袖で拭く。字が滲んだら困る。これはあの人の──あの人が、わたしの代わりに書いてくれていた言葉なのだから。


二年目の終わり頃、ページの間から何かが滑り落ちた。


押し花。


四つ葉のクローバー。


庭で見つけて、ふざけて「幸運のおすそわけです」とレナート様に見せた覚えがある。あの人は「そうか」としか言わなかった。


拾って、挟んでいたのか。あの人が。


歪に潰れた四つ葉は、押し花になって少し茶色くなっていた。


でも、形は残っていた。


(……ばか。そういうことは言ってよ)


声に出したら泣いてしまいそうだったから、心の中だけで呟いた。



三年目。


ページをめくる手が、不意に止まった。


文体が変わっていた。


それまでの観察日記のような穏やかな文章が消えて、走り書きに近い筆跡になっている。インクの染みが目立つ。何度も書いては消した跡がある。


『神殿の古文書庫で確認した。聖騎士の誓いの、本当の意味を。』


心臓が跳ねた。


『聖女の加護は、聖騎士の身体を通じて守護される。聖騎士が妻に肌を重ねた場合──加護は妻へ移る。加護を失った騎士は、次の戦場で神護なく戦うことになる。』


次の一行は、震えた字で。


『つまり、死ぬ。』


──嘘。


日記を持つ指が強張った。文字が揺れる。わたしの手が震えているのだ。


触れたくなかったのではない。触れたら、死ぬ。


あの人はそれを知っていて、三年間──。


『イレーヌに理由を話せば、あいつは自分を責める。「わたしのせいで触れられないのですね」と泣く。それだけは嫌だ。俺が我慢すればいい。任期は三年。三年が終われば加護は正式に解除される。──この三年が、こんなに長いとは思わなかった。』


泣いた。


堰を切ったように泣いた。


声を上げて泣いたのは、いつ以来だろう。没落寸前の実家にいた頃でさえ、わたしは声を出して泣けなかったのに。


三年間ずっと、レナート様は一人で背負っていた。わたしに心配をかけまいと、理由を一言も明かさなかった。あの不器用な人が。あの寡黙な人が。


日記だけが、あの人の口だったのだ。


涙を拭って、残りのページをめくった。


三年目の冬。出征が決まった記述。


そして──出征前夜。日記の最後から二ページ目。


『明日、北方の戦線に出る。任期満了まであと四十日。帰れば、やっとイレーヌに触れられる。』


次の行。


『触れたら、まず髪を撫でる。三年間、ずっとそうしたかった。次に手を握る。それから──』


文章はそこで途切れていた。


「それから」の先が、ない。


出征の朝が来てしまったのだ。書きかけのまま、あの人は戦場へ発った。


(……帰って来るつもりだったんだ)


当たり前のことが、今になって胸を抉る。帰るつもりだった。帰って、わたしの髪を撫でて、手を握って、「それから」を書き足すつもりだった。


でも。


帰って来なかった。


……本当に?


最後のページをめくった。


レナート様の字ではなかった。


見知らぬ筆跡の、走り書き。紙の端が血で汚れている。


『フォルスター卿、北方戦線にて重傷。意識不明。第七救護所に搬送。──戦死報は聖女府の指示により発信済み。』


目が止まった。


三回、読み直した。


……聖女府の指示。


戦死報は──聖女府が出させたもの。レナート様は、重傷で意識不明。搬送された。


死んでいない。


生きている。


日記から顔を上げた。暖炉の火がごうごうと燃えている。いつの間にかメルルが薪を足してくれていたのだ。


遺品が日記一冊だけだったのは。遺体が戻らなかったのは。──死んでいないからだ。


頭の中で歯車が噛み合う音がした。


聖女セラフィーナは、レナート様の任期満了を阻止したかった。あと四十日で加護は解除される。解除されれば、レナート様はわたしに触れられるようになる。白い結婚は終わる。


それが、彼女には──都合が悪かった。


だから。


重傷のレナート様を「死んだこと」にして、わたしから引き離した。


(ふざけないで)


椅子から立ち上がった。足は震えていたけれど、もう座っていられなかった。


三年間、わたしは何も聞けなかった。なぜ触れてくれないのか。なぜ理由を教えてくれないのか。怖くて、臆病で、全部飲み込んだ。


──もう、いい。もう、待たない。


「メルル」


「はい、奥様」


振り返ると、メルルは外套を二枚、抱えて立っていた。


……この人は、最初から知っていたのだ。


「馬を。一番速い馬を」


「どちらへ」


「北方第七救護所」


メルルが微笑んだ。皺だらけの顔が、くしゃりと崩れた。


「ようやくですね、奥様。──早馬を出します。馬車じゃ間に合いませんから」



北方への街道は冬枯れの木々に挟まれて、風が刃のように冷たかった。


早馬の背にしがみつきながら、外套の内側に日記を押し込んだ。胸の近くに。あの人の字が、体温で温まるように。


街道の分岐点に差し掛かったとき、一台の馬車が道を塞いでいた。


教会の紋章。


馬車の前に立っていたのは、白い法衣の老人だった。神官長ベルトラン。聖女セラフィーナの後見人であり、聖女府の実務を取り仕切る人物。


「フォルスター夫人」


穏やかな声だった。穏やかだけれど、目が笑っていない。


「夫君の戦死は大変お気の毒なことでした。弔問の手続きは聖女府が──」


「あの人は死んでいません」


遮った。自分でも驚くほど、声が通った。


神官長の目が、一瞬だけ細まった。


「……何をおっしゃっているか」


「第七救護所に搬送されています。重傷で、意識不明ですが、生きている。戦死報は聖女府の指示で出されたものです」


日記を取り出した。最後のページを開いて、神官長の目の前に差し出す。


軍医の走り書き。血の染み。そして──「戦死報は聖女府の指示により発信済み」の一文。


神官長の顔から、血の気が引いていくのが分かった。


「……それは」


「軍医の直筆です。日記はレナート様の遺品として伯爵家を通じてわたしに届きました。聖女府の検閲を通っていません」


声は震えていなかった。不思議なくらい、頭は冴えていた。


「この一枚の写しを王家の監査局に提出すれば、公文書偽造として聖女府の調査が入ります。……神官長猊下、お立場は大丈夫ですか?」


沈黙。


街道を吹き抜ける風の音だけが、二人の間を通り過ぎた。


わたしは怒鳴りたかった。三年間、あの人を一人にした聖女と、それに加担したこの老人を、声の限り罵りたかった。


でも、そうしなかった。


レナート様が三年間、拳を握るだけで黙っていたように。わたしも、声を荒げない。


ただ事実を、突きつけるだけで充分だ。


「……道を、お空けください」


静かに言った。


神官長は何も言わなかった。馬車を脇に寄せるよう御者に合図して、法衣の裾を握りしめたまま、道を空けた。


すれ違いざまに、わたしはもう一つだけ口を開いた。


「三年間──あの人が何を我慢していたか、聖女様はご存じですか。触れたら死ぬと知っていて、それでも触れたいと、毎晩日記に書いていた人の気持ちを」


返事はなかった。


振り返らなかった。


馬を走らせた。



第七救護所は、石造りの小さな建物だった。


消毒薬の匂いと、薄い血の匂いが入り混じっている。軍医に事情を告げると、奥の部屋に通された。


簡素なベッドの上に、レナート様がいた。


包帯だらけだった。左腕は吊られていて、額にも布が巻かれている。頬は痩せて、髭が伸びていて、いつもの整った騎士の姿はどこにもない。


──でも、息をしている。


「……レナート様」


ベッドの脇に膝をついた。声が掠れた。


あの人の瞼が、ゆっくりと持ち上がった。


灰色の瞳。見慣れたはずの色が、包帯の白に縁取られて、やけに透き通って見えた。


「……イレーヌ」


掠れた声。でも──わたしの名前だった。


この人は、三年間ずっと、わたしの名前を呼ぶとき少しだけ声が低くなる。それが好きだった。


「日記……読んだか」


「全部」


「……恥ずかしいな。あれは、お前に読ませる……つもりは……」


「読んでよかった」


涙が止まらなかった。鼻も目も、全部ぐしゃぐしゃだった。令嬢として最悪の顔だと思う。でもそんなことは今はどうでもいい。


「読まなかったら、わたしはここに来られなかった」


レナート様が、少しだけ笑った。


笑うところを見るのは──三年間で、数えるほどしかない。口の端がほんの少し上がるだけの、分かりにくい笑い方。でも、分かる。わたしには分かる。


包帯の巻かれた右手が、ゆっくりと持ち上がった。


震えている。


わたしに向かって伸ばされた手が、途中で止まった。三年間の癖だろう。触れる直前で、止まる。


「……任期は、あと四十日ある」


「ない」


わたしは言い切った。


「わたしが監査局に報告書を出します。聖女府が戦死報を偽造した件で。聖女様の権限が調査対象になれば、任期の継続なんて通りません」


レナート様が目を瞬いた。灰色の瞳がまん丸になって、包帯の間から見える耳が赤くなった。


……この人は昔からこうだ。少し感情が宿ると途端に人間味が出てくる。


「三年間、わたしは何も聞けなかった。怖かったの。聞いて、愛していないと言われるのが」


言葉が溢れ出した。止められなかった。


「でも日記を読んで分かった。あなたも同じだった。言えなかったんでしょう。わたしが自分を責めるのが嫌で。全部一人で背負って、日記にだけ書いて」


レナート様は黙っていた。否定も肯定もしなかった。ただ、止まっていた手が──もう一度、わたしに向かって伸びた。


今度は、止まらなかった。


指先が、わたしの髪に触れた。


三年分の沈黙を溶かすような、遠慮がちな指先。水を払うでもなく、撫でるでもなく、ただ、髪の一筋を確かめるように。


「……日記に書いた通りだ」


掠れた声が、少し震えていた。


「まず……髪を撫でる。三年、ずっとこうしたかった」


次に、わたしの手を取った。


包帯だらけの、大きな手。骨張っていて、硬くて、不器用で──温かかった。


「次に、手を握る」


指を絡められた。


ぎゅう、と力が入る。怪我人のくせに、握力だけは健在だった。痛いくらい。でも痛いのが嬉しかった。


この手がずっとわたしに届きたくて、届けなかった手だ。


「それから?」


泣き笑いで聞いた。


日記の、書きかけの文。「それから──」の先。


レナート様は少し黙って、それから耳まで真っ赤にして目を逸らした。


「……帰ってから」


もう。


何その、無駄に律儀なところ。


笑った。泣きながら笑ってしまった。


包帯だらけの手を、わたしは両手で包み直す。


日記の中に挟まっていた四つ葉の押し花が、外套の内ポケットでかさりと音を立てた。歪に潰れた四つ葉。茶色く変色して、でも形だけは残っている。


わたしたちの三年間に、似ていた。


歪でも。不格好でも。


ちゃんと、残っていた。



後日。


聖女府から正式な謝罪文と、聖女セラフィーナの権限停止の通達が届いた。


わたしは封を切って中身を確認し、丁寧に折り畳んで書棚に仕舞った。


日記は、仕舞わなかった。


暖炉の上の、一番目につく場所に置いた。レナート様が帰ってきたとき──もうすぐ帰ってくる──最初に見える場所に。


日記の最後のページに、わたしは一行だけ書き足した。


レナート様の「それから──」の続き。


『それから、わたしはあなたの手を離しませんでした。』


白い結婚は、終わった。


書きかけだった「それから」を、わたしたちはこれから、二人で綴っていく。

最後までお読みいただき、ありがとうございました!


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― 新着の感想 ―
なんで加護が失われるタイミングで結婚したのか、聖騎士は一人なのか、既婚なら加護がない(ということですよね)のならこれまでも同じ問題があったろうにそれを知らないのはなぜなのか、聖女府?によって隠蔽されて…
聖騎士って1人だけなの???? 複数人いるなら既婚者の聖騎士みんな一切触れ合わず白い結果になるから、おかしくない?ってなりそうなものなのに。その中に夫から話を聞いて周りに話す人だっていそうなのに。
婚姻を前に横恋慕で無理矢理ねじ込んだんでしょうね。 猊下が加担したことと、何かの事情で断れなかった。 主人公の家が没落していたあるので、教会を通じて便宜を図る、または反対にトドメをさすような裏工作があ…
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