第14話:分断
# 第14話:分断
暗闇の中を進む。
ダンジョンの空気が肌にまとわりつく。かび臭い。湿気と、何か腐ったような匂いが混ざっている。足元の石が濡れていて、一歩ごとに滑りそうになる。
リンは前を見た。松明の光が、壁に不規則な影を作っている。ミオが剣を構えている。リンの少し前を歩いて、周囲を警戒している。
「ミオ、右」
リンの声が、静かに響く。
ミオが反応する。剣を構え直す。暗闇の奥から、何かが這い出してくる。魔物だ。人の背丈ほどの蜘蛛。八つの脚が石床を叩く音が、リンの鼓膜に刺さる。
「行く」
ミオが地を蹴った。剣が弧を描く。魔物の脚を斬る。緑色の体液が飛び散る。魔物が倒れる。動かない。
「次、左後ろ」
リンが魔力を感じ取る。複数の気配。小型の魔物が群れで来る。
「うん」
ミオが振り返る。剣を横薙ぎに払う。一度に三体を斬り倒す。血の匂いが、緑色の体液の匂いと混ざる。鉄と、腐肉の匂い。
リンは呼吸を整えた。胸の奥が詰まったような感覚。肺に空気がうまく入らない。
浅層を抜けて、中層を抜けた。今は深層に近い。魔物の密度が上がっている。一度に複数が来る。止まれない。止まったら追いつかれる。
リンは背後を振り返った。気配はまだ感じない。でも、来る。追ってくる。
あの黒いローブの男たち。聖カタリナ院の追手。
リンは前を向いた。ミオが振り返って、リンを見ている。
「リン、疲れてる?」
「平気」
リンは答えた。でも嘘だ。足が重い。肩が痛い。首を回すとゴリゴリと鳴る。魔力を使いすぎた。頭がぼんやりする。
でも止まれない。
「もう少し進むわ。深層まで行けば、あいつらも追ってこれないはず」
「わかった」
ミオが頷く。二人は歩き出した。
松明の光が揺れる。影が壁を這う。リンの心臓が、静かに、でも強く打っている。
*
背後から、気配が来た。
リンの背筋が凍る。魔力感知が反応する。人だ。複数。距離が近い。
「来た。追いつかれる」
リンの声が震えた。ミオが振り返る。
「どうする?」
「走る。でも、戦う準備をして」
二人は速度を上げた。足音が石床に反響する。リンの呼吸が荒くなる。心臓が喉まで上がってきたような圧迫感。
背後から、声が聞こえた。
「逃がすな。ミオを回収しろ」
冷たい声。あの男の声だ。
リンは歯を食いしばった。足が竦みそうになる。でもミオの背中が見える。銀色の髪が揺れている。止まれない。
「リン!」
ミオが叫ぶ。前方に魔物が現れた。大型の獣。牙が松明の光を反射している。
「右に避けて!」
リンが指示を出す。ミオが右に飛ぶ。リンも続く。獣が飛びかかる。リンの目の前を巨大な体が通り過ぎる。風圧が頬を撫でる。
獣が壁に激突する。でも振り返る。再び襲いかかろうとする。
その時、背後から黒い影が飛び出した。
黒いローブの男。その手に、剣が光っている。男が獣を一閃する。獣が倒れる。血が飛び散る。
男がリンとミオを見た。
「観念しろ。無駄な抵抗はやめろ」
リンは立ち止まった。ミオが剣を構える。
男の後ろから、もう二人、ローブの男が現れた。三人。全員が武器を持っている。
リンは魔力を集中した。手が震える。でも集中する。
「ミオ、左から」
「うん!」
ミオが地を蹴った。左の男に斬りかかる。男が剣で受ける。金属が激突する音。火花が散る。
リンは魔力を放った。魔法弾が右の男に飛ぶ。男が避ける。壁に当たって砕ける。
中央の男がリンに向かってくる。リンは後ろに跳んだ。男の剣が空を切る。
「ミオ!」
「わかった!」
ミオが振り返る。中央の男に斬りかかる。男が剣を振る。ミオが受ける。
リンは呼吸を整えた。肺が痛い。息を吸うたびに、胸の奥がきしむ。
戦闘が続く。ミオが一人を押している。リンが魔法で牽制する。でも敵は慣れている。冒険者だ。それも、熟練の。
リンの視界が狭くなる。心臓の音だけがうるさい。集中しろ。指示を出せ。
「ミオ、下がって!」
ミオが後ろに跳ぶ。リンが魔法を放つ。三人の男の足元に。爆発。煙が上がる。
「今よ!」
二人は走り出した。煙の中を抜ける。男たちの声が背後から聞こえる。でも距離が開いた。
リンは前を見た。通路が続いている。奥に、開けた場所が見える。
「あそこまで!」
二人は走った。
*
開けた場所に出た。
広い空間。天井が高い。壁に古い彫刻が刻まれている。床は石の板が敷き詰められている。
リンは立ち止まった。呼吸が荒い。全身が震えている。力を入れようとしても、筋肉が応えない。
ミオも息が上がっている。額に汗が流れている。服が肌に張り付いている。
「リン、ここ……」
ミオが周囲を見ている。警戒している。
リンは魔力を感じ取った。敵の気配は、まだ追ってきている。でも少し距離がある。
「休めるわ。少しだけ」
リンはその場に座り込んだ。足が棒のよう。一歩も動けない。
ミオがリンの隣に座る。肩が触れる。温かい。リンの冷えた体に、ミオの体温が伝わってくる。
「リン、大丈夫?」
「……平気」
リンは答えた。でも声が震えている。
ミオがリンの手を握った。小さくて冷たい手。でも握り返してくる力は強い。
「もう少し。もう少し進めば」
リンの声が、自分を励ますように響く。
その時だった。
背後から、足音が聞こえた。
リンは振り返った。通路の奥から、黒いローブの男たちが現れた。三人。全員が武器を構えている。
「終わりだ」
男の声が、冷たく響く。
リンは立ち上がった。ミオも立つ。剣を構える。
「ミオ、私の後ろに」
「嫌。ミオが守る」
ミオがリンの前に出る。
リンはミオの手を掴んだ。
「ミオ、離さないから」
ミオがリンを見た。琥珀色の瞳が揺れている。
「うん。ミオも離さない」
男たちが近づいてくる。
リンは魔力を集中した。でも体が重い。魔力が集まらない。使いすぎた。限界が近い。
男たちが剣を振り上げた。
その瞬間。
足元の感覚が、消えた。
*
床が崩れた。
石の板が砕ける。支えがなくなる。体が浮く。
「——っ!」
リンの体が落下する。暗闇が視界を覆う。耳鳴りがする。心臓が跳ねる。
「ミオ!」
リンが叫ぶ。手を伸ばす。
「リン——!」
ミオの声が聞こえる。でも遠い。違う方向から聞こえる。
リンは手を伸ばし続けた。でも何も掴めない。空を掴む。ミオの姿が見えない。暗闇だけが広がっている。
体が何かに激突した。
鈍い衝撃。肩が痛い。肋骨が痛い。息が止まる。
リンは転がった。石の床を何度も転がる。体が痛い。全身が悲鳴を上げる。
止まった。
リンは動けなかった。体が重い。息ができない。肺が縮んだみたいに、うまく吸えない。
しばらくして、呼吸が戻った。浅い呼吸。でも空気が入ってくる。
リンは体を起こした。腕が痛い。足が痛い。でも骨は折れていない。動ける。
周囲を見た。
暗い。松明が落ちている。光が弱い。でもぼんやりと見える。
狭い空間。壁に囲まれている。天井が低い。上を見上げる。崩れた床の跡が見える。高い。戻れない。
リンは周囲を見渡した。
ミオがいない。
声がしない。
一人だ。
リンの心臓が、強く打った。
「ミオ……?」
リンの声が、震えた。
返事がない。
静寂だけが、リンを包んでいる。
リンは立ち上がった。足がふらつく。壁に手をついて支える。冷たい石の感触。
「ミオ!」
叫ぶ。声が壁に反響する。でも返事はない。
リンの呼吸が浅くなった。肺が縮む。空気が入らない。
手が震える。全身が震える。
一人だ。
また一人になった。
また失敗した。
リンの視界が、歪んだ。
*
暗い。
ダンジョンの中だ。松明の光が、壁に影を作っている。
リンは指示を出している。
「左に2体、右に1体。まず右から」
計画通り。完璧だ。
でも、崩れた。
増援。退路が塞がれる。
一人が倒れる。また一人。また一人。
マルコがリンを庇う。背中が裂ける。血の匂い。鉄の匂い。
「——お前は生きろ」
マルコの声が遠くなる。
「大丈夫だって言ったのに……」
暗闇の中、一人で這って逃げる。
また失敗した。また誰かを死なせた。
私の判断が間違っていた。
私が動けなかったから。
私が——
*
リンは壁に背中をつけて座り込んだ。
呼吸ができない。過呼吸気味になる。心臓がうるさい。視界が狭くなる。周辺が暗い。
手が震える。握れない。爪が掌に食い込む。でも握れない。
また失敗した。
ミオを失った。
また一人になった。
「だめ、だめだめだめ……」
リンの声が、震えた。
涙が出そうになる。こらえようとしても、目頭が熱い。
でも、泣けない。泣いてる場合じゃない。
動け。
ミオを探せ。
リンは深く息を吸った。肺の奥まで空気が入っていく。でもすぐに吐き出す。また吸う。また吐く。
呼吸を整える。手が震える。でも動く。
立ち上がる。足がふらつく。壁に手をついて支える。
「ミオを探す。動け。動け」
リンは自分に言い聞かせた。
でも足が進まない。
また失敗したら。
また判断を間違えたら。
ミオが死んだら。
リンの足が、竦んだ。
*
ミオは暗闇の中にいた。
体が痛い。肩が痛い。腰が痛い。足が痛い。
でも動ける。ミオは立ち上がった。
周囲を見た。
暗い。狭い空間。壁に囲まれている。
リンがいない。
ミオの心臓が跳ねた。
「リン……?」
ミオの声が、震えた。
返事がない。
ミオは周囲を見渡した。松明が転がっている。拾う。火がついている。光が広がる。
でもリンの姿はない。
「リン!」
叫ぶ。声が反響する。でも返事はない。
ミオの呼吸が浅くなった。
リンがいない。
指示がない。
どうすればいい。
ミオは立ち尽くした。
手が震える。松明を持つ手が震える。冷や汗が背中を伝う。
呼吸が浅い。肺が縮んだみたい。うまく吸えない。
どうすればいい。
ミオの頭の中で、声が響いた。
孤児院の管理者の声。
「考えるな。言われた通りにしろ」
冷たい声。
「自分で判断するな。お前は従うだけでいい」
ミオは頭を振った。
違う。
ミオは今、リンの指示がない。
誰も指示してくれない。
でも、リンの声も聞こえる。
「私の指示通りに」
リンの声。優しい声。
でも今、リンがいない。
指示がない。
どうすればいいの。
ミオは座り込んだ。膝を抱える。
「わかんない、わかんない……」
ミオの声が、震えた。
呼吸が浅い。過呼吸気味になる。視界がぼやける。
「リン……リン……」
ミオはリンの名前を繰り返した。
でも返事はない。
ミオの手が震える。全身が震える。
寒い。あったかくない。
リンの体温が欲しい。リンの匂いが欲しい。リンの声が欲しい。
でもいない。
一人だ。
ミオは目を閉じた。
暗闇の中、一人。
何も聞こえない。何も見えない。
リンがいない。
ミオの呼吸が、止まりそうになる。
でも、心臓が打っている。
リンを探さないと。
リンを守らないと。
それだけは、ミオが決めたこと。
ミオは目を開けた。
でも体が動かない。
どうすればいいかわからない。
どっちに行けばいいのかわからない。
何をすればいいのかわからない。
ミオは暗闇の中で、震え続けた。
*
二人は、完全に分断された。
連絡手段はない。
声も届かない。
暗闇の中、それぞれが一人で、震えている。
離れた瞬間、二人の体が症状を示し始めた。
手が震える。呼吸が浅くなる。視界が狭くなる。
依存の代償が、今、本格的に現れ始めている。
それでも、二人は同じことを考えていた。
相手を探さないと。
相手を守らないと。
相手がいないと、生きていけない。
暗闇の中、二人の心が、同じ方向を向いている。
でも、体は動かない。
恐怖が、二人を縛り付けている。
リンは過去のトラウマに。
ミオは孤児院の教えに。
二人は、それぞれの地獄の中で、相手の名前を呼び続けていた。




