第13話:選択
# 第13話:選択
リンは一睡もできなかった。
隣でミオが眠っている。小さく丸まって、リンの服を握っている。でも震えは止まっていない。寝ているのに、体が緊張を解かない。
窓の外が白み始めている。朝が来た。でもリンの胸の奥にある不安は、明るくならない。
リンは小さく息を吐いた。ミオの髪を撫でる。銀色の髪が指の間をすり抜ける。柔らかい。でも温かくない。
どうすればいい。
リンの頭が、昨夜からずっと答えを探している。でも見つからない。逃げる? 戦う? 誰かに助けを求める? どれも正解に思えない。どれも失敗しそうだ。
また失敗したら。また誰かを失ったら。
リンの手が震えた。
その時、宿の扉がノックされた。
リンの心臓が跳ねる。ミオが目を覚ます。
「リン……?」
「平気。私が出るわ」
リンは立ち上がった。扉を開ける。ギルドの使いが立っていた。昨日と同じ若い男だ。緊張した顔で告げる。
「リン様、ミオ様。ギルドマスターが至急お呼びです」
リンは頷いた。扉を閉める。ミオがリンを見ている。不安そうな顔。
「行くわよ」
二人は宿を出た。
*
ギルドマスター室の扉を開けた瞬間、リンは空気の重さを感じた。
ヴェルナーが机に座っている。その表情が、いつもより硬い。そして部屋の隅に、昨日の黒いローブの男が立っていた。顔は相変わらず影で見えない。でもその存在感が、部屋を冷やしている。
「座れ」
ヴェルナーの声。リンとミオは椅子に座った。ミオがリンの袖を掴んでいる。
ヴェルナーは二人を見た。そして、低い声で言った。
「あいつらが最後通牒を出してきた」
リンの背筋が凍る。
「明日の日没までにミオを渡せ。さもなくば、実力行使に出る、と」
ミオの手が震えた。リンはミオの手を握る。冷たい。
黒いローブの男が口を開いた。
「我々の商品を返していただきたい。それだけだ。穏便に済ませたい」
リンは男を睨んだ。
「ミオは商品じゃない」
男は肩をすくめた。
「商品でないなら、何だ? 不良品か?」
その言葉に、ミオの体が震えた。リンはミオの手を強く握った。
「では何だ? お前の所有物か?」
男の声が、皮肉を含んでいる。リンは唇を噛んだ。
「……私のパートナーよ」
「パートナー? それは興味深い」
男は一歩、前に出た。
「だが、我々は法的な権利を持っている。聖カタリナ院は孤児を保護し、教育を施し、社会に送り出す認可を受けた機関だ」
「保護? 教育?」
リンの声が低くなる。
「聞こえはいいわね。実際は、従順な商品を作ってるだけでしょ」
男は動じない。
「我々の教育方針を批判する権利は、あなたにはない」
リンは立ち上がった。ミオを庇うように。
「帰って。ミオは渡さない」
男はしばらく黙っていた。そして、静かに言った。
「明日の日没まで待つ。それ以降は、我々も手段を選ばない」
男は部屋を出て行った。扉が閉まる。
静寂が戻る。
ヴェルナーが言った。
「……すまん」
リンは振り返った。
「ギルドは中立だ。冒険者の私的な問題には介入しない。それが規則だ」
「じゃあ、私たちを見捨てるの?」
「そうは言っていない」
ヴェルナーは立ち上がった。窓の外を見る。
「だが、ギルドにも限界がある。公式には守れない。……すまん」
リンは拳を握った。爪が掌に食い込む。
*
ギルドのロビーに戻ると、カインが待っていた。
金髪の男。Bランク冒険者。リンたちに何度か声をかけてきた男だ。
「リン、ミオ。話は聞いた」
カインが二人に近づく。真剣な顔。
「俺たちのパーティで匿うか? 人数がいれば、少しは」
リンは首を振った。
「巻き込めない。これは私たちの問題」
「お前たちだけで戦えるわけないだろ」
カインの声が強くなる。
「相手は組織だ。ギルドが動けない以上、個人で抵抗するのは無謀だ」
「……わかってる」
リンは答えた。でも声が震えている。
「わかってるけど……」
カインはリンの肩に手を置いた。
「無理すんな。俺たちは味方だ」
リンは顔を上げた。カインの目が、本気だ。心配している。
でも、リンは首を振った。
「ありがとう。でも、巻き込めない」
カインは溜息をついた。
「……わかった。でも、何かあったら言え。すぐに駆けつける」
リンは頷いた。カインが去る。
ミオがリンの袖を引いた。
「リン……どうするの?」
リンは答えられなかった。
*
二人は宿に戻った。部屋に入る。扉を閉める。鍵をかける。
リンはベッドに座った。頭を抱える。
選択肢を考える。でもどれも駄目だ。
ギルドは守れない。他のパーティに頼むのは巻き込むことになる。戦う? 相手は組織だ。勝てるわけがない。
じゃあ、どうする。
リンの頭が、高速で回転する。でも答えが出ない。視界が狭くなる。心臓がうるさい。呼吸が浅くなる。
その時だった。
リンの視界が、歪んだ。
*
暗い。
ダンジョンの中だ。松明の光が、壁に影を作っている。
リンは指示を出している。
「左に2体、右に1体。まず右から」
前衛が動く。マルコが剣を振る。敵が倒れる。
「次、左。私が魔力で牽制する」
計画通り。完璧だ。
でも、次の瞬間。
崩れた。
想定外の増援。退路が塞がれる。
「——っ!」
一人が倒れる。血の匂い。鉄の匂い。
また一人。また一人。
リンは何もできない。ただ見ているだけ。
マルコがリンを庇う。背中が裂ける。
「——お前は生きろ」
マルコの声が、遠くなる。
「大丈夫だって言ったのに……」
暗闇の中、一人で這って逃げる。体が震える。呼吸ができない。
また失敗した。また誰かを死なせた。
*
「——リン!」
ミオの声。
リンの視界が戻る。
ミオが目の前にいる。心配そうな顔。リンの肩を掴んでいる。
「リン、大丈夫?」
リンは気づいた。自分の手が震えている。全身が震えている。呼吸が浅い。
「……ごめん」
リンの声が、か細い。
「大丈夫。ちょっと……」
「リン、こわい顔してた」
ミオがリンを抱きしめる。温かい。でもリンの震えは止まらない。
また、あの時が蘇った。
選択を迫られると、あの時が蘇る。
また失敗したら。また誰かを失ったら。
リンは目を閉じた。ミオの体温が伝わってくる。それだけが、リンを現実に繋ぎ止めている。
*
しばらくして、ミオがリンから離れた。
ミオがリンを見ている。琥珀色の瞳が、リンを捉えている。
そして、ミオが口を開いた。
「……ミオが行けば、リンは安全?」
リンの心臓が止まった。
「何を言ってるの」
リンの声が震える。
「ミオが、あの人たちのところに戻れば。リンは、傷つかないでしょ?」
「——っ!」
リンはミオの肩を掴んだ。
「何を言ってるの! 絶対に駄目!」
「でも——」
「絶対に渡さない! 誰にも!」
リンの声が叫びになる。ミオが驚いた顔をする。
リンは息を整えた。ミオの目を見る。
「あなたを失うのは、嫌」
リンの声が、震えた。
「私も、あなたがいないと……何もできない」
ミオの目が揺れた。
「リン……」
「一人じゃ駄目なの。私、一人じゃ動けない。考えられない」
リンの目から、涙が零れた。
「だから、離れないで」
ミオがリンを抱きしめた。
「リンが傷つくの、やだ」
ミオの声が震えている。
「ミオも、リンがいないと……わかんなくなる」
二人は抱き合ったまま、黙っていた。
しばらくして、リンが口を開いた。
「……選択肢を消していくわ」
リンの声が、少しだけ落ち着きを取り戻している。
「ギルドは守れない。他のパーティも巻き込めない。戦っても勝てない」
ミオがリンを見ている。
「じゃあ……」
「逃げる」
リンはミオの目を見た。
「ダンジョンに逃げ込む。深層なら、あいつらも追ってこれない」
ミオの目が見開かれる。
「一緒に?」
「当たり前でしょ」
リンの声が、少しだけ強くなった。
「二人で逃げる。そして……しばらく隠れる」
ミオが頷いた。
「うん。リンと一緒なら、どこでも」
リンはミオの手を握った。
「今夜、深夜に出発する。荷物は最小限。食料と武器だけ」
「わかった」
ミオの目に、光が戻っている。
リンは深く息を吸った。
これが正しい選択かどうか、わからない。
でも、他に方法がない。
二人で逃げる。二人で生き延びる。
それしかない。
*
深夜。
街が静まり返っている。月明かりが、石畳を照らしている。
リンとミオは宿を出た。誰にも気づかれないように。足音を殺して。
ギルドを迂回する。街の外れに向かう。
ダンジョンの入口が見える。
暗い穴。そこから冷たい空気が流れてくる。かび臭い。湿気と、何か腐ったような匂い。
リンは立ち止まった。
戻ってこれるかわからない。
深層は危険だ。浅層とは比べ物にならない。死亡率は40%。帰還できる保証はない。
でも、ここに残れば、ミオを奪われる。
リンはミオの手を握った。
「怖い?」
「……うん」
ミオが正直に答える。
「でも、リンと一緒だから」
リンは小さく笑った。
「私も怖いわ。でも、あなたがいるから」
二人は手を繋いだまま、ダンジョンの入口に立った。
暗闇が二人を飲み込もうとしている。でも二人は止まらない。
一歩、踏み出す。
冷たい空気が肌を撫でる。視界が暗くなる。
でも、手の温かさだけは消えない。
リンはミオを見た。ミオがリンを見ている。
二人は頷いた。
そして、暗闇の中へ、進んだ。
選択は終わった。
これから先は、生き延びるだけだ。
二人で。




