第12話:追跡者
# 第12話:追跡者
朝の光が、いつもより冷たく感じた。
リンは目を開けた。眠れていなかった。瞼が重い。でも体が起きることを拒んでいる。隣でミオが寝息を立てている。いつもと同じ光景。でもリンの胸の奥には、昨夜から消えない不安が居座っている。
あの男。黒いローブ。ミオを見ていた視線。
リンは小さく息を吐いた。首筋がざわつく。何かが近づいている。理由はわからない。でも本能が警告している。
ミオが目を覚ました。琥珀色の瞳がゆっくりとリンを捉える。
「おはよ、リン」
声が明るい。昨日と同じ。何も変わっていない。でもリンの中では、何かが確実に変わり始めている。
「……ええ」
リンは答えた。ミオが笑顔でリンに抱きつく。温かい。でもリンの体は、冷たいままだ。
ミオが首を傾げる。
「リン、顔色悪い。大丈夫?」
「平気よ」
リンは嘘をついた。心配をかけたくない。ミオの表情から笑顔が消えてほしくない。
でも、平気じゃない。
*
朝食を済ませて、ギルドに向かおうとしていた時だった。
宿の扉をノックする音。リンが扉を開けると、ギルドの使いが立っていた。若い男だ。緊張した顔で告げる。
「リン様、ギルドマスターがお呼びです。至急、お越しください」
リンの心臓が跳ねた。ヴェルナーが呼んでいる。それも「至急」。
「……わかったわ」
リンは頷いた。使いが去る。扉を閉める。ミオがリンの裾を掴んでいる。
「リン、何があったの?」
「わからない。……でも、行くわよ」
二人は宿を出た。街の空気は穏やかだ。朝の雑踏。商人の呼び声。でもリンの耳には、それが遠く聞こえる。
ギルドに着く。ロビーを横切る。受付のエルマと目が合う。エルマの表情が、一瞬だけ硬くなった。心配している。でも何も言わない。
ギルドマスター室の扉をノックする。
「入れ」
ヴェルナーの声。低い。いつもより硬い。
リンは扉を開けた。ミオが後ろに続く。部屋に入る。
ヴェルナーが机に座っていた。白髪の老人。でも目は鋭い。かつてSランクだった冒険者の目だ。
「座れ」
リンとミオは椅子に座った。ミオがリンの袖を掴んでいる。離さない。
ヴェルナーは二人を見た。しばらく黙っている。そして、口を開いた。
「お前たちを探している連中がいる」
リンの背筋が凍った。
「昨日、ギルドに来ていた。聖カタリナ院の関係者だ」
聖カタリナ院。
その名前を聞いた瞬間、ミオの体が硬直した。
リンはすぐに気づいた。ミオの手が震えている。呼吸が止まっている。顔が蒼白だ。
「……ミオ?」
リンが呼びかけた。でもミオは反応しない。目が虚ろになっている。どこか遠くを見ている。
リンはミオの手を握った。冷たい。氷のように冷たい。
「ミオ!」
リンの声に、ミオが少しだけ反応する。でもまだ虚ろだ。
ヴェルナーが続ける。
「あいつらは『商品』を探している。孤児院から逃げた子供を、回収するつもりらしい」
商品。
その言葉が、ミオの中で何かを呼び起こした。
*
ミオの視界が歪んだ。
聖カタリナ院。
その名前が、全てを思い出させる。
暗い部屋。冷たい床。閉じ込められた記憶。
「考えるな。言われた通りにしろ」
誰かの声が蘇る。冷たい声。命令の声。
「自分で判断するな。お前は商品だ」
食事を抜かれた日々。外に立たされた雨の夜。殴られた痛み。
従わなければ罰を受ける。だから従った。考えることをやめた。機械になった。それが「正しい」ことだった。
でも、逃げた。
孤児院を出た。冒険者になった。
リンと出会った。
リンの指示に従った。でもそれは「孤児院の指示」とは違った。リンの声は、冷たくなかった。リンの命令は、罰じゃなかった。
でも今。
聖カタリナ院の名前が、ミオを過去に引き戻す。
体が動かない。声が出ない。息ができない。
考えるな。言われた通りにしろ。
ミオの中で、あの声が繰り返される。
「——ミオ!」
遠くで、誰かが呼んでいる。
リンだ。
ミオはゆっくりと視界を戻した。リンが目の前にいる。心配そうな顔。でもミオは、何も言えない。
体が、動かない。
*
リンはミオを抱きしめた。震えている。全身が、小刻みに震えている。
「大丈夫。私がいるから」
リンの声が、ミオの耳に届く。でもミオは反応しない。リンの胸に顔を埋めて、固まっている。
ヴェルナーが言った。
「あいつらは、今日また来る。お前たちに『話がある』と」
リンは顔を上げた。ヴェルナーを睨む。
「断って」
「……それができれば呼んでいない」
ヴェルナーの表情が、少しだけ苦い。
「ギルドは中立だ。冒険者の私的な問題には介入しない。それが規則だ」
「じゃあ、ミオを引き渡せと?」
「そうは言っていない」
ヴェルナーは立ち上がった。窓の外を見る。
「だが、俺にも限界がある。あいつらがギルドに圧力をかけてきたら、俺は止められない」
リンは唇を噛んだ。ミオを抱きしめる力が強くなる。
その時、扉がノックされた。
「ギルドマスター、来客です」
ヴェルナーが頷く。
「通せ」
扉が開いた。
黒いローブの男が入ってくる。
昨日、ロビーでミオを見ていた男だ。顔は影で見えない。でもその存在感が、部屋の空気を冷やす。
男はリンとミオを見た。そして、口を開いた。
「我々の商品を、返していただきたい」
リンの中で、何かが弾けた。
「関係ない。帰れ」
リンの声が、低く響く。男は動じない。
「あの子は、聖カタリナ院の所有物だ。勝手に連れ出すことは許されない」
「所有物?」
リンは立ち上がった。ミオを背中に庇う。
「ふざけないで。ミオは私のパートナーよ。商品じゃない」
男は静かに言った。
「我々は、あの子を『育てた』。教育を施した。投資をした。それを回収する権利がある」
「そんな権利、認めない」
リンの手が震えている。怒りなのか、恐怖なのか、自分でもわからない。でもミオを渡すわけにはいかない。絶対に。
男は一歩、前に出た。リンは後ずさる。ミオを守るように。
「考えておけ。次は、穏やかじゃない」
男はそれだけ言って、部屋を出て行った。
扉が閉まる。
静寂が戻る。
リンの膝が震えた。力が抜ける。でもミオを離さない。
ヴェルナーが言った。
「……気をつけろ。あいつらは、しつこい」
リンは頷いた。でも声は出なかった。
ヴェルナーは窓に向き直った。外を見ながら、低く呟く。
「少し調べさせる。あの孤児院のことをな」
リンは顔を上げた。でもヴェルナーはそれ以上何も言わなかった。
*
宿に戻った。
リンとミオは、部屋に入った。扉を閉める。鍵をかける。
ミオがベッドに座った。でもまだ震えている。目が虚ろだ。
リンはミオの隣に座った。手を握る。冷たい。
「話して」
リンの声が、ミオの耳に届く。ミオはゆっくりと口を開いた。
「……ミオは、商品だったの」
声が小さい。か細い。
「孤児院で、育てられた。考えるなって言われた。言われた通りにしろって」
ミオの手が、リンの手を強く握る。
「従わないと、罰を受けるから」
リンは黙って聞いていた。ミオの言葉が、途切れ途切れに続く。
「暗い部屋に閉じ込められた。食事を抜かれた。殴られた」
ミオの目から、涙が零れた。
「考えることをやめた。そしたら、楽だったから」
リンはミオを抱きしめた。小さな体が、震えている。
「絶対に渡さない」
リンの声が、静かに響く。
「誰が来ても、絶対に」
ミオがリンにしがみつく。離さない。
「リン……」
「大丈夫。私がいるから」
リンはミオの髪を撫でた。銀色の髪が指の間をすり抜ける。柔らかい。
でも、リンの心臓は早い。恐怖が消えない。
あの男たちは、また来る。
そして次は、穏やかじゃない。
どうすればいい。
リンの頭が、高速で回転する。逃げる? 戦う? ギルドに助けを求める?
でも答えが出ない。
ミオがいないと、考えられない。ミオを守らなきゃいけない。でもどうやって。
リンの手が震えた。
*
夜になった。
リンとミオは、ベッドに入った。いつものように一緒に。でもいつもと違う。
ミオがリンにくっついている。離れない。でもその様子が、おかしい。
従順すぎる。
ミオは何も言わない。リンの指示を待っている。でもそれは、いつものミオじゃない。
「ミオ」
リンが呼びかけた。ミオが顔を上げる。
「大丈夫?」
「……うん」
ミオの声が、機械的だ。感情がない。
「リン……リンが言う通りにする」
ミオの目が、虚ろだ。
「だから、見捨てないで」
リンの背筋が凍った。
これは、ミオじゃない。
孤児院のミオだ。考えることをやめた、機械のミオだ。
リンはミオを抱きしめた。でもミオの震えは止まらない。
「見捨てないわ。絶対に」
リンの声が、震えた。
ミオがリンにしがみつく。爪が食い込むほど強く。
でも震えは、止まらない。
リンはミオの背中を撫でた。でも自分の手も震えている。
どうすればいい。
どうやってミオを守ればいい。
答えが出ない。
リンは目を閉じた。でも眠れない。ミオの震えが、リンの体に伝わってくる。
止まらない。
ミオの震えが、止まらない。
リンの不安が、膨れ上がっていく。
平穏は、完全に終わった。
そして、追跡者は、すぐそこまで来ている。




