第11話:平穏の終わり
# 第11話:平穏の終わり
朝の光が、薄いカーテンの隙間から差し込んでいる。リンは目を開けた。隣で、ミオが寝息を立てていた。銀色の髪が乱れて頬にかかっている。リンの腕を抱き枕のようにして、離さない。
毎朝、こうだ。
リンは小さく息を吐いた。ミオの体温が伝わってくる。窓の外から、街の雑踏がかすかに聞こえる。宿の部屋は狭くて、二人で寝るにはベッドが小さい。でもミオは嬉しそうだから、リンは何も言わない。
髪を耳にかけながら、リンはミオの顔を見下ろした。無防備な寝顔。穏やかで、少し幼い。孤児院で育ったとは思えないほど、安心しきっている。
それはきっと、リンがいるからだ。
リンは軽く肩を揺すった。
「……起きなさい。依頼があるわ」
ミオがうっすらと目を開ける。琥珀色の瞳が、リンを捉える。
「おはよ、リン」
声が嬉しそうだ。まだ半分眠っているのに、笑顔になる。リンの腕を抱きしめる力が強くなる。
「今日も一緒だね」
「……ええ」
リンは答えた。今日も一緒。昨日も一緒。明日も一緒。それが当たり前になっている。
ミオがベッドから起き上がる。服を着替える。リンも準備する。二人の動きは、もう完全に同期している。どちらかが何かを取ろうとすると、もう片方が道を開ける。言葉がなくても、わかる。
宿の食堂で朝食を取る。パンと野菜のスープ。ミオは嬉しそうにパンをかじる。リンは読みかけの戦術書に目を落としている。
「リン、今日は何するの?」
「中層の討伐。魔物が増えてるらしいわ」
「うん。一緒に行く」
「……そうね」
リンは本を閉じた。ミオがリンの裾を掴んでいる。無意識の癖だ。離れるのが怖いのだと、リンにはわかる。
自分も同じだから。
ミオを視界から外すと、落ち着かない。心臓が少し早くなる。首筋がざわつく。それが不快で、リンはすぐにミオを見る。そうすると、安心する。
依存だ。わかっている。
でも、やめられない。
*
ギルドに着くと、受付のエルマが笑顔で迎えた。
「あら、今日もお二人一緒ですか」
リンは依頼票を差し出した。
「中層13階の魔物討伐。受けるわ」
エルマは依頼票を確認しながら、ちらりとミオを見る。ミオはリンの後ろに立って、裾を掴んだまま。体格は大きいのに、小さな子供みたいに隠れている。
「最近、本当にいつも一緒ね」
エルマの声が、少し含みを持っていた。リンは眉をひそめる。
「何か問題?」
「いいえ」
エルマは首を横に振った。でもその表情は、少し複雑だ。心配しているのか、呆れているのか、リンにはわからない。
「……ただ、気をつけてね」
「……わかってる」
リンは依頼票を受け取った。ミオがリンの袖を引く。
「リン、行こ」
「ええ」
二人は並んでギルドを出る。ミオがリンの隣を歩く。二人の歩幅はもう完全に合っている。離れない。離れたくない。
リンは小さく息を吐いた。エルマの言葉が、少しだけ胸に引っかかる。でもすぐに忘れた。ミオがいるから、他のことはどうでもいい。
*
ダンジョンの空気は、湿っていて冷たい。かび臭い匂いが鼻をつく。リンは魔力を感知しながら、前方を睨む。
「左に2体。弱い。右に1体。こっちの方が強い。まず左から片付けて」
「うん」
ミオが剣を抜いた。軽い足取りで駆け出す。リンの指示通りに動く。左の魔物に斬りかかる。一撃。二撃。倒れる。
「次、右」
「——っ!」
ミオの剣が空気を裂く。右の魔物が咆哮する。でもミオは怯まない。リンが後ろにいるから。指示があるから。恐怖がない。
リンは魔力を放出して牽制する。魔物の動きが止まる。その隙に、ミオが間合いを詰める。斬撃。魔物が崩れ落ちる。
「よくやったわ」
リンの声に、ミオが振り返る。笑顔。血のついた剣を持ったまま、嬉しそうに笑う。
「リン、かっこよかった」
「……仕事よ」
リンは視線を逸らした。でも少しだけ、嬉しい。ミオが褒めてくれると、自分の価値を感じられる。
ミオが近づいてくる。剣をしまって、リンの前に立つ。尻尾を振る犬みたいに、嬉しそうに。
「ミオ、ちゃんとできた?」
リンは小さく笑った。ミオの頭に手を伸ばす。銀髪を撫でる。柔らかい。
「いい子よ」
ミオの顔がぱっと明るくなった。目を細めて、リンの手に頭を押し付ける。
「えへへ」
「……行くわよ。まだ終わってないでしょ」
「うん!」
ミオの声が弾む。リンは前を向いた。でも少しだけ、口元が緩んでいる。
戦闘は順調だった。リンの指示、ミオの実行。完璧な連携。二人でいれば、何も怖くない。
魔物を全滅させる。討伐完了。リンは周囲を確認して、頷く。
「戻るわ」
「うん」
ミオがリンに寄り添う。肩が触れる。リンはそれを拒まない。二人で並んで、地上に戻る。
ダンジョンを出ると、街の空気が肌に触れる。温かい。生きている。リンは深く息を吸った。ミオも同じように息を吸う。二人の呼吸が、少しずつ同期していく。
*
ギルドに戻って、報告を済ませる。エルマが報酬の銀貨を手渡してくれた。
「お疲れ様です」
「ええ」
リンは銀貨を受け取った。ミオが隣で待っている。リンの裾を掴んだまま。
ギルドのロビーには、いつもの冒険者たちがいる。依頼を確認している者、仲間と話している者、疲れた顔で酒を飲んでいる者。
でもその中に、見知らぬ顔があった。
リンは立ち止まった。
男だ。黒いローブを着ている。顔は影で見えない。でもその視線が、ミオに向けられていた。
リンの首筋がざわついた。
何かが、おかしい。
男は何も言わない。ただミオを見ている。
その時、リンの袖を掴む手に力が入った。
リンはミオを見た。ミオの顔から血の気が引いている。琥珀色の瞳が揺れている。本人も気づいていない様子で、リンの袖を強く握りしめている。
「ミオ?」
「……え?」
ミオが首を傾げた。でも手は震えている。
「何でもない。……ただ、何か嫌な感じがして」
ミオは自分でも理由がわからないようだった。リンは何も言わなかった。でも、嫌な予感が強くなる。
リンは小さく息を吸った。心臓が早くなる。嫌な予感。理由はわからない。でも本能が警告している。
「……ミオ、行くわよ」
リンは足早にロビーを出た。ミオが慌てて後を追う。
「リン? どうしたの?」
「何でもない」
リンは嘘をついた。ミオに心配をかけたくない。でも足早に歩く。ギルドから離れる。宿に戻る。部屋に入って、扉を閉める。
ようやく、少しだけ安心した。
ミオがリンを見ている。心配そうな顔。
「リン、大丈夫?」
「……大丈夫よ」
リンは答えた。でも心臓はまだ早い。あの男は何者だ。なぜミオを見ていた。
でも、ミオには言わない。
リンはベッドに座った。ミオが隣に座る。自然にリンに寄り添う。リンの肩に頭を乗せる。
「リン、あったかい」
「……そう」
リンはミオの髪に手を伸ばした。柔らかい銀髪が指の間をすり抜ける。ミオの匂いがする。本と、少し埃っぽい。安心する。
でも、胸の奥に不安が残っている。
何かが、始まろうとしている。
*
夜になった。
宿の部屋は静かだ。窓の外から、街の明かりがかすかに見える。リンとミオは、いつものように一緒に寝る準備をしている。
ミオが服を着替えている。リンは窓の外を見ている。あの男のことが、まだ気になっている。
「ね、リン」
ミオがリンを呼んだ。リンは振り返る。ミオが笑顔で手を伸ばしている。
「今日も一緒に寝ようね」
「……ええ」
リンは頷いた。ミオがベッドに入る。リンも隣に入る。ミオがリンに抱きつく。離さない。
「リン、どこにも行かないでね」
「……行かないわ」
リンは答えた。でも、心の奥で何かが引っかかる。
あの男は、何者だ。
ミオを、何のために見ていた。
リンはミオを抱きしめた。小さな体が、リンの腕の中に収まる。ミオの心臓の音が聞こえる。穏やかで、規則的。
このままでいたい。
でも、不安が消えない。
リンは目を閉じた。眠れるかわからない。でもミオがいるから、少しは落ち着く。
ミオの寝息が、静かに部屋を満たしていく。
*
その頃。
ギルドのロビーは、もう人が少なくなっていた。夜番の職員だけが残っている。
黒いローブの男が、テーブルに座っていた。向かいに、別の人物が座っている。
「あの銀髪の子、聖カタリナ院出身だよね?」
「ああ」
男は頷いた。声が低い。感情がない。
「やっと見つけた」
「どうする?」
「回収する。商品を、あるべき場所に戻す」
「あの黒髪の女は?」
「……邪魔なら、排除する」
男は立ち上がった。ローブの裾が、床に音を立てる。
「準備を整えろ。明日、動く」
男はロビーを出て行った。
静かな夜が、不穏な影に飲まれていく。
平穏は、終わろうとしていた。




