7.お飾り妻は見限った
馬小屋での事件から10日間が過ぎた。
この10日間のうちに、ラフィーナの周りにはいくつかの変化が起きた。
まず一つ目の変化は、使用人のトマと話をする機会が増えたこと。
御者と厩番を任されているトマは、馬小屋の近くで仕事をしていることが多い。そこまで忙しそうにしているわけではないから、姿を見かけるとついつい声をかけてしまう。
その日もラフィーナは、枯れ草を食む馬たちを眺めながらトマと立ち話をしていた。
「トマは王宮で働いていたのね……知らなかったわ」
「ええ、もう10年以上も前のことになりますがねぇ。高齢を理由に引退を決めたとき、懇意にしていたジョージ・カールトン辺境伯に声をかけていただいたのですよ。その後はずっとカールトン家に仕えております」
(だからジャン様は馬小屋でトマを殴れなかったのね。トマに暴力を働けば、ジョージ様が黙っていないだろうから……)
ラフィーナが腑に落ちた表情を浮かべたとき、遠くで物が壊れる音がした。それと女性の金切り声。ラフィーナとトマが音のした方を見ると、屋敷の窓の向こうで数人の人影が動いていた。がむしゃらに暴れるリリアを、数人のメイドたちが必死で取り押さえようとしているようだ。
「ああ……リリア様がまた暴れておられる」
トマが他人事のようにつぶやいた。
これがラフィーナの周りで起こった二つ目の変化だ。リリアは馬小屋で化け物を見たことがトラウマとなり、精神的に不安定になってしまった。常に何かに怯え、夜中に飛び起きて泣き叫ぶこともあり、メイドたちを困らせているのだとか。
そしてこの変化の一番の被害者はジャンだ。精神的に不安定となったリリアは一人でいることができず、昼夜問わずジャンのそばから離れようとしない。うっかりそばを離れてしまうと幼子のように泣き叫ぶこともあるそうだ。
ジャンは目に見えて疲弊し、ラフィーナに暴言を吐きかける頻度も減った。ラフィーナが仕事の空き時間に馬小屋を訪れることができているのはそういう事情だ。
そして最後に三つ目の変化は――
「ラフィーナ様。ところで今日、黒猫はどちらに?」
「……朝早く、どこかへ飛んでいってしまったわ。最近はずっとそうなの。多分、国に帰るための準備をしているんじゃないかと思うのだけれど」
「そうですか……」
保護した当初は馬小屋で傷の回復に努めていたギドだが、ここ数日の間は睡眠時を除きほとんど姿を見かけない。ずっと森の中を飛び回っているのだ。竜人の国は遠いから、来るべき日に備えてリハビリをしているところなのだろう。
(ギドはいつ私の元からいなくなってしまうのかしら……1カ月後? 1週間後? それとも――……)
ギドがいなくなった日々を想像すれば胸が締めつけられるようだった。大雨の夜に拾った小さなドラゴンの子どもは、いつしかラフィーナの生活になくてはならない存在となっていた。
一緒に行くことができたら良かったのに、と何度も考えた。でもそのたびに、それは叶わない夢だと自分に言い聞かせた。ギドはあの日以来、「一緒に行こう」という誘いを口にしないのは、ラフィーナにとってありがたいことだった。何度も誘われたら、決意が揺らいでしまう気がしたから。
「……猫がいなくなったら寂しくなりますねぇ」
「ええ……本当にそう……」
刻一刻と、ギドとの別れのときは近づいていた。
◇
「ラフィーナ。今すぐ応接間へ来い」
不機嫌な表情のジャンからそう告げられて、ラフィーナは仕事の手を止めた。馬小屋での事件から3週間ほどが過ぎた日のことだった。
「何のご用でしょうか?」
「父上と母上が来ているんだ。お前の顔を見せろとうるさいから、すぐに来い」
ジャンは吐き捨てるように言った。本当ならがお前など呼びたくはない、と心の声が聞こえてくるようだ。
病気を理由に辺境伯の地位を退き、別邸で療養生活を送るジョージと、彼の妻であるダイアナ。療養とその介助に専念する2人は、ジャンが屋敷に愛人を連れ込んでいることを知らない。ジャンがラフィーナに仕事を押しつけていることも知らない。
ラフィーナが会話の席にいることで、余計なことを知られてしまうのではないか、とジャンが懸念するのはもっともだということだ。
(本邸にいらしたということは、ジョージ様の病気が良くなられたということかしら。それとも病状が悪化したから最後の挨拶に……ううん、こんなことを考えては駄目ね)
訪問の理由を考えるラフィーナの耳に、威圧的なジャンの声が届く。
「いいか、絶対に余計なことを言うんじゃないぞ。お前は聞かれたことにだけ答えていろ。わかったな」
「……わかりました」
ジャンの背中に続き2階の応接間に入ると、そこにはジョージとダイアナの姿があった。
ラフィーナがまずジョージの顔色をうかがうと、かつては痩せこけていた頬には肉付きが戻り、血色も良い。長年の療養の甲斐あって病状は回復に向かっているようだ。悪い予感があたらずにラフィーナは安心した。
「お久しぶりでございます。ジョージ様、ダイアナ様」
ラフィーナが恭しく膝を折ると、ジョージとダイアナは同時に微笑んだ。
「ああ、久しぶりだな。ラフィーナ夫人」
「突然お邪魔してしまってごめんなさいね」
いいえ、とラフィーナは微笑んだ。
ジョージはかつて優れた辺境伯であり、ダイアナは彼を支える良い妻だった。寄り添って座る姿からは2人の仲睦まじさが伝わってくるし、整えられた身なりや仕草からは品の良さを感じ取ることもできる。
ジャンから下僕のような存在として扱われているラフィーナにとっては羨ましい関係だ。
ラフィーナとジャンが並んでソファに腰かけると、ジョージは快活と口を開いた。
「長年の療養の甲斐あって、最近はとても体調がいいんだ。だから私のできる範囲で領地の運営を手伝おうかと思ってな。ジャンには若くして辺境伯の地位を譲ってしまったから、何かと大変なこともあるだろう。どうだジャン、何か困っていることはないか?」
「え……」
突然の質問に、ジャンは答えることができず黙り込んだ。当然だ。すべき仕事はラフィーナに押しつけて、毎日リリアと一緒に遊び呆けているのだから、領地運営のことなど何もわかるはずがない。
その気になれば助け船を出すことはできたが、ラフィーナは何も言わずに黙っていた。「余計なことを言うな」とジャンに釘を刺されているからだ。
ややあって、ジョージは意外そうに言葉を続けた。
「何だ、困っていることは何もないのか?」
「あ、ああ……そうだ。特に困っていることはない。うまくやっているよ……」
「そうかそうか、それは結構」
ジョージは満足げにうなずき、すぐに話題を変えた。
「今年はどのくらいの税収が見込めそうなんだ? 年始めに日照りが続いたようだが、農作物への影響はなかったのか?」
「ひ、日照り? あ……ああ、そうだな。影響はないこともないというか……」
「ないことはない? 一体どっちなんだ、はっきりしろ」
「いや……それは、何というか……」
ジャンはわかりやすく動揺していた。
年に数回、領地内の田畑を視察するのは辺境伯の大切な仕事の一つ。農作物の生育状況が悪ければ、領民に負担をかけないように税率を引き下げる必要があるからだ。日照りや大雨の被害があるとわかれば、それに合わせた対応策も練らなければならない。
しかし言うまでもなく、ジャンはそれらの仕事をラフィーナに押しつけていた。日照りがどうだと尋ねられてもわかるはずがない。
「あ、あ! そうだ、農地の視察はラフィーナに行ってもらったんだ。俺は他の仕事で手一杯だったから。だから税収のことはラフィーナに聞いてくれ!」
うまい逃げ道を見つけたとでもいうように、ジャンは声を明るくした。こう言えば己の怠慢に気がつかれることなく、質問の矛先を変えられるとでも思ったのだろう。
ところがジョージから返ってきたのは以外な言葉だった。
「領地の視察を疎かにするほど、急を要する仕事があったということか? まさか、イオラ王国のことで何か問題が起こったのではあるまいな?」
「へ?」
まさかそこを突っ込まれるとは想像もしていなかったのだろう。ジャンはぽかんと口を開けて黙り込んでしまった。
(そういえば――)
ジョージの口からイオラ王国の名前が出たことで、ラフィーナは唐突に思い出した。
ラフィーナがジャンの代理としてルネ・セラフィム修道院を訪れ、ユクト司祭と話をしたのは今日から二か月近くも前のことだ。
あのときユクト司祭から受け取った書類は、その日のうちにジャンに手渡したが、その後の対応がどうなったかをラフィーナは知らない。
会話に水を差してしまうのは承知の上で、思い切って尋ねてみることにした。
「ジャン様。イオラ王国といえば、ユクト司祭から報告された件はどのように対応されたのですか?」
「……何のことだ?」
「イオラ王国内で不自然な資金の流れがある、という件です。イオラ王国からやってきて商人たちが、交易税が跳ね上がったと零していると、ユクト司祭からお話をいただいたではありませんか」
ラフィーナは丁寧な説明をするが、ジャンはまるで心当たりがないという顔をしていた。
ラフィーナは不安になった。
「まさか……お渡しした書類を読んでいないのですか? ルネ・セラフィム修道院を訪れたのは、もう二か月近くも前のことですが……」
「……ジャン、これは一体どういうことだ。まさかルネ・セラフィム修道院からの報告を放置していたのか?」
ジョージの低い声が響いた。
イオラ王国の動向に目を光らせていたジョージは、国境付近に建てられたルネ・セラフィム修道院との関係をことさら重視していた。報告を放置していたと知れればただで済むはずがない。
ジャンはようやく思い当たる節を見つけたという顔をした。しかし案の定、往生際悪く言い逃れようとした。
「し……知らん! 俺はそんな書類は受け取っていないぞ! ラフィーナ、お前が報告を怠ったんだろう!」
ラフィーナは愕然とした。
(この人は本当に、どこまでも救いようがない……)
どんな不当な扱いにも耐えてきたラフィーナだったか、もう我慢の限界だった。特に今回の件は、場合によっては国家の存続に関わる重大案件だ。責任の所在を曖昧にすることはできない。




