2.お飾り妻はドラゴンを拾った
ラフィーナが屋敷の外に出ると、雨が降っていた。降りしきる雨にわずらわしさを感じながら、馬車へと乗り込み、目的地であるルネ・セラフィム修道院を目指す。
ルネ・セラフィム修道院は、隣国との国境付近に位置している。小高い丘の上に建てられた綺麗な修道院だ。
国内の修道施設の中では小規模な方で、孤児院や教会が併設されているということもないが、このルネ・セラフィム修道院は、カールトン家にとって重要な役割を果たしていた。
ラフィーナが修道院の扉をたたくと、優しげな顔立ちの中年男性が顔をだした。金刺繍の法衣を身につけたその男性は、修道院の責任者であるユクト司祭だ。
「ユクト司祭、お久しぶりでございます」
ラフィーナが膝を折って挨拶をすると、ユクト司祭は柔らかく微笑んだ。
「カールトン辺境伯夫人、よくいらっしゃいました。どうぞ中へお入りください」
「ありがとう」
ラフィーナは修道院の応接間へと通された。応接間といっても、豪華な調度品がそろえられた貴族の屋敷の応接間とは似ても似つかない。木のイスとテーブルが据えられただけの簡素な場所だ。
それでも応接間の中は澄んだ空気で満たされていて、不思議と居心地は悪くなかった。
ラフィーナが席につくと、ユクト司祭は声を低くして話し出した。
「今日お呼びしたのは、イオラ王国の件で少々気になることがあったからです」
「イオラ王国の? どんなことでしょう」
「ご存じのとおり、この修道院にはイオラ王国の商人がよくお立ち寄りになります。彼らから聞いた話なのですが、最近、交易税の金額が跳ね上がったのだとか」
(税の金額が跳ね上がった……? 一体どういうことかしら)
イオラ王国は、ラフィーナたちが暮らすルーズヴァルト王国の東方に位置する国家だ。以前は領土をめぐる小競り合いを繰り返していたが、40年前に和平協定が結ばれて以降は、波風のない付き合いが続いている。
もっとも波風がない、というのはあくまで表面的な印象であって、実際の関係はそこまで良好ではないとの噂を聞くこともある。農作物の輸出入は最低限に留まっているし、王族や貴族間の交流もない。険悪な関係ではないが、決して良好な関係でもない、というところだろうか。
カールトン家が王国内で力を持っているのは、このイオラ王国との国境付近に領地を構えているからだ。
もしもイオラ王国との間で再び争いが起これば、戦火の最前線はカールトン家に任されるのだということ。今は国土が平和であるとはいえ、戦に備えることはカールトン家に課せられた最大の任務なのだ。そのために、国庫からかなりの金額の交付金も受け取っている。
もっともその大切な交付金も、最近は愛人の宝石代に消えているわけなのだが。
ユクト司祭の報告の意図を考えていたラフィーナは、はたと思い至った。
「まさか……イオラ王国は、民から税金を集めて戦争の準備をしているというのですか?」
「必ずしもそうであるとは言い切れません。ですが一応、辺境伯のお耳には入れておいた方がいいかと思いまして」
「ええ、おっしゃるとおりです」
ラフィーナは緊張感を覚えながら、手元の書類に視線を落とした。
ユクト司祭が手書きした書類には、イオラ王国の商人から入手した情報や、万が一のために兵を増強する旨の要望がつづられている。
ルネ・セラフィム修道院が、国家にとって重要な役割を担っている理由がこれだ。
イオラ王国との国境付近に建てられたこの修道院は、国境をまたぐ商人たちの休憩所となっている。修道院が一部の施設を開放し、積極的に商人たちを受け入れているという側面もある。
その最たる理由は、イオラ王国の情報をいち早く入手するためだ。国家の異変ははらかずとも民に伝わる。国境をまたぎ商売をする商人たちは、情報を伝える伝書鳩のような存在なのだ。
最悪の未来を思えば指先が震えた。
(イオラ王国が戦争の準備をしているかもしれない、というのはあくまで可能性の話。でもユクト司祭の報告を軽視することはできない。だって実際、二つの国の間には戦争していたという過去があるんだから……)
それから1時間も経つとあらかたの話は終わった。渡された書類を大事に抱えたラフィーナは、ユクト司祭にお礼を言いながら修道院を出た。
馬車に乗り込むまぎわ、ユクト司祭がぽつりと言った。
「本当なら、カールトン辺境伯に直接お伝えしたかったのですけれど」
ラフィーナはちくりと胸が痛んだ。
二国のあいだで和平協定が結ばれたのは40年前。20代のジャンは戦乱を知らず、国土の防衛を軽視している節がある。いくら備えたところで戦争など起きるはずがないだろう、と。だからこそ修道院の訪問をラナに任せたのだ――ただ面倒だという理由で。
ユクト司祭が以前、零していたことがある。ジャンの父親であり、先代の辺境伯であるジョージ・カールトンは、イオラ王国との関係に常に緊張感を持っていた。最先端の情報が集まるルネ・セラフィム修道院との関係をことさら大切にし、まめに足を運んでいたのだという。
ジョージが病気を理由に辺境伯を退き、ジャンに爵位を譲ってから何もかもが変わってしまった。
「……司祭からお聞きしたことは、きちんと伝えますから」
ラフィーナに言えることはそれしかなかった。
◇
修道院を出たラフィーナは、憂うつな気持ちで帰路についた。ユクト司祭から最後に言われた言葉がずっと気にかかっていた。
――本当なら、カールトン辺境伯に直接お伝えしたかったのですけれど
(ユクト司祭の気持ちはよくわかる。いくら代理を名乗っていたって、私には何の権限もないんだもの。書類を渡したところで、ジャンが真面目に取り合ってくれる保証もない……)
沈んでいく気持ちを少しでも上向けたくて、客車の窓から外を見た。降り続いていた雨は止み、燃えるような夕焼け空が広がっていた。
カールトン家の屋敷から、ルネ・セラフィム修道院まではかなりの距離がある。ジャンが訪問を嫌がる理由の一つがこれだ。
「……あら?」
夕焼け空を眺めるラフィーナの視界に、不可思議なものが映った。
それは鳥のようだった。真っ黒な翼をはばたかせる小さな鳥。夕焼け空をぐるぐると旋回し、しだいに力を失って緑の森へと落ちていく。あまり遠くはない場所だ。
「馬車を停めて!」
ラフィーナは御者に向かって叫んでいた。
緑の森に墜落したものの正体が気になって仕方なかった。まるで運命のように心が惹かれた。
馬車を降り、ドレスのすそが汚れることも忘れて駆け出していた。
◇
(いったいどこに落ちたのかしら……こっちの方角だと思ったけれど)
ラフィーナは、草木が生い茂る森の中をうろうろと歩き回っていた。
幸いにもまだ日は暮れておらず、森の中には最低限の明るさがある。しらみつぶしに探していれば、いつかは見つかるはずだという確信があった。
「――あ」
やはり、程なくしてラフィーナはそれを見つけた。
予想したとおり、それは鳥のような姿かたちをした生き物だった。しかし鳥ではない――黒々とした鱗に全身を覆われた小さなドラゴンだ。
ラフィーナは息を呑み、もぞもぞと動くドラゴンに歩み寄った。
(すごい……ドラゴンって本当にいたのね。伝説上の生き物だと思っていたけれど……)
どうやらドラゴンは怪我をしているようだった。身体中の至るところの鱗が剥がれ、インクのような血が滴り落ちている。小さなドラゴンだから、空を飛ぶうちに鳥にでもつつかれてしまったのだろう。
ラフィーナが触れようとすると、ドラゴンは猫のような唸り声をあげた。小さな口にするどい牙をのぞかせラフィーナを威嚇する。
「大丈夫よ、怖くないからね。少しだけ傷を見せてもらえる?」
できるだけ怖がらせないようにと気を遣いながら、傷の具合をうかがってみる。
両翼と背中、尻尾の先部分にたくさんの傷があるが、致命傷になるような深い傷はないように思われた。
(……とはいえ、この子を森に置き去りにして大丈夫かしら。堕ちてしまったということはかなり弱っているのだろうし、森には夜行性の獣もいるし……)
迷った挙句、ラフィーナはドラゴンを屋敷に連れて帰ることを選んだ。
ドラゴンは伝説上の生物だ。この世界のどこかにドラゴンの楽園があり、そこではたくさんのドラゴンたちが暮らしていると言い伝えられている。
とはいえただ言い伝えられているというだけで、実際にドラゴンを見たという証言はなく、小人や妖精と同じく想像上の生物として扱われていた。
未知なる生物と関わることは恐ろしかったが、それ以上にドラゴンを放ってはおけなかった。
傷つき地に落ちたドラゴンは、今のラフィーナの心そのものだ。血を流し、叫び声をあげ、しかし助けてくれる者がいなければ死に絶えてしまう。たった一人、暗闇に包まれた森の中で。
もしも今、この小さなドラゴンを助けなかったら、ラフィーナを助けてくれる者は永遠に現れない気がしてならなかった。
「少し窮屈だけど、我慢してね。絶対に助けてあげるからね」
人間の言葉を理解したかのように、ドラゴンは大人しくラフィーナの腕に抱かれた。
ラフィーナはドラゴンをスカートの中へと隠し、何食わぬ顔で馬車へと戻った。そして「何があったのだ?」といぶかしむ御者を言いくるめ、カールトン家の屋敷へと戻ったのだった。




