ヒビだらけの心
服に張り付いた冷たさに目が覚める。
どうやら気を失っていたらしい、所々鈍痛のする身体を起こす為ぐっ、と右手に力を入れた。
「いっ、」
鋭い痛みに顔が歪む、どうやらソフィーリアに踏まれたせいか赤く腫れ上がっていた。仕方ないので左手を使って立ち上がるとふらふらと井戸へ向かう。ズキズキと痛む右手を汲み上げた水に入れた。
…しばらく右手は使えないわね、深くため息を付く。水面に反射して浮かぶ泥だらけになった自分が目に入った。
「…本当に、無様で惨めね」
ああ、本当に弱い自分が憎くて仕方ない。醜いと言われるのも仕方ない、私を産んだせいで母様は身体を壊して、だから国に帰れなくなってしまって、そのまま死んでしまったのだから。
ヴェールの下に手を入れて、顔についた汚れを拭う。水面に映る弱い自分の顔を見てキュッと引き締める
ーーこんなの痛くない、気をしっかり持つのよアイリス。
母様は離宮で一度も泣く事はなかった、ずっと笑顔で過ごしていたのだから。そんな強い母様の娘なんだから、例えヴェールで隠していようと心だけは屈してはいけない。
(アイリス、私は貴女が一番大事なの。だから無理だけはしないで)
ぎゅ、と母様のペンダントを握る。
過ごした離宮が勿論大事だけど…いつか遺灰の入ったこれを、母様が生まれ育った国に埋めたい。今必死にその国を調べてくれているマリーの為にも、例えこの身体がいくら傷つこうと耐えられる。
(ごめんなさい母様…でもこんなの、無理の内に入らないわ)
冷やしたせいか右手の痛みはひいた、腫れも遠目からは分からない。すく、と立ち上がるとまだ山積みの仕事に取り掛かる為、中庭を離れた。
シーツを運びながら辺りを見渡す。
いつも冷たい視線を向けられたり、嘲笑う人達がいない。どこか歩いている人が少ない王宮を見てそういえば歓迎パーティーがあった、と思い出した。
きっと城中の人達が駆り出されているのだろう。なら都合がいい、さっさと終わらせて離宮に戻ろう。母様のペンダントを早く直さないと。
シーツを運び終え部屋を出る。
カツカツと階段を降りると、ソフィーリアの宮と王宮を繋ぐ中庭に出た。
その横の外廊下を箒をかけていく。ここの掃き掃除が終わったら後は窓を拭いて、小麦粉を運んで、夕食用の野菜の皮を剥いてそれからーー
「……こんな所に居たのか」
「!」
背中にかけられた声にびくりと肩が揺れる。振り返れば、私を見つめながら駆け寄る人がいた。その姿は黒髪に薄氷の瞳。
あ、この人は昨日見かけた帝国の…そう気付いた瞬間アイリスは慌てて頭を下げた。
「……」
「……?」
沈黙、俯いているから分からないが、こちらから見える彼のつま先はいっこうに動かない。通り過ぎるだけかと思ったのに、恐らくこの方は帝国の上流階級であるのは間違いない。本来下の者が許しなく口を開くのは無礼だけれど仕方ない。
「…失礼ながら、帝国の御方をお見受けします。ここは王妹殿下の宮へ続く中庭にございます」
箒を胸に当てながら頭を下げる。
「王宮は左手廊下の奥にございます」
とっくにパーティーは始まっているのにこんな所にいるのは、きっと迷い込んでしまったのだろう。しばらくそうしていると目の前に立っていた男性が微かに笑う気配がした。
「……そうか、どうか顔を上げてくれないか」
「はい」
軽く頭を見上げると、やはり昨日見た男性がにこやかに微笑んでいた。
「君の名前は?」
「………私は王妹殿下の宮付き、」
「ん?」
まるでそちらは聞いていない、と言わんばかりの笑顔。困惑しながらも口を開く。
「…アイリスと申します」
「そう、アイリス…アイリスか、良い名だ」
「…?」
名前を聞かれた事も驚きだが、まるで覚えるように口ずさむその姿に首を捻ってしまった。通りかかったメイドの名前を、しかもこの国以外の方が覚える理由もないのに。
「私はレイン、帝国の人間だ。歓迎パーティー中だったのだが少し席を外したら此方に迷い込んでしまってね…」
あぁ、やっぱり。けれど王宮の庭園からここまで随分遠い。迷い込むなんて正直信じられないけれど…
「王宮の庭園まで案内してくれないか?」
「は、い…?」
今、この人はなんと言った?
レインと名乗ったこの御方は、私に王宮の案内を頼んだのだろうか。
「…お断り致します。私のような下級メイドではなく廊下を出ましたら衛兵がいます。彼等に案内を、」
「どうして?」
「それは…」
それはこちらのセリフだ。
ーーどうして“私”に喋りかけているのか、先程から不思議でならなかった。
実際城中の人間から醜いと蔑まれ、毎日虐げられている私に話しかける人なんて誰もいない。
だって普通、ヴェールを被った、しかも汚れたメイド服を纏っている人間にこんなに気さくに話しかけるだろうか。外部の人も気味悪がって避けるのに。…そんな私に城の庭園まで案内を頼むなんて、
「私は…このような見目ですので、貴方のような御方に案内出来るような人間ではありません」
「アイリス」
視界に光が差し込んだ。どうやら無意識に頭を下げていたらしい、肩に置かれたこの人の手が顔を上げさせたのだと分かる。
…昨日と同じ、あの溶けるような薄氷の瞳が優しげに私を見つめていた。
やっぱり綺麗。
昨日は母様のペンダントに頭がいっぱいで良く見ていなかったけど、一目見たときからそう思ってた。
「私は、君がいいんだ」
そこまで言われては断れない。
「…はい、私で良ければ」とアイリスは困ったように頷くしかなかった。
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