傀 その4
「千歳さんって?」
クリニックから離れてすぐ、俺は若月さんを見上げてそう聞いた。
「あの方の苗字じゃないかしら」
「なんでそんな事わかるんですか?」
「聞こえたからよ。あなたより耳が良いって言ったでしょ」
耳が良い?
「あの白いのは、霊ってやつですか?」
「う〜ん、まあ、そんなトコね。業界では朧って呼んでいるわ」
「朧……害はありますか?」
「あなたはどう思うの?」
「俺は……」
答えてしまって、合わせられたらどうしよう。
「あの人、千歳のお婆さんは怖くないです」
「そ、なら正解よ」
正解だと断言される。合わせられた、のか?
いや、教えられたような気がする。
「今後も、白いモノは見ても警戒しなくていいわ。悪さをしてこない。あの白いモノはただそこに存在しているだけで、生きている人間から何かを奪う事もしないし意思なんかないの」
「意思がない?」
言われてみれば、いつもあの席にいるが、何かをしているわけじゃない。
「白いモノは地縛霊ってことですか?」
そう問うと、若月さんは大人が入るようなカフェを指差した。
「体力に余裕があるなら、あそこで座って話しましょ。ないなら家まで送るけど」
俺はすぐにでもアレの正体を聞きたくて、大丈夫だと答えた。
【カフェ・アンボワーズ】
「フランスのお城の名前ね。素敵」
嬉しそうに中に入る若月さんの背中に、俺は質問を飛ばした。
「お城っていうのも、何か聞こえたんですか?」
振り返った若月さんは、クスリと笑い、首を横に振った。
「いいえ。これは教養というものよ」
「……そうですか」
恥ずかしくなって俯く。
そんな俺を気遣ってくれたのか、席に着くと若月さんは弁明するように言った。
「実は義母の1人にフランスの人がいてね。そのせいで、ちょっとフランス関連の名称には詳しいのよ」
「フランスのお城なんですね」
母の1人という言葉には少し疑問が残るが、聞き流しておこう。
「そうよ。ダ・ヴィンチの墓があることで有名ね」
レオナルド・ダ・ヴィンチの事だろうか。少し前に、美術の授業で習った名前だ。辛うじて分かってよかった。
「さて、何か食べる?体調はどう?」
「今は大丈夫です。食欲はありませんけど」
「そう。ま、気絶しているけど、まだ取り憑かれているものね」
え?気絶?
「さっき弾いたから、しばらくは大人しいはずよ」
言葉の意味が分からない。
「あら、そこは常時見えている訳じゃないのね。なるほど」
そう言うと、若月さんはポケットから何かを取り出した。
「これ、その辺に叩きつけて音を聞いてみて」
Y字の金属を手渡される。どうやって使うものだろう。どっちが上で、どっちが下かも分からないが、若月さんは店員を呼んで注文を始めたので、質問のチャンスを失ってしまった。
叩きつけろと言われても、傷つけたら怒られるかもしれないしと、自分の腕に叩きつけてみる。
「痛!」
痛かったが金属は二股部分が震えて、小さく音が鳴っていた。
耳に持っていったが間に合わずに音は消える。
「テーブルの角でいいわよ」
注文が終わった若月さんがそう言う。
俺は言われるままにテーブルに金属を叩き付けた。すると、キーンと小さな音。
「耳に近づけて」
耳に持っていくと、プゥーンと綺麗な音がしていた。深みのある、清らかな音。
「音を覚えて」
覚える?
耳を澄まして音を覚えようとした。
徐々に小さくなる音。残響が耳の中に留まっているような感覚になる。
「ゆっくり目を開けて、右を見て」
目をゆっくり開け、右肩に目を向ける。
「わぁ!」
絡まった腕が見えた瞬間、俺は飛び上がって驚き、その反動で席から転げ落ちた。店中が俺を見ている。
慌てた店員が駆け寄ってきた。
「何かございましたか。大丈夫ですか」
「あ、あ……だ、だ、大丈夫で、す」
動揺を隠しきれず、店員さんの手を借りて立ち上がった。
その間も、絡まった腕は消えない。
席に座り直した俺は、若月さんに聞いた。
「俺、まだ齧られてますか」
「いいえ。今はそいつ、気絶してるから大丈夫よ」
弾いたからしばらくは大人しいと言った、若月さんの言葉を思い出した。
「熱は額を齧られていたからだと思うけど、季節的な事もあるから、風邪でないとは言えないわね。あのクリニックで検査はしたの?」
「は、はい。粘膜と、血の検査をしました。特に異常がなかったので、ストレスだろうって」
「それなら、なんとかなりそうね」
若月さんがそう言って、にっこり笑った時だった。頼んだものがテーブルに運ばれてくる。
「暖かいミルクティーと、冷たいクリームソーダ、どちらがいい?」
俺は少し迷ったが、クリームソーダを選んだ。子供っぽかったかな。
「お菓子もどうぞ」
焼き菓子を差し出してくる若月さんに、軽く頭を下げて手を伸ばす。
肩の腕に注意しながら、1つ取った。
「食べにくいわよね」
苦笑しながら言う若月さんは、俺の肩に手を伸ばす。
なんだろうと見ていると、青い光がそこから生まれた。
「ぇ!」
ほとんど声にならない驚きが、口から溢れるようにして出る。目を開けていられないほどの光に、俺はぎゅっと目蓋を閉じた。
「……」
目蓋越しに光が消えたことを感じ、そっと目を開けた。
若月さんの後ろにいた人が振り返って見ている。チラリと左右を見ると、こちらを見ている人と、見ていない人がいた。
「今のって……」
言いかけて、はっと自分の肩を見る。
「どこに?」
肩を叩き、首を摩ってみた。
「ここよ」
若月さんは人差し指を刺すようにして、何かを押さえている。
トントンと指を上下させ、俺に注目させたそこには、青い小箱があった。
「これは怨霊。千歳さんは魂の残像。百目鬼さんは傀と呼ばれる存在よ」
「怨、怨霊……?」
「そうよ。放っておいても大丈夫なのは、白いのだけよ。黒いのは警戒しなきゃいけないし、怨霊は引き剥がさないと体に障るのよ」
「障る?」
「そう。障りがあるの」
障りってなんだろう。具体的にどうなるのかな?
「千歳さんのような白いモノは悪さをしない。ただの魂の記憶が形作られているだけなの」
「それを地縛霊と言うとか?」
「そう呼びたい人達もいるだろうけど、我々の業界ではそう呼ばないわね。その場に停滞するだけじゃなくて、歩いている人もいるもの。ゆらめき、流れ、いずれ消える。だから朧と呼んでいるわ」
ふと、今日の百目鬼さんを思い出した。
「それは、黒のも同じですか?」
「いいえ。黒いモノは少し違うのよ。いずれ消えるってところだけは同じだけどね。百目鬼さんを見て思ったの?」
俺は黙って頷いた。
「もしかして、最初に見た時はあまり動いていなかったんじゃない?」
さらに黙って頷き、クリームソーダを飲んだ。
「亡くなって日が浅かったからでしょう。自分がどうなっているのか……つまり、死んでいる事も最初の頃はわからないのよ。何故そこに現れたのか、どうして自分はここにいるんだろう、それが分からなくて恐ろしい。事故や殺人なんかで命を落とした人の中には、怖い、痛い、助けて、って言っている人が多いわね」
最初に百目鬼さんを見た時は、確かにそうだった。
「しばらくすると、自分の状況がわかってくる。個体差はあるけど、概ね3日から7日の間には自分の状況を理解する。百目鬼さんの場合は亡くなってから10日ほど経っていると思うわ」
亡くなってから、そんなに経っていたんだ。
俺はクリームソーダのアイスクリームが溶けて、ソーダに白い濁りを作るのを見ながら、若月さんに質問した。
「……若月さんには、百目鬼さんが何て言っているように聞こえたんですか?」
「かなり錯乱していたけど、主には許さない、かしら。人生を返せとか、友達に手を出すなとか」
俺が聞き取れた事に加え、聞こえなかった事まで言われて、思わず顔を上げる。
「友達?」
「あのクリニックにいた受付の女の人ね。あの人は看護師ではないし、年も離れているようだけど、百目鬼さんとは仲良かったみたいね。突然連絡が取れなくなった百目鬼さんを、探していたのでしょう。あの男が何かするんじゃないかと警戒していたし、もしかしたら犯人に近づきすぎていたのかもしれないわね」
百目鬼さんの名前を出した時、変な顔をされたのを思い出した。
「ま、ともかく、この事は亜槐さんに任せておきましょう。彼は警察の人だから、後はなんとかしてくれるわ」
「え?あの人、警察官なんですか」
驚いて若月さんに問うと、笑顔の頷きが返ってきた。
「刑事よ」
若月さんはそう言うと、ミルクティーを優雅に飲んだ。
「百目鬼さんはどうなるんですか?あの交差点のやつみたいに……」
そこまで言って、交差点の事なんか知っているはずないと口を閉じた。
「ああ、昨日礼が取り込んだってヤツね。大丈夫よ。百目鬼さんはあたし達がちゃんと送ってあげる。昨日の交差点の奴は、今はこんな感じね」
そう言って、若月さんはテーブルの小箱を指差す。
「それって、封印したって事ですか?あれも傀?」
「あら、賢い子ね。その通りよ」
賢いと言われて、少しだけ頬が熱くなった。誤魔化すようにクリームソーダを飲む。
「これは一種の結界術なの。主に怨霊や傀を閉じ込めるための物よ」
主にという言葉が気になって首を傾げた。
「怨霊と傀だけ?」
「道具として出しているものは、怨霊と傀を閉じ込めるものね。あたしみたいに自分で形成できるものはその限りではないわ」
「千歳さんや百目鬼さんもいつか封印する?」
そう聞くと、若月さんは小さく肩を窄めて首を横に振る。
「千歳さんは害もないし、百目鬼さんは、警察に協力中だしね」
俺は少し首を傾げて、聞いたことを整理しようとした。
「えっと、千歳さんは魂の記憶。俺を齧っていた奴は怨霊。交差点の黒いのと百目鬼さんはその中間の傀。それで、千歳さんは悪さをしない、黒いのは全部、危険?」
「認識としてはそれでいいわ。もう少し説明を加えるとね」
若月さんはミルクティーを一口飲んでから言う。
「朧が悪さをしないのは、自我がないからなの。明確な記憶もないから、心を残していない。放っておいても、そのうち消える。その人の体質にもよるから、明確にいつとは言えないけど、5年以上消えないでいるモノは見たことがないわね。千歳さんもずいぶん減っていたし、あと数ヶ月でいなくなるでしょう」
「減ってる……?それってあの、煙と関係ありますか」
微笑みと頷きが返ってくる。
「煙のように見えるのは、霊体が細かく剥がれていってるからよ。近寄って、よく見れば分かるかもしれないわね。体の一部が欠けて見える事はないんだけど、ああやってゆっくりゆっくり減っていって、いつかは消える。人によっては数日で消えるわ」
そうなんだ。でも、じゃあ、百目鬼さんはどのタイミングで消えるんだろう。
「恨みを残して死ぬとみんな、ああなるんですか。百目鬼さんも、いつかは消えますか」
若月さんは微笑みを消し、真剣な顔で俺に言った。
「どんなに人を恨んでも、どんなに呪ってやりたいと願っても、能力がなければ叶わないものよ。特殊な能力によって、強制的に魂をとどめられでもしない限りはね。百目鬼さんは、知らずに生きてきたけど、死んでその能力がある事がわかった。きっと初めは真っ暗な視界のまま闇雲に歩いて、いつの間にか職場に着いたのね。でも死者の視界は暗いし、自分がどうなっているのか分からないの」
俺は唾を呑み込みたくなって、慌ててクリームソーダを飲んだ。
「やがて思い出す。自分がどうやって最後を迎えたのか。思い出してしまうと、その時の恐怖や怒りが延々続く。魂のない黒いモノを私たちは傀と呼んでいるの」
ところで、と若月さんは俺に質問した。
「あの犯罪者に絡みついた、モヤのようなモノは見なかった?」
俺はぎこちなく首を横に振った。見ていないとダメだったのかな。
「まあ、見えていたら、もっと早くに逃げていたかもしれないわね。いえ、見えていたとしても、知識がないと逃げようがないかしら。それが意味するものが、何か分からないもの」
「それって、若月さんには見えていたんですか?」
「もちろんよ。百目鬼さんからも出ている、怨嗟ってやつね。百目鬼さんは、自分の怨嗟が絡みつく人物が近くに来たから、やっと見つける事が出来た」
俺の横で顔を覗き込んでいた百目鬼さんを思い出した。あの人と話していたから、俺にもその怨嗟とやらがついていたのだろうか。
「そんな諸々を学べる普通校が私立瓊樹学院高等学校よ」
突然何を言い出したのかと思って若月さんを見る。しかし昨日の情報と合わせて考えると疑問が湧き出る。
「普通校?封印を目的にした施設とかじゃないんですか」
「……どうしてそう思うの?」
微笑んでいるようにも見えるが、少し纏う空気が変わった。
「えっと」
言わない方が良いかもしれないとは思ったが、自分が通うかもしれないと考え、勇気を出して聞いてみた。
「昨日、刑事さんがそんな事言ってました」
「亜槐さんね……。そうね、封印ってのはついでなのよ。場所があって、適正のある人材が揃うのなら、それを使わないなんてもったいないでしょ?学校を作ったのはね、助けたい子がいたからなの。あたし達みたいに、業界の中で育って世間に溶け込めない子達と、あなたみたいに業界を知らずに育って、知識不足のせいで苦しんでいる子達のためにね」
誤魔化しているような感じはなかった。
「ま、人材を育てたいってのもあるんだけどね。だから修行の場でもあるわけよ」
「修行?」
「そ。そっち系の勉強にくる子達は寮に入ってもらうけど。怪異と遭遇できる楽しい寮よ。それに学院が何かを封印しているなんて、ロマンあっていいじゃない」
ロマン?
なんか、違う方面にアプローチしているような気もするが、それは言わないでおこう。
「寮……か……」
「この世界から逃げたいのなら普通寮もあるけど、入学が決まってから選ぶといいわ。関わることで心を病む人もいるから、そんな人達は裏方に回ってもらう。見えるけど祓えない、って人達ね。寮ごと結界で守ってあげるわ。見えるだけでも人手は欲しいし、生徒が増えるだけでもメリットがあるの」
若月さんはそう言って、Y字の金属を指差した。
「それは音叉といってね、音楽家が使うための道具よ。あなたにあげるわ」
俺はその金属を持ち上げて繁々と見た。
あの残響が耳に残っている。
心の奥底から、何かが迫り上がってくるような感覚になった。
「これに、悪霊を祓う力があったり……」
「しないわよ。さっきみたいに、視界の調整を助けてくれるだけ。あなたに逃げる選択肢はなさそうだから、渡しておくわ。見えるなら、向こうからちょっかい出される事もあるの。でも見えないと対処もできないでしょう?」
「逃げないって、どうして分かるんですか?」
「病気じゃないなら戦えるって、魂の叫びが聞こえたからよ」
俺はポカンとして、目の前の人物を見た。
「魂?」
「あらやだ。本気にしないで」
若月さんはそう言うと、ころころと笑った。
「そんな気がしただけよ」
そう言うと、伝票を持って立ち上がる若月さん。
「そろそろ帰りましょ。熱はもうないようだけど、学校は休んでいるでしょう?一応、家に帰って寝てなきゃ」
俺は自分の額に手をあててみた。
言われてみれば、熱はいつの間にか下がっている。
家の前まで送ってもらった俺は、若月さんにお礼を言って頭を下げた。
受験案内の紙を見て、住所を見る。
「藤沢か」
親元を離れて寮生活ってのも興味ある。不安もあるが、自分みたいな人が同じ寮にはいるんだろうか。どんな高校なんだろう。
後で調べてみよう。
それから、親には明日にでも聞いてみようかな。
そんな事を考えながら玄関の扉を開けた。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
玄関の扉が開いた瞬間、ぷつん、と画面が消える。
光はゴーグルを外して、目の前にいる端正な顔を見た。
「まさかの、岳斗先輩。しかも中2か中3ですよね?ってことは今から4年くらい前か。師匠、前から岳斗先輩の事、知ってたんですか?」
師匠と呼ばれた礼は、少し上を見て首を傾げる。
「さあ、岳斗って名前は記憶ないけど」
「通りすがりみたいだったし、それもそうか……このカードは部活の先輩の記憶でした。それにしても」
光はそう言って、礼の目をじっと見た。さっきの映像で見るよりもずっと柔らかい雰囲気だ。
「師匠、今より、人間味がなくて作り物みたいですね。怨霊級に美形ですけど」
礼は光をしばし見つめてから、首を軽く捻った。
「それは褒められているんだよな?」
「もちろんです!でもちょっと雰囲気違って尖ってますね」
「冬香と出会う前だからな」
「冬香さんと出会って、丸くなったんですか?」
「ま、そんなトコだ」
光は心の中で冬香に感謝した。
「それにしても、岳斗先輩がここの関係者だったなんて。あれ?じゃあもしかして部長も?」
「さあな。オレは若月の雇ってる全員を知っている訳じゃないし。光だって制服着てなかったら声をかけていなかったかもな。それよりも次、行くか?」
「はい!次も見てめきめき成長したいと思います!」
「ん、頑張れ」
礼は巻毛を揺らして次のカードを引く。
それをゴーグルの前に持ってきて掲げた。カードが吸い込まれ、次の物語が始まる。