傀 その2
白線だけを踏みながら歩いていると、ギャーギャー言う声が聞こえて顔を上げる。
20代前半と後半かな。
男2人が前からやってくるのが目に入った。
「お前の得意分野だろうが」
スーツ姿の強面な男が、巻毛の美男子に喧嘩腰で話している。
絡まれてる?
「そうですけど、ノーギャラでしょ。あんたの犬だってそれくらい出来るでしょうに」
サラリと返しているので、仲が良いのかも。
「良いじゃねえか、近所なんだし」
「あ、それ技術職の人に同じ事言えます?美容師に向かって、近所なんだからちょっと髪切ってくれよ、材料費かからないでしょ、時間のある時でいいからさあ、って言えます?その技術で食ってる人にですよ?」
「ダー!うるせえうるせえ!そんな事は分かってんだよ。俺も普段ならこんな事言わん!そもそも、お前が蒔いた種じゃねえか」
すれ違おうという時に、スーツの男が大声を出したので、少しビクッとなって足が止まってしまった。
「あ、それは心外だな。そもそも亜槐さんが……」
巻毛の美男子が俺に気がつき言葉が途切れた。目線が先に、次いで顔がこちらを向く。
目が合った瞬間、心臓が大きく跳ねた。
人間離れした美貌に、鋭い視線。作り物のような真顔がじっと俺を見ている。
「どうした」
スーツの男が声をかけると同時に、巻毛の美男子がすれ違おうとしていた俺の腕を掴む。
得体の知れない恐怖に、心臓を掴まれたような気分だった。
グッと近寄ってくる顔。
「お前、大丈夫か」
「え……?」
心配されるような言葉が出てくると思っていなかったし、何に対して問われたのか不明だ。
俺は目を丸くして巻毛の男を見た。何もかも見透かすような目が、俺の額をじっと見ている。
「ふうん、見えてるな。おい、ちゃんと自覚して対処しろ。でないと乗っ取られるぞ」
巻毛を揺らしながら腕を解放した男は、腰を折ったまま俺の観察を続けている。
「見えてるって、どうして……」
「勧誘するつもりか?あの封印の学校とやらに」
横からスーツの男が一緒になって、俺の顔を覗き込んでくる。
「今日はカードがないから無理か」
上体を起こした巻毛の男は少し迷いを見せる。
「おい、点滅してるぞ」
スーツの男が信号を指差しながら足を進める。
巻毛の男も合わせて北に向かい、俺は引き返すこともできず、そのまま南方面に渡りきった。
どうにもその2人が気になって、振り返り行く先を観察する。
2人は信号待ちをしている。このまま行くと、北東の角にご到着だ。
今日も絶好調で手を伸ばしている黒いモノの、真正面に着いてしまう。
信号が青になり、2人は何も気にすることなく、その黒いモノに近寄っていく。
事故に遭わないかだけでも、確認しようとその様子を見ていた。
行き交う車で時々見えなくなるのが、少しもどかしい。
もう少しで黒いモノに到達しそうだった2人組は、トレーラーを引きずった車に遮られて姿を消した。貨物車みたいな大きな荷物を牽引して右折してきた車は、歩行者でもいるのか中途半端なところで止まっている。
あの交差点で車が止まっているのを見るだけで、大丈夫なのだろうかと不安になる。
俺は心臓がドキドキ鳴る音を聞きながら、車が通り過ぎるのを待った。
「あ……」
車がようやく通り過ぎたと思ったら、2人は姿を消していた。
北東の角には、すでに何の影も残っていない。
そう、何も、残っていなかった。
その日の夜、俺は風呂に浸かりながらぼんやり上を見ていた。
巻毛の作り物のような顔が頭から離れない。
「見える人って、わりと多いのかな。それとも、この病気の人が多いから?」
昼間の出来事を思い出して気がついたことがある。
あの2人組と一緒に、黒いモノも消えていたのだ。
それに気がついのは帰ってきてからだ。
どうしてあの時は気付かなかったんだろう。
それとも、薬の効果が今頃ではじめたのかな。
そう言えば、帰り道で他の白いモノや黒いモノに遭遇していない。
街中をフラフラしているやつだって、時々いるのに、今日は見ていないと思う。
「薬が効いてきたって事にしたいな」
勢いよく浴槽から立ち上がり風呂を出た。
バスタオルでガシガシ頭を拭き、ふうと息を吐き出して鏡を見る。
「!」
驚きで息が止まった。
俺の額に齧り付いている、得体の知れないモノが鏡に映っていた。
腕を頭部に絡め、足を肩と首に絡めた、髪がザンバラな男か女か分からないモノ。
骨と皮だけのような細い手足に、バランスが悪いほど大きな頭。口も大きくて、額の半分ほどが噛まれている。小刻みに噛むような動きで、齧られているのだと思ったが、痛みなどはない。
その得体の知れないモノが齧り付いているのは、巻毛の男がじっと見ていた場所だった。
息苦しさを覚え、焦りから思わず手を振って額を叩く。齧り付いていたモノがギャっと悲鳴を上げ、止まっていた息が一気に軌道を通って吐き出る。
そのまま咳き込むことしばし。
落ち着いた俺は、屈んでいた上体を起こし、そっと鏡を見た。
いつもと変わらぬ自分が、少し赤い額と共にそこにあった。
肩を触り、首を撫で、頭の上を振り払う。
心臓の鼓動は昼間の比じゃない。
俺はフラフラと部屋に戻り、そのまま布団に潜り込んで寝た。
そのせいか、その晩は熱にうなされることになる。
額が気になって、何度も振り払う素振りを見せた俺を、両親は心配して一晩中見守っていたようだった。
次の日、早々に心療内科に送り届けられた俺は、出勤を遅くして付き添おうとする父に大丈夫だと告げ、1人待合で呼ばれるのを待っていた。
角の席を見ると、白いお婆さんは今日も変わらず、のほほんと座っている。
ふと、触れるのだろうかと気になって立ち上がった。
角の席に近寄っても、お婆さんは俺を見ようとしない。
いや、気がついていないって感じだ。
『心霊現象だよ、それ』
柔和な笑みの男が教えてくれた。それなら、と心を決め、ぎゅっと目を閉じて椅子に勢いよく座った。
恐る恐る目を開けると、視界の横に黒いものが見えた。
ふと横を見ると、百目鬼さんが俺を覗き込むようにして屈んでいた。
「ひっ」
ほとんどくっつきそうな程の距離に、心臓が跳ね上がる。
一瞬、逃げようかと思ったが、百目鬼さんは首を緩く左右に振ると、スッと俺から離れる。
ホッと脱力したと同時に、入口から男が入ってきた。
あの、心霊現象だと言ってくれた人だ。
「やあ。今日はまた顔色悪いね」
「ちょっと熱出しちゃって」
そんな会話をした時だった。
「都久川さん、都久川 岳斗さーん。診察室へどうぞ」
声がかかり、立ち上がる。
白いおばあさんも、百目鬼さんもどうなったのか確認出来ないまま、診察室に入った。
熱が少し高かったため、季節性の風邪や流行の感染症かもしれないと、粘膜検査と血液検査が行われた。
検査結果を待つ間、あの人と話したかったが、熱があるからと奥のベットに寝かされ、隔離状態で待つ。
しばらくして出た検査結果は、特別数値の高いものは無く、細菌やウイルス感染ではないと言われた。
「免疫が落ちているのかも知れないね。強いストレスも考えられます」
強いストレスと言われて、昨日の齧り付いた額のモノを思い出した。
「幻視や幻聴はどうかな。薬はちゃんと飲んでる?」
「は、はい。薬は全部飲みました」
幻覚については、きちんと答えなかった。
俺はどうなっちゃったんだろう。心霊現象なのか病気なのか。
どっちかを受け入れたくないから、体が拒否して熱を出したのかも。
だとしたら、どっちなんだろう。
病気は嫌だ。心霊現象も嫌だ。
だけど、どっちか知りたい。
「じゃあ、追加で出しておこうか。熱冷ましの頓服も付けておこうね」
「はい、ありがとうございます」
診察室を出ると、笑顔の男とすれ違った。入れ違いのようだ。
待合に戻った俺は、角の席に目を向ける。
「いる……」
のほほんとした表情のまま、静かにおばあさんは存在していた。
幻視なんだろうか。
「都久川さん」
診察後、すぐに呼ばれた俺は受付に向かう。
「!」
百目鬼さんが、怒りに燃えた顔で左右を見ている。
どうしたんだろう。何があってそんな感じになっているんだろう。
『許さない許さない許さない……許さない……許さない……許さない……』
「……それで、こちらが頓服です」
『許さない許さない許さない許さない許さない許さない』
「……が上がってきたら……くださいね」
『許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない』
「……ん。都久川さん、…………聞いてますか。都久川さーん」
「あ、はい!」
「大丈夫ですか?」
受付の人が心配そうにこちらを見ていた。だが、背後の百目鬼さんの声で、ほとんど聞こえない。
「はい。熱、上がってきたのかな。少し休んでから帰ります」
そういうと、受付の人は頷いて何事か言った。だけど、俺の耳には百目鬼さんの声しか聞こえない。本当はすぐにでもここから離れたかったが、あの人に話を聞いてもらいたい。
俺は百目鬼さんが見える場所に座り、あの人が診察室から出てくるのを待った。
百目鬼さんは何かを探して徘徊しているようだが、受付の中を行ったり来たりしているだけで、待合には出て来ない。
さっき、俺の顔を覗きに来ていたから、出て来れないはずないのだが、右往左往しては辺りを見回す。時々、何かに怯えて頭を抱え、怖い怖いと繰り返す。
どうしよう。あの人とは話したいけど、また百目鬼さんが近づいてきたらどうしよう。
しばらくすると、目的の人物が戻ってきて、俺に気がつき隣に座る。
「成仏してよかったね」
微笑みかけるその人は、角の席を見てそう言った。
おばあさんは今も変わらずいるが、この人には見えていないのだろうか。
「あの、百……」
「あ、ごめん。ちょっとトイレ」
急いで立ち上がったその人は、トイレに入ってしまった。
あの人におばあさんが見えてないのなら、これは俺だけの幻視なんだろうか。だとしたらこれは病気だし、百目鬼さんが怖いなんて言えない。
そう考えていると、トイレからその人は出てきて、こちらには戻らず受付に立つ。
「そろそろかなと思って」
「さすがです」
和やかな会話が受付から聞こえる。百目鬼さんの唸り声と共に。
一緒に出ようと思った俺は、荷物を持ち直した。会計が終わるのを見計らって席を立ち、受付に近づいたその時。
『許さない、許さない、許さない!』
受付の中にいた百目鬼さんが、壁をすり抜けるようにしてこちら側に来た。
俺は驚いたが、すぐに出口に向かい、素早く靴を履き、いつでも逃げられる用意をして振り返る。
『許さない、お前、絶対に許さない!私の人生を返せ!返せ!返せー!』
受付でにこやかに話している男の首を、百目鬼さんの手が締め付けている。
しかし、男は何食わぬ顔で会話を続けていた。
もう、俺の耳には百目鬼さんの悲痛な叫びしか聞こえていないというのに。