セオドア・ヘンドリックスのたぶん英断
アリエルがふらついて倒れると悟った瞬間、バルコニーから駆け付けてきていたセオドアは、無意識にも爆発的瞬発力で地を蹴ると倒れ込むギリギリで抱き止めていた。
ハッと我に返って自分でも戸惑ったが、それよりも蒼白な顔の彼女が今にも死んでしまうのではと危ぶみ、咄嗟に意識を手放すなと頬を叩いた。しかしやり過ぎたかもしれないと反省する。らしくなく何故か必死になってしまったのだ。
聖女アリエルは就任一年足らずだというのに何やかんやとやらかし過ぎる娘だった。
いつの間にか気に掛かる程に。
やや過剰だった刺激が功を奏したのか一度薄目を開けた彼女はがくっとご臨終かのように意識を手放したものの、成仏しそうな煩悩が彼の脳裏にはそよ風のように響いて流れていったので、もう変に取り乱したりはしなかった。
「……平気そうで何よりだよ」
よく見れば規則正しく呼吸もしている。
これは寝ているのではとセオドアは半ば安堵を抱いたが、素人考えは良くないと急ぎ彼女を国王の宮殿へと運ばせ王宮医に診察させるよう命じた。
本音では付き添いたかったが、自分はまだ広場の残りの指揮を執らねばならない。そうして早々に事後処理を終えるや急いで彼女の所へと向かった。
「休息の必要はございますが大事はございません」
診察を任せた王宮医からはそう言われた。つまりは見立て通り寝ていたというわけだ。セオドアは密かに胸を撫で下ろした。
同時に、人の心配を返せと腹立たしくも思ってしまう。
彼の胸中なぞ露と知らない王宮のベテラン医は正面で神妙な顔をする。
「陛下、今回は幸運にも大事には至らなかっただけです。聖女様にはくれぐれもあまりご無理をさせませんよう」
「ああ、わかっている」
聖女も人間で、過剰な力の使用は命取り。聖女の正式な活動を教会側で調整しその上で国王の承認制にしているのはそのためだ。
彼女には立場やリスクをよくよく考えてほしいものだと苦々しく思う。
大体にして聖女が教会を脱走するなど言語道断。しかも初犯ではなく常習犯と言うのも頭の痛い問題だ。絶対この先もやらかす。そして無茶もする。
(いい加減、どうにかしないとな)
何かあってからでは遅いのだ。彼はふと、扉の向こうへと意識を向けた。廊下を走ってくる何者かの足音が聞こえたからだ。
「聖女様ぁぁあああ~っ!」
猛烈なドップラー効果で接近する声も。程なく、泣きべそと共に教会の聖職者が纏う白い法衣の青年が、頭になかったのかノックもなしに部屋に駆け込んできた。
背に流した青い長髪は女性かと見間違えるようなサラサラヘアー。それが大きく揺れる。
ここまで入れるのは基本的に許可のある者なのだが、セオドア付きの警護の兵士達は驚いて反射的に抜き身の剣を交差させてそれ以上の進行を阻んだ。
「ひぃええぇ~っ」
目の前に突如剣身の迫ったせいか、青年から悲鳴が上がる。泣きべそ度合いもぐんとアップした。セオドアはハア、と溜息をつく。
「通してやれ、聖女の関係者のイザーク神父だ」
一応は教会に聖女は王宮だと連絡をしておいたのだ。万一刺客でもセオドアは自身の身は護れる。日頃兵士を彼が指導もするので実は彼らよりも腕が立ちもする。護衛を置くのは王宮の制度なのと年がら年中気を張っていたくないからだ。
イザークはセオドアより年上で、教会の付けた聖女の護衛の一人。腕も立つ。いざという時には強力な水系の魔法を使って聖女を護るらしい。
(土台そうは見えないけどな)
何しろ涙と鼻水で大の大人が大変な様子になっている。セオドアは教会は人手不足なのだろうかと危ぶんだ。
(全く、付き人がこれだから簡単に脱走されるんだ)
剣が下げられるやイザークはすぐにベッドで意識のないアリエルへと取り縋った。
「何また無茶やったんですか聖女様あ~っ」
人目を憚らない泣き青年にセオドアは早いところ教会に連れ帰れとアリエルを託そうとして、しかし開きかけたその口を閉じた。
彼女が無理をしないように目を光らせる良い手を一つ思い付いたのだ。
「イザーク神父、聖女はこれより王宮で生活させる。こちらの方が不自由はないだろう」
「で、ですがセオドア陛下、聖女様のご意思は……」
「目覚めたら確認を取る。もし聖女が断ったならこちらも無理強いはしないから安心しろ」
セオドアにはアリエルは承諾するだろうとの確信がある。自ら進んで鮫に食い付かれる生き餌になったような気分なのは拭えないが、これも国のためと割り切った。
聞こえる頻度が増すだろう煩悩も慣れに慣れてしまえば舞踏会のBGMのように気にならなくなるかもしれない。もし無理なら教会にお帰り頂くだけだ。
結局、イザークは戸惑いは見せたものの大きく反対はしなかった。聖女の護衛の滞在も許可したからかもしれない。
そんな泣き虫神父は一旦教会に戻った。その彼が王宮に戻ってくるのと共に他の護衛達も連れて来るだろう。
聖女にはここ国王宮殿ではなく空いている別の宮殿で寝起きしてもらうつもりだ。歴代の姫や妃が暮らした場所で現在の主はいないが、建物が傷まないよう手入れや掃除は行き届いておりいつでも利用できる。少なくともそこなら煩悩も届かない。
今までは財の無駄遣いだと評価していた広い敷地に幾つもの宮殿を建てた先祖達に彼は初めて少し感謝した。
アリエルはまだ目覚めない。
退室前、医師は命に危険はないが目覚めは今日か三日後かはわからないと言っていた。
現在室内にはベッド脇の椅子に腰掛けたセオドアと傍に立つ護衛の二人、そして眠るアリエルだけだ。
誰も無駄話はせず、室内もセオドアの思考内も至って静か。
眠っていたり意識のない間はどんなに近くにいてもアリエルの心の声は聞こえてこない。
中央広場では、彼がバルコニーに出るかなり前から聞こえていたのが信じられないくらいに本当に何も聞こえてこない。
(いや、これが正常なんだよな)
セオドアは自身にやや呆れた。アリエルとの普通ではない現象に疑問を抱かず、むしろ静かだと違和感を抱くなどどうかしている。
(こんな自由人聖女は歴代でも彼女くらいだろうな)
出会ってから心の声が聞こえてくるまでも多少個性的な娘だとは感じていたが想像以上だった。
(心の声、か……)
前世や夫など、アリエルの思考にはスルーしていいものか悩む内容もあったが、悩んでも仕方がないので彼はなるべく考えないようにしていた。
しかし先のワイバーン出現の折のように、彼女のおかげで早いうちに気付けると言うような役立つ例もある。
まさかとは思いつつもまもなく自らの感覚でも同じ結論を得た。心構えがあったからこそ冷静さを欠く事なくいられたのだ。
会場警備の兵士達が大きく取り乱さず即座に呼応してくれたのも大きい。日頃の指導の賜だ。
その後も予想だにしなかった聖女の活躍があって誰も死ななかった。
人質に当たらないように剣を命中させられたのも、アリエルがワイバーンの動きを鈍らせてくれたからだ。
(聖女の奇跡が魔物への攻撃魔法にもなるとは夢にも思わなかったな)
おそらくはこの国の誰も知らなかった真実だ。しかしアリエルは知っていてそうしたようだった。わかりやすい性格の割に案外謎の多い娘だとセオドアは思う。
ただ、彼女の体感時間とは異なり実際の力の行使時間は一分足らず、それだけ彼女にとってはハードだったのだろう。
(私の想定が甘かったせいで無茶をさせた)
この先も街中にワイバーン出現の可能性があるのなら防衛計画を一から見直す必要もある。今回は聖女のお陰で深刻な事態にはならなかっただけだ。
(済まなかったな、アリエル)
繊細な銀髪がワイバーンの起こした風に煽られて、その間から覗く決然とした一対のエメラルドの瞳には、他者のために躊躇わない強い眼差しがあった。
あの時セオドアは暫し目が離せなかった。
いつもの煩悩聖女と同一人物なのかと疑いすら抱いた。
(当分忘れられそうにない)
疲れの浮かぶアリエルの顔を見つめ、セオドアは一時どこか酔ったような不思議な感情を抱いた。
間違いなく今日の件は語り草になる。
見る目も変わる。
聖女自身にも戦闘能力があると知られたからには、戦場最前線へ派遣する提案などがされる可能性も出てくる。
とは言えセオドアには聖女を危険に晒す気はない。
(こんなのでも、失うわけにはいかない大事な聖女様だ)
しかし先の凛とした姿もまた、彼女の本当なのだろう。
戦う聖女。
勇猛に、果敢に、美しく。
それでも、思考の片隅ではいつものユルさで元気に迷惑を掛けられている方が彼女らしいと思ってもいた。