持ち家の扱いは自由
長く辛かった彼の闇夜にようやく変化が表れた。
それまでは、無理やり見る夢も思索もネガティブなものばかりだった。
目覚め、自己を認識したのはいいとして、ずっと何もできないと鬱屈もするというものだ。要するに多少は人間腐る。
(今の僕は人間ではないけど)
そんな暗い気分に置かれていても前世とは異なる世界への興味は尽きず、一日でも早く飛び出して外を見てみたかった。
しかしどうしようとも身動きが取れず、冗談抜きに理性を無視して癇癪のままに大暴れしたくもなったが、それもできない。
何しろ卵の中の存在だ。
卵の殻を目には見えない望まぬ魔法の鎖ががんじがらめにしているせいだ。
どんな剣も殻を傷付ける事は叶わずあらゆる魔法も跳ね返す鉄壁の揺り籠だが、こんな誰も来ない場所にあっては無用の長物でしかないし、ただ動けないように固定されているだけなので絶対防御同然の性質も意味がなかった。
本当ならとっくの昔に殻を破って仲間と大空を自由に飛び回っていたかもしれない。
(全ては巣穴から僕を攫ったあの忌々しい女のせいだ)
何度も感じた無力感に打ちのめされ、最早誰でもいいから誰かに会いたかった。それがもしあの女だったとしても孤独よりはマシだ……と馬鹿げた域にまで到達した矢先、一人、人間が降ってきた。
その人間は彼を縛っていた聖なる封じを嘘みたいに解いた。
彼がかつても接した大嫌いな力で。
だからてっきりあの女だと最初は思った。やはり生きていたのだと。
しかも変な触り方をされてびっくりもして卵ごと暴れてみたら動いたのは自分でも予想外だったものの、束縛魔法が消えたからかもしれないと思い至った。
とうとう自由になれたのだとも。
まだ王宮の暗闇に置き去りにされる前、人知れずの秘境の奥の大きな巣穴にいたその頃と同じように。
当時は、巣穴に射し込む陽光を沢山浴び、今日にも明日にも生まれ出る状態だった。何の不安もなかったのだ。
招かれざる客が現れるまでは。
ある日、急峻な断崖の続くその地に女はたったの一人でやってきた。人間が来るには不可能に近いその場所に。
そして女は巧みに仲間の目を掻い潜ってまだ卵の彼を捕まえた。
一体何が目的なのかと彼が驚愕と混乱に陥っていると、まるで思考を読んだように話し掛けてきた。卵にも意識があるのを知っていたのだ。
『ひひひ卵くん、これは運命的必然なのだよねえ~。だからあたしを恨むことなかれ。何しろあたしは稀代の大予言者なのだよ。その役割を全うしないといけなくてねえ~』
かつて彼を誘拐した憎き女は得意気に言った。語りたがりだったのか、元々は道端で占いを生業としていたとか貧しかったとか、誘拐犯にしてはまるで緊張感のない話も沢山した。
前世を知った今なら占い師がどんな職業なのかわかる。だから彼女の喋りはどこか神秘的にも胡散臭くも聞こえていたのかもしれない。
恨むなと言われても土台無理な話だが、反抗したくとも彼女が言うように彼はどうあっても卵だ。卵でしかない。手も足も出ない、いや元々ない。
巣穴でもっと早く生まれていればと彼は悔しく思ったものだ。
『あたしの大予言それによるとだね、卵くん、君は今ではないのだよ。だから君を封じる。目覚めた先ではきっとこの世界のために誰より君が必要とし、必要とされる相手に出会えるだろう。あたしにはその未来がよーく見えているよ。……何もかもきっちり決まっている世界程脆いものはない。君は、君達は世界の柔らかさなのさ。世界がひび割れないためのね、ひひひ』
意味がわからなかった。当然だ。しかし単なる一介の卵だった彼には直接問う手段がない。
彼女の力は底知れず、掴み所もない。彼女は未来のためなどと到底信じられない台詞を口にした。今ではないとも。どうして今ではいけないのか、大体どうして自分なのか。未来とは一年後か百年後か千年後か一体いつなのか。
『あたしが君を見つけたのも予言者の特権だよ、ひひひ』
彼女にとっては全てが予定調和だそうだ。
彼の疑問には最後まで上機嫌にひひひと笑うだけで肝心な部分では濁されてしまった。結局逃げもできず王宮地下で眠らされたというわけだ。
こうして目覚めて考えてみると、予言などと言っていたが本当は口からの出任せで、単にあの女――聖女の酔狂に巻き込まれただけなのかもしれないという思いは拭えなかった。
しかしとうとう鎖は断ち切られ凍り付いていた時は動き出した。
予言など関係ない、また何か面倒事に直面する前にさっさと生まれるに限ると彼は決意する。
一方で、降ってきた娘が例の憎たらしい女ではないと気付いたのは振り落としてしまってからだった。
不審者だったが、不覚にも久方ぶりに寄り添ってくれた存在にほんの僅かな慰めを感じもした。まあ、思い切り放り出しておいてあれだが。
しかも何故かとても慣れ親しんだ相手のように心地よかった。
もっと一緒にいたいようなそんな気持ちが芽生える程に。
転生後の彼には必ずしも人間を優先し尊重する必要がなく、彼自身人間の女から痛い目に遭わされた経験からむしろ敵対して然るべきとすら思ってそこに躊躇いはほとんどなかった。
この新たな世界での自分は最早前世の自分ではなく、されど一方では前世の自分でありながら別の自分でもあると彼は理解して割り切っている。
懐かしく帰りたいとも思う前世の人間達と、この世界の人間達とでは、抱く感情の温度差が半端ないのだ。
故に人間になど配慮は要らない、あの女と同類――聖女なら尚更だ。敵だと思ってもう気にしないようにする。
そうして彼はもう自由だと、惑いを抱きつつもとうとう念願の外の世界へと一歩を踏み出した。
耳の奥までが揺れるかのような轟音とその余韻が消えた王宮図書館地下二階通路では、その場の誰も何も発せずにいた。
セオドアの前代未聞の行動と、その結果明らかになった事実を認めるのに些か思考にタイムラグが生じていたのだろう。
「――はっ、なるほどな。まさか王宮にこんな秘密があったとは」
一番初めに言葉を放ったのはセオドアだ。
自身の足元の床を見下ろしている。
汗一つなく一仕事を終えてふうと息をつく自国の国王を、臣下達は唖然として見つめた。正確には床と交互に。
何故なら、一国の元首が微塵の躊躇いもなく所有物件の床をぶち壊したのを目の当たりにすれば、誰だってそうもなるだろう。
モカ達達に至っては、あの聖女ありでこの国王あり、奇抜な時代の到来だ……などと思っていたが三人共に賢明にも口には出さなかった。
もう一つ、皆が言葉を忘れたようになっていた現実は依然そこに横たわっている。
ガラガラガラ、パラパラと床の石材が崩れて落ちていく。幸い人のいる所までは落ちない範囲で開けられた大穴の暗い底へと。
――地下二階の下には何と実際に地下三階とおぼしき空間が実在していた。
断面を見るに、床は物凄く分厚く、巨大ゴブリンが地団駄を踏んだりしない限りは振動からその存在には気付かないだろう頑健な造りだ。誰がこの下に洞窟のようなものがあると予見できただろう。過去の王宮の者達も想像だにしなかったに違いない。現に長い王宮の歴史の中でもこれまで誰にも発見されなかった。
早速と大穴の縁にしゃがみ込んでしげしげと覗き込むセオドアは、試しに小石を落として地面までの高さを測った。
「これなら行けるか」
独り言ちるや腰を上げて臣下達を振り返る。
「ちょっと行ってくる」
えっと仰天する周囲。反対に冷静なセオドアの目には何ら得意気な色はなく真剣な慎重さが宿っている。
先程テンションの高い謎の叫びが聞こえ何やら興奮していた思考が流れ込んでいたのが、気付けばもう何も聞こえてこない。
有効圏内から出たと言うよりは、彼女の意識がなくなった可能性が大きい。
セオドアは歯噛みする。王宮で聖女を失う恐れに直面するとは思ってもみなかった。
(これも私の落ち度だ。どうか無事でいてくれ)
眉間を険しくし、彼は周囲が冷静になり制止してくる前にと一人さっさと穴へと飛び込んだ。