下
十年以上が過ぎた。
風の噂では、だ。
兄は村の発展と盗賊団の殲滅に魔獣の討伐に功を上げて、貴族たる伯爵様が溺愛した三女を降嫁されて、爵位を分けられて近隣を治める貴族の一人となっていった。
母からの便りでは、先に娶っていた村長の娘とも上手くやれているらしい。
発展がめざましく、大貴族や王族の憶えもよろしく分けられた騎士爵位から叙爵して、男爵になったそうだ。近々さらに爵位が上がる、ついでに上位の嫁も増えると言われているが、正確には分からない、噂だけだからだ。
五年以上前、今はもう途絶えた母からの最後の手紙によれば、サクラの方も子供が産まれたとは書いてあった。当然だがそれ以上は分からない。貴族の内向きの話なぞ、詳しく余所に聞こえる訳もない。
俺はあれからは燻り続けた。
恵まれていた体格と、多少小賢しい頭脳を自慢に思っていた。だがそれは新人にしては優れているだけで、冒険者としては半人前に過ぎなかった。
努力もせずに出来る範囲だけの仕事を請け、稼いだ金は悪所で多少は散財する。気が付くと新人や駆け出しとは呼ばれぬ年齢になっていたが、相も変わらずの仕事内容で期待してくれていた人達の目が失望に変わってしまった。
いいや、それは俺の自意識過剰であり、周りが「新人にしては……」と褒めてくれた――それはある時期を過ぎれば、褒められるような仕事ぶりではなかっただけだ。
可も無く不可も無し、それが十年以上を経て得た俺の評価である。
そこそこの腕っ節の、そこそこの経験の冒険者。有る一定の仕事までは任せられるが、大仕事を任せられる器でもない、と。
後ろ指を刺されることもないが、信頼を持って名を上げてくれる者もいない――所謂その他大勢とか十把一絡げとかいう奴だ。
燻った心で辞め時を見失って惰性に身を漬していた頃、俺にしては大仕事を片付けて小金が入った。
貯めていた金と合わせて懇意にしていた遊女を身請けし、遠い地で小商いを始める事が出来るぐらいはあった……そうして俺は冒険者を止めて、故郷からは遠い場所で雑貨屋を始めた。
大儲けせぬ代わりに、滅多な事では転けもせぬ。なにせ競合相手が居ないのだから。
身請けした妻は、容色は多少可愛らしい程度だが、没落し零落した商家の出でもあった。小商いの手伝い程度ならば不自由はしなかった。
あの時、冒険者としての未熟なくせに鼻っ柱も強く努力の嫌いな俺は兄に殺されてしまったのだろう。
実際の生命には影響されないが、尊大とも言えるその自負心を根刮ぎやられた。
天下無双になれるとはおもっていなかったにせよ腕っ節に全てを賭けていた。そうして豪快と思える行為を繰り返していた。自分の腕や器量に立場も省みず、稼いだ金銭以上を無計画に散蒔いて悪所通いをして、恐怖を紛らわす生き方が出来なくなってしまった。
腕っ節と気合いで出世する冒険者の世界において、自分の身の程を弁えすぎてしまう事は縮こまる事でもある。適正な仕事しか請けず、乱れる心を静める程度の、それも安全な遊郭を偶に出向く……だがそれまでと違い散財までではなかった。
微熱を冷ますためにだけに遊ぶ……身の丈に合った馴染みの遊女以外に通わず、晩酌は自らの家で適当に稼いだ金銭を溜め込んだ。
いや今さらながら思えばだ。二十歳ぐらいまでの体格に恵まれた事を活かしただけの俺の冒険者生活はだ、綱渡りも良い処だった。だがそうした身の程知らずの蛮勇こそが、俺程度の才覚や器で大成するそれであったろう。
無論10に9……いいやそれ以上の確率で無惨な屍をさらしたろうが、せせこましく適当にしか信頼されていない中級冒険者であり続けたのとどちらがマシか。
蛮勇であり続ければ、その過程で努力をせざるをえなかったろう。あるいは幸運に愛されていれば腕が上がるまで生きていられたか。
だが勢いづいていなければならないところで否応無く自分の器量と向き合わされた――本当に惚れていたわけでもない、俺の物と思っていた者が盗られる……それが許せなかった。
そこで田舎に閉じこもっていた兄に手も足も出ずに負けた……そこで己が器量を疑ってしまった。
そこから気持ちを切り替えて真面目に修練を積めば良かったのだろう。だが俺はただただ縮こまって目を閉じ耳を塞いで身過ぎ世過ぎの適当な仕事に流れてしまった。
無論だが今思えば、という話では有る。
だが体格が適当に良く勢いがあるだけの未熟な小僧が、怠惰に縮こまり臆病になっては、冒険者で大成する道なぞ無い。それですら小金は貯める程度は出来たのだから、俺自身が見限ったよりかは才覚があったのやも知れぬ。
無論だが脳天気に夢想した場所には遠く及ばなかった訳ではあるが。
「店を閉めるよ」
夜も更けてきたので妻にそう呼びかけて店の扉を閉め鍵を掛ける。
冒険者を辞めてから数年が過ぎた。
現役時代のあの頃、それまで組んでいた仲間たちからも逃げ出していた。そこから受け入れてくれる者たちについていき、上に昇る意志を見せ始めると逃げ出していく。
そうして自分の実力で出来る範囲の仕事だけを請けていた。
そこそこ以上の努力もせずに調子に乗って自分の器量を信じていた夢見がちな餓鬼が自分の器と向き合った時、俺は怠惰に逃げ込んだ。
小狡く立ち回ることもしないが、酒色に溺れきることも出来ない。だから壊れない範疇で酒色に耽るが、眉を顰められる範疇でもない。
あの時、今思えばサクラに夜這いに行こうとして立ち塞がった兄の前に立っていた時、ただただ死が怖かった。
だから現状に燻ることを選んでしまった。ただ無様に自分の弱さに怯え、ただただ死にたくなかった……あとはどうでも良いとすら思ってしまった。
だから怯えた瞬間に身動き一つ出来なくなってしまった。
俺は若さにかまけて無鉄砲な勢いだけはある冒険者ですらなかった。兄と剣を交えて無様に負けたのなら絶望はしても立ち上がれた。
俺は体裁を取り繕って冒険者の荒っぽさを気取っているだけで、その本質は子供のように自分にない物を欲しがっているだけの餓鬼だった。
勢い任せで負けたのなら、時間を掛ければ再び勢いを付けることも出来たろう。
だが手に入らぬ物をただ欲しがるだけだから、確固たる何かも無い……欲すら曖昧な、ただ欲しがっただけと知ってしまえば、もう無謀な真似なぞ怖くて出来ない。
それで身を持ち崩すほどに溺れるのも怖かった。だから小市民的に程よく腐っていった……冒険者を辞めなかったのは、小僧の時分から職人や商人に農民なぞを職業にしている同年代には勝てないってだけである。
そりゃそんな半端者が刹那的な冒険者の中にあっては腐りもする。
「……あなた?」
そう訝しげに声を掛けてきた妻に「なんでも無い」と返し、物思いを打ち切った。
サクラはだ。あの村で綺麗で上品な鄙にも稀な美少女だった。
その実、英雄になぞ成れない事を自覚していた俺が、都で一旗揚げようと粋がっても限度がある半端者の心の拠り所だった。
せめて村一番の器量好しを手に入れれば、やっすい矜持が満たされた……だって近付こうとも仲良くなろうともしなかったから、内面なんて知る筈もない。彼女が俺をどう見てるなんて判ろう筈もない。
それでも俺には手に入れる道はあった。村人で同年の子供は多くもなかった……色々な影響で前後数年だけ子供が疎らだったのだ。
だからキチンと筋を通して、薬師なサクラの父親に話を通せば婚約も容易だったろう。後の貴族の第二婦人の話がどうなったかまではともかく、交流自体は容易だったのだ。
そう何度も忠告してくれたが、俺は都会の喧噪に身を任せるのが楽しくて、彼女を自分の物と断定する根拠もなしに所有物と思い込んでいた。
貴族というには微妙だが、当人も士分を得ている薬師の御息女に対して、なんで上から目線が出来たのやら。
いや俺は多分だが彼女にご近所さん以上の気持ちがないことを承知していた。好かれても疎んじられてもいない。ただの顔見知り以上でも以下でもない。
あの美しい少女に側に寄って嫌われるのは耐え難かった……どう思われているかは判らないが、気持ちが皆無なのは見て取れた。
挨拶程度の交流しかなかったのだから当然ではある。
だからこそ夢想で俺の物と思うことで矜持を保っていた……今なら判るというやつだ。だって行動しなければ嫌がられることもない。
彼女が普通に適齢期で嫁いでいたら、拗らせることもなく「残念」と思って終わっていた。だが士分を得ているとはいえ村娘としては珍しく、20才になっても浮いた噂一つない……単に父子家庭の上に晩婚で、遅く生まれた娘が父親の面倒を見ていただけだ。
その理由に俺なぞ欠片もなかった。忌避すらされていない、即ち眼中に無かった。
夢想で満足していた俺はしかし、都合良く俺を待っていてくれていると思ってしまった。
良いも悪いもないし、本来は害になることですらなかったろう。見知らぬ所で誰かの嫁になったとして、前述の通りの反応で終われた筈だ……ただあの時期の俺は驕り高ぶっていた。
冒険者として適当に評価されて、故郷の村娘なぞ自由に出来る、なぞと。あの時期を過ぎていれば、その評価が駆け出しや若手だからこそと自覚も出来たろうに。
いや内心では判っていたからこそ虚勢を張っていたのかもしれない。もう自分でも判らないし、思い出す事すら出来ない。
事実は兄の言う通り、駆け出しの冒険者如きが、だ。貴族に見初められた娘に対してけしからぬ振る舞いをした、その瞬間に極刑物である。
そのゴタゴタを収める才覚すら無い。ギルドも仲間も、そんな馬鹿な事をした俺を見放して突き出すのがオチである。
これが貴族の横暴に引き裂かれかけた恋人達だとでも言うのなら、協力者もいたかも知れない。だがあくまで俺の駄々で一緒に罪人になるような盲目的な付き合いでもない。
今思えば兄に感謝はしている。
身の程を知れたからこそ、十中八九の野垂れ死にを免れて今がある。
ただ理詰めで止められたのなら、都合の良い夢想に流れての冒険者家業なぞ終わらせて、何処かで堅実なそれを過ごしていたろう。どこぞで一兵卒として暮らしているくらいが精々だろうが。
夢から覚めても、矜持が砕けて新しい世界に飛び込む勇気も一緒に砕けてしまった。そこから十年近くは冒険者を続けてしまっていたのだから。
ただ身の程を知って、死に怯え燻っていたがグズグズと夢の残滓にしがみついていた。
だが身体の衰えを自覚したあたりで冒険者を漸く辞める事が出来た。残滓はあっても希望も何も無くなっていたのだから、衰えを感じ手までしがみつくことも出来なかった。
その結果多少気心に知れた妻を身請けして故郷から遠くで小商いの店主として暮らすのと、無謀な冒険者として太く短い生涯で終わったのとどちらが幸せか。
……精々田舎の村長で終わるはずと馬鹿にしていた兄が瞬く間に功なり上げ、貴族にまで出世した今を思うと湧き上がる物が無くもない。
妻の温かい食事を待ちながら、再び物思いに耽る。
どうあれだ、かつての夢想に近い兄を羨む心が無くなる訳でもない。
だが飯も食えて妻もいるように生きていけるだけ幸福と噛みしめる。
……そう何度も自分自身に言い聞かせるように口中で唱え続けた。
暇な時の日課をただひたすらと。