最初の一歩
「もう、目を開けても良いです」
そう言われると、靑詞は恐る恐る目を開いた。
眩しい太陽から隠れるように手で目を覆いながら辺りを見回してみる。
「ここが、仮想世界か」
一度は行った事があるとはいえ、自分で望んで入ったのはこれが初めてだ。
靑詞は物珍しそうに周りをキョロキョロと見回し、すぐに違和感に気がついた。
「なんか、狭くないか……?」
ぐるりと見回してもこの世界の果ては簡単に目に入る。視界の中には住宅が4軒と、滑り台とジャングルジム、ブランコだけがある小さな公園。少し離れて何か平家の建物があるだけだった。
それより先は何も存在していないかのように電子的な格子の壁が広がっているだけだった。
以前に靑詞が入った仮想空間はもう少し建物があり、広さもしっかりとあった。
今いる場所は靑詞の住んでいる町ほどもないだろう。走ればあっという間に果てまでいけそうなくらいだった。
「ここは、まだできたばかりの仮想世界だから、大きさはない。………危険も、そこまでないと思います」
「ああ。できたばかりとはいえ流石に狭すぎるからな。テラーの力がそこまで大きくないんだろ。ホロンも力がないと思うし、比較的安全だぜ」
壊しにきた仮想世界としては初めてで、緊張も解けないが、一応のその言葉で靑詞は肩を下ろした。
「じゃあまずはこの世界の核を探す……んだったな?」
「ええ。幸い探す場所も多くはないし、一つ一つ見るのが正解」
頷いた靑詞は先ほどから見えていた平家の建物に近づいていくと、見覚えがある建物ということに気がついた。
尤も、知っている建物というよりは、この建物だったらあれしかないだろう、程度のものではあるのだが。
「保育園、か?」
雲の形の大きな窓に、カラフルな風船のペイント。門さえも色取り取りで、現実にある保育園の建物にしか見えなかった。
「ってことは保育園の関係者の世界ってことか?」
「………とりあえず、もう少し近づいて確認してみようぜ」
回答を断定せずに雲瀬が言う。そして近づかなくてもわかるけどな、と内心でツッコミを入れながら靑詞が歩いていくと、アイビスが急に靑詞の腕を掴んだ。
「おっと………」
急にブレーキがかかってつんのめった靑詞が振り返るよりも早く、アイビスは近くの住宅の陰に靑詞を引き込んだ。
「なん……っ」
問いただす前に、靑詞の耳には第三者の声が聞こえてきて、慌てて口をつぐんだ。
先に様子を確認しているアイビスに倣って隠れながら顔を出すと、隠れた住宅から女性と、小さな男の子が出てくるところだった。
テラーか、ホロンか、仮想人類か。いずれにしても見つかっては面倒だと靑詞は息を殺しながら少しだけ緊張した手を強く握りしめた。
「今日はいい天気だね!」
元気にそう言った少年は、母と手を繋ぎながら歩いていく。
やはりというべきか、目的地は保育園のような建物のようだ。
見えなくなるまではじっとしてようかと息をひそめていた三人の後ろから、強い風が吹いた。その風は少年たちのところへ向かい、母の被っていた帽子を吹き飛ばしてしまった。
帽子は空高く舞い上がり、保育園の隣に一本だけ生えていた大きな木に引っかかる。
「あら……どうしましょう」
「ママ大丈夫!僕がとりに行くよ!」
「ちょっと、陽斗」
引き止められるのを無視して、少年は手を払って木に駆け寄り登り始めた。
その姿を見つめながら靑詞は心配そうにアイビスに視線を向けた。
「でも、あれ取れたとして子供が降りられるか?」
思わず助けに行こうと一歩踏み出した靑詞の腕を、再度アイビスが捕まえて止める。
「待って。もう少し様子を見よう」
「………え、だって」
「ここは仮想世界。落ちたところで誰かが死ぬわけではない」
そうは言われても目の前に見えるのはどう考えても子供で、おぼつかない木登りをハラハラとしながら靑詞は見届けていた。
こういうさりげない言葉の端々から、アイビスが人間ではないのだと改めて思い知らされてしまう。
もたもたとしながら登り切った少年は、帽子をしっかりと抱きとめ、案の定下を見てピタッと動きが止まった。
表情も固まっており、靑詞の心配通り降りられなくなったのだろう。
今度こそ助けては、と靑詞がアイビスに視線を向けるが、彼女は静かに首を振った。
「………でも、どうすんだよ。このまま見てても」
何も変わらない、と靑詞がいい加減苛立った声を上げると、ついには少年は涙を流し始めてしまう。
「大変……どうしましょうっ」
女性だったら登るのも難しいか、と靑詞が考えているうちに、少年はさらに泣き叫んでしまう。
そして大きく息を吸い込んだ。
「助けてパパっ!」
降りられなくなった少年が涙を流しながらそう叫ぶと、突如空から輝かしい光と共に人一人通れそうな大きなリングが浮かんできた。
何が起ころうとしているのか眉を顰めながら確認した靑詞の視界の先で、リングは少年に近づいていく。
そして、少年が降りられなくなった木の上まで来ると、そのリングの中から中年の優しげな笑みを浮かべた男性が現れた。
「パパっ」
「陽斗、怖かったのによく頑張ったね」
そう言って父親は陽斗を抱いて、一気に木の上から飛び降りた。
「ああ、あなた………ありがとう」
「ふふ、礼なら陽斗にだよ」
そういうと父は優しく陽斗を地面に下ろす。
陽斗は抱えていた母の帽子を恥ずかしそうに差し出した。
取ってあげると意気込んだ手前、降りられなくなってしまったことが恥ずかしかったのだろう。
だが、母は陽斗をそっと抱きしめて頭を撫でた。
「陽斗、あなたは本当に優しくて勇敢ね……ありがとう」
大好きな母にそう言われ、陽斗は満足げに頷き、父もまたそんな陽斗を見て微笑んでいた。
「このままだと保育園に遅れてしまうぞ?」
「あら、いけない……陽斗、行きましょう」
そう言われて陽斗は一気に不満げに顔を曇らせてしまう。
眺めていた靑詞達にその意図はわからなかったが、父がその疑問を晴らすように優しく陽斗の頭を撫でた。
「パパはいけないから……ママと一緒に行くんだ」
「でも……」
しばらく沈黙が響き、陽斗は渋々といった表情で頷いた。
それを確認した父は一歩彼らから離れ、そっと浮かび上がる。
現れた時と同じリングに潜ると、その姿は忽然と消えてしまった。
「………仮想人類って、あんなことができるのか?」
靑詞が確認するも、アイビスと雲瀬はわからないとばかりに静かに首を振るだけ。
「じゃあ、なんで……?」
靑詞の不安そうな声に返すものもいなく、陽斗と母は何事もなかったかのように保育園に向かうのだった。
陽斗たちの姿が遠くなってから、靑詞たちは後を追うようにとりあえずと保育園に向かっていた。
その道中で、靑詞はたくさん浮かび上がっていた疑問を二人にぶつける。
「仮想人類だからと言って、ああいう特殊な力が使えるわけじゃないんだよな?」
「うーん……難しいな」
「難しい?」
できるかできないか、その二択ではないのだろうか。靑詞が怪訝そうに声を出すと雲瀬が一度咳払いをした。
「まず仮想人類が特殊な力を使えるかどうかだが……使える時もある、だな」
「………また曖昧だな」
「そうとしか言えないんだ。仮想人類は、テラーが作り出している。そのテラーが魔法使いを作ろうと思えばそんな仮想人類を作れるし、普通の現実世界にいるような人間を作ろうとすれば普通の人間と変わらない存在になるんだ」
それを聞いて靑詞は理解しつつ雲瀬の表現が気になって首を傾げた。
「じゃあ、あの仮想人類はそういう風に作られたってことだろ。何が難しいんだ?」
「ふむ……」
雲瀬はしばらく黙り込んであたりを見回した。
入った時と何も変わらない光景を見て、雲瀬は少し声を顰めた。
「あくまで想像だけど……こういう普通の街並みで、あいつだけそんな超人として作るかと言われれば疑問が残るんだ」
今は何も断定はできない、と申し訳なさそうに呟かれると靑詞としても頷くしかできなかった。
「じゃあ、ホロンとやらの可能性は?」
「いいえ。あれはホロンではありません」
次の可能性はアイビスがキッパリと否定した。
「ホロンはあんなに流暢に言葉を話せません。あれは、仮想人類かと言われれば難しいところです……少なくともホロンではありません」
「………ん?」
靑詞は引っかかったように足を止めた。
「仮想人類じゃないとして……ホロンでもないんだったらテラーしか有り得ないってことか?」
「いいや、テラーも俺たちが見ればわかるはずだからそれは違うぜ」
「じゃあ、一体何がいるっていうんだよ」
最初に聞いていた話と全然違うじゃないか、と靑詞がため息混じりに愚痴ると、雲瀬が何か思い当たる節があるかのように唸る。
「まだ何とも言えないな……さっきも言ったけどこの仮想世界は現実世界に酷似しているから、特殊能力を持っているとは思えないんだよな。もちろんその可能性もあるんだけど」
結局何もわからないか、と靑詞は諦めたように首を振って、その他の情報に手を伸ばした。
「あの母親と子供は仮想人類か?二人とも父親のように飛んだり超人的なことはしてなかったし……少なくとも俺には一般人に見えたぞ」
「そうだな。そこは間違いないと思うぞ」
ほんの少しの前進だが何もわからないよりは良い。靑詞は小さい一歩を踏み出せて少しだけ安心していた。
だが一歩進めば新たな課題が見えてくるもの。雲瀬が靑詞の少しリラックスした表情を見て諭すようにもう一つの疑問を投げかけた。
「あと気を配るべき存在は核だな」
「ああ、そっちもあったか」
靑詞は課題が山積みだと難しそうに眉間に皺を寄せる。
「核はこの世界の命みたいなものだよな……どんなものなんだ?」
森羅万象が対象であればあまりにも途方がなさすぎる。この世界はまだ大きさはないが、もし木の葉っぱ一枚だとかであれば手詰まりになってしまう。そう思ってヒントを求めた靑詞だったが、残念ながら情報は絞り込まれなかった。
「核は何でもありえます。人かモノか……それは決まっていません」
アイビスの言葉に靑詞は思わず天を仰いでしまった。今まで見たものの中では、少なくともあの家族三人、そしてその三人の着ている服や帽子、近くにあった木までありとあらゆるものが候補だと言うことだ。
もちろんこの世界の基になっているものだから縁もゆかりもないものではないのだが、それは靑詞には見てわからない。
もしあの帽子が飛んでいった木が家族の誰かの思い出で、それが核になっているという可能性すらある。
そうなれば本当に何の情報もないことが辛すぎる。
「ただ、ある場所はある程度予想は可能です。テラーにとっても核が壊れるのは避けなければならないので……恐らく安全な場所やテラーの近くに配置されていることが多いですから」
「………なるほど?」
靑詞は腕を組みながらしっかりと言葉を理解して頷いた。
「あの三人はテラーじゃなかったんだよな?………だったら、今見た三人のその周りに核はないってこと、か?」
それだったらまだ情報はある、と靑詞は期待するのだが、雲瀬が簡単に否定した。
「今見たろ?あの父親は人間らしくない身体能力がある。あの父親が護れるからあの母親と息子が核ということもある」
そうか、と靑詞はまたしても眉間の皺を深くしてしまう。
「それに、あの強さだ……あの父親自体が核の可能性もあるぞ。見た感じあの子供は父親のことを大切そうに見ていたしな」
靑詞はそれを聞いて思わず舌打ちしたくなってしまう。
もしあの父親が核であれば壊すことすら躊躇ってしまうのに、抵抗されれば靑詞では何もできないだろう。
八方塞がりになってしまいそうで、これ以上考えるのが辛そうな靑詞を見て、アイビスは静かに肩を叩いた。
「………とりあえず、あの子供達に注意するべき」
「ああ。アイビスの言う通りだな」
二人にそう言われ、靑詞も悩んでばかりはいられないか、と頷いて再び保育園に向かった。
門の前で、陽斗は母親から手を離し、何かを受け取っていた。その様子を見ていた雲瀬がまずいな、と声を漏らす。
「あのまま保育園に入られたら接触が難しくなってしまうぞ」
「確かに……どうする?」
焦ったように靑詞は聞くが頼みの綱の雲瀬も唸るだけ。このまま待っていても仕方ないと靑詞は雲瀬を手に取った。
「とりあえず話しかけてみないか?」
「………うーん、危険とは言えないが」
「だったら待っててどうするんだよ。時間をかけても仕方ないだろ?」
こうしている間にもメイザスが来てしまうかもしれないという焦りもあったのかもしれない。
靑詞は勇み足かもしれないと理解しながらも動くことを提案した。すると、雲瀬も難しそうながらも賛成してくれる。
「だったら、早速」
そう言って一歩踏み出した靑詞だったが手に持った雲瀬とアイビスを振り返って止まった。
「………お前らのその感じで、違和感持たれないのか?」
雲瀬はまだ黙っていればただの本だからいいが、アイビスはあまりに違和感の塊だった。一般の日本人女性としてあり得ない服装だから警戒されてしまうかもしれない。そう思い当たった靑詞が聞いてみると、雲瀬は静かに靑詞の手から離れた。
「確かにな……服装については対処する手段はあるんだが……今は時間がないから、靑詞。一人で行って来い」
「………仕方ないか」
不安ではあるがアイビスを連れて行くことのほうが不安は大きくなりそうだと判断して靑詞は一人で離れていった。