そんな飲んでないけど………?
これは、始まりではない。
たった一人の男が、自分の人生に希望を失った。ただそれだけの事だ。
つまりは終わりの始まり、などという格好の良い話でもなく、ただただ終わっただけなのだ。
少なくとも彼は今の自分の状況をそう捉えていた。
終わっていなければ、土曜日の夜に恋人もおらず暗い部屋で一人酒を飲みながらYo○Tubeを見漁ることなどしないはずだ、と。
とは言っても、こんな終わる前はまだ一般的な幸せは手にしていたはずだった。
二年以上も付き合っていた恋人もいたのだが、その彼女に浮気され、追及したところ謝るどころか開き直って別れを切り出されたのだ。
浮気相手は誰もが知っているような大企業の社員で、貴方よりも話も面白いし収入もある良い男だとまで言われてしまった。
結婚を考えるならば貴方に魅力は感じないし、彼なら私を幸せにしてくれるはずだと馬鹿にしたように笑ってくる彼女に、彼が返す言葉はなかった。
それから彼の人生は色が失ったように移ろい、低収入、浮気などを
嫌悪するようになっていった。
見ている動画もバラエティ色の強いものより、スカッとする動画だとか人を貶めるようなエピソードのものが多くなっていき、彼はそんな自分も嫌いだった。
たくさんのカップルや友人に囲まれた人間は土曜の夜に今の自分のような行為はしていないはずだと考えると言葉では言い表せないような不快感と不安が襲ってくるばかり。
暗い部屋でP Cのブルーライトに照らされた彼の表情はただただ無の感情が張り付いているだけだった。
『美濃宮さん、スーパーチャットありがとうございます。なになに?親の選んだ大学に行くのか自分のやりたい道に進むのか迷っています。どうしたら良いですか、ねぇ』
生放送をしている男は斜め前から自分を映しており、コメントを読むと軽く馬鹿にしたような薄ら笑いを浮かべた。
『よくある悩みですけど。別にどちらも正解だと思いますよ。正直にって親の勧める道に行ったほうがいいんじゃないですか?少なくともこうやって僕だったり他人に意見を聞かないと前に進めないようなレベルなのであれば、情熱なんてそれくらいでしょう。成功するとは思えないです、ええ』
彼は軽く笑いながらバッサリと悩みを切り捨てた。もともと書き込みが荒れることが多い配信者ではあったが、今日のはいつにも増して切れ味が鋭かった。
『そもそも聞く前に突き進むくらいの情熱を持っているから人は成功すると思うんですよ。人にお金を払ってまでこれを聞くってことは、背中を押してほしいとかでしょう。大丈夫、貴方なら成功するから自分の道に進め、とかね。甘いですよ正直。人に左右されずに自分で決めないと社会じゃ通用しないんでね』
最後までコメントの求めるような返答を出さないまま、彼はまた次の質問に答えはじめた。
彼はそれを見てふ、と鼻を鳴らす。
それは、一瞬、ほんの一瞬だけ自分もコメントをしてみようかと考えた自分に呆れたからだった。
彼女に浮気され、自分のプライドも何もかも崩れ去った、どうやったら復讐できるか、なんて聞いてみようと思ったのだが、今の数十秒で返答は簡単に想像できてしまったのだ。
きっと、「問題なのは浮気された魅力のない貴方なんじゃないですか?冷静に見て面白くてお金もあるのなら彼女さんの選択は間違ってないと思いますけど」なんて言われてしまうのだろう。
実際に聞いてもそう言われたわけでもないのに、彼の心に不快感と羞恥心が深く刻み込まれてしまった。
ベコ、と飲んでいたビール缶を握りしめると彼は歯を強く食いしばる。
金を払ってまで辛い身の上を話して、それを笑われる未来を自分から選ぶなんて、重度のマゾヒストかただの馬鹿だろう。
いや、でも。
笑われても仕方ないのは自分だろうとも思ってしまう。
低収入で面白いトークもできない。浮気男のように他に誇れるような地位も肩書きもない。
4ヶ月もの間浮気に気がつくこともできず、最終的には振られてしまう。
こんな情けない男は捨てられても仕方がないのだろう。
彼は自分の中で堂々巡りになっていくネガティブな感情から逃げるように凹んだビール缶を一気に煽った。
「はぁ、良い加減寝るとするか」
現実から逃げるように、自分に言い聞かせるようにそう呟く。
パソコンを閉じかけたのだが、そんな彼を引き止めるのは一つのサムネイルだった。
「また、この人……人って言って良いのか?」
半分馬鹿にしたような言葉。
彼の視線の先では胸から上だけが動いているイラストがあり、小気味よくトークを繰り広げていた。
『そうなんだよ〜私はほら、魔法使いだからさ、危ない!って思ったんだけど魔法使いってバレたら困るから魔法は使えなかったの!だから階段でそのまま転んじゃってさ』
それは、最近人気のVirtualYo○Tuber、Vtuberと呼ばれる存在であった。
『左腕が折れちゃったからちょっと配信がスケジュール通りに行かなくて……あ、もちこんさんスーパーチャットありがと〜っ‼︎お見舞い代だって!一万円もありがとっ!』
可愛く揺れるイラストの隣ではコメントが滝のように流れており、ところどころカラフルな枠が流れ、その度にその女の子はお礼を言っていた。
一万円、600円、5万円。現実味のない数字が流れていくのを、彼は冷めた目で見つめていた。
「なんでこんな適当に雑談してるだけで金がどんどん入ってくんだよ…」
あっという間に金額は彼の月収を超えていった。
「10000人も見てんの……?Vtuberって、そんなに人気なんだ」
なんだか自分の人生が馬鹿馬鹿しくなってきて、彼は今度こそ画面を閉じた。
こういう時は気分転換に何か読み物でも、といつものWeb小説のサイトに目を通すのだが、残念ながらお気に入りの小説は更新されていなかった。
たったそれだけの事なのに全てから見放された気分になってきて、彼は苛立ったように乱暴なため息を吐いた。
「俺がこんなことしてる間に喋ってるだけでお金もらったり浮気したりしてる奴らがいるんだろうな……」
なんだか自分が何もできていないのでは、と不安になってきた頃、彼の脳にまでアルコールが回ったのか、ふらふらと意識が遠くなっていく感覚があった。
「………そんな飲んでないけど………?」
それから先は言葉にならず。
彼は、抗えない何かに負けるようにふと意識を失った。
「………ん………?」
次に彼が目を覚ますと、そこは草むらだった。
彼の住んでいるのは一応都会であり、草むらなんて馴染みのないものがあることにまず驚く。
そしていくら酔っていたからといって外にまで出たのか?と現実味のない現実を見ていた。
「ここ、どこだよ」
返ってくる言葉があるはずもなく、彼の言葉は高い青空に吸い込まれていく。
寝ぼけた頭を振り回すと、半分は同じような草原であったが、少し先に建物が見えた。
「………え、はぁ……?」
それは、見覚えのある建物。
だが、こんなところにあるはずのないものであった。
「め、名駅……⁉︎」
名古屋駅と書かれた建物は見間違うはずもなく、彼の住んでいる近くにある駅のものであった。
だが、名古屋駅はもっと周りに建物がある都会の中心にあるはず。少なくともこんな草原の中にぽつんとあるものではない。
さらに言えば電車が走る線路もなければ、交通量の多いいつもの大通りも無い。
「なんで、って………はぁっ⁉︎」
彼は思わず出してしまった大声を隠すように両手で口を塞いだ。
その駅から出てきた存在のせいだ。
それが何かは知っているが、名古屋駅以上に見えるはずのないものであった。
「ご、ゴブリン、とスライム……!」
そう、それらは彼の普段遊んでいるゲームに出てくるモンスターと呼ばれるもので、ゲームの中ではすぐ殺されるような雑魚だった。
だが、ゲームの世界ならまだしも自分の目で直接見てしまうと驚きと、確かな恐怖が存在した。
「は、はは……夢かよ」
半ば願望のように言いながら、彼は更なる違和感に気が付く。
それは、彼ら(と呼んで良いのか?)の隣に、普通にサラリーマンや学生がいたのだ。
しかも彼らはモンスターがいて当然だとばかりに目もくれていない。
夢とは言えモンスターから隠れながら彼は名古屋駅に近づいてみた。
歩いてすぐに有名なオブジェが見えて、やっぱり名古屋駅で間違いないな、と彼は頷く。
夢とは言え細かいな、なんてあちこちを見回していると、ふとガラスに目が奪われる。
「え……夢、だよな」
また確認するように言いながら彼は軽く右手を上げる。
ガラスの中の人間も手を上げた。
なんとなくお辞儀をしてみる。
ガラスの中の人間も全く同じタイミングでお辞儀をした。
「あ、靑詞……?」
それは自分であって自分ではない。
彼が普段やっているゲームの存在で、もう一人の自分の名前だ。
何時間もかけてこだわってエディットしたアバターであり、それがガラスの中で自分と同じ動きをしていることが信じられなかった。
夢だということはこのような不思議な現象はあっても良いとは思うのだが、あまりにリアリティがある世界でリアリティの無い出来事が続いて、彼の頭の中は混乱していた。
なんとなく頬をつねってみるという定番の行動をしてみるが、残念ながらちゃんと痛かった。
そして、ガラスの中で頬を引っ張っている靑詞の顔を見ながら、ぼんやりと頭によぎることがあった。
それは、彼が楽しみにしていたWeb小説のテンプレ、異世界転生だった。
まるで自分の置かれた状況がそのテンプレそのものであり、どうせ夢ならばと彼は小走りで駅から離れていった。
「え、っと確か………ステータスオープンっ」
少し恥ずかしそうに真似をしてみるが、その声はまたしても空に吸い込まれることとなり、彼はなんて、と小声で言い訳をしながら頬を掻いた。
「まぁ、何も起きるとは思ってないけどさ」
夢ならそれくらい思い通りに、と考えていると彼の立っていた駅の陰にスーツ姿の女性がやってきた。
今の姿を見られていたら恥ずかしい、と誤魔化すために彼は笑いながら女性に目を向ける。
「ちょっとゲームしてて……すみません、声びっくりしました?」
だが、女性は何も言わないどころか、その声、彼の姿すら見えていない様子であった。
なんのリアクションもなくただスルーしていく姿に、彼は首をかしげる。
彼女が歩く先は草原であり、その向こうにも何も見えない。
彼女は、他の人間も一体何をしているというのだろうか。
少なくとも、彼の常識の中では彼らの行動に理由を求めることはできなかった。
「………なんなんだよ……っ!」
彼がそう呟くとまたすぐに後ろから足音が聞こえてくる。
今度はゴブリン達で、彼は慌てて物陰に隠れて息を潜めた。
ゴブリン達は隊列を組み、機械のように規則正しく歩いて行き、何もない草むらの真ん中で立ち止まった。
一斉に手を前に出すと、その緑色の掌から光を放ち始める。
「な、なんだ……⁉︎」
彼の視線の先で、光は強くなっていく。
そして、光は草むらの中に照射され、地面からゆっくりと光が上に上がっていく。
その光の中からゆっくりと無機質な灰色の存在が現れ、光と共にその姿をはっきりとさせていく。
「ビル……なのか?」
彼の言葉通り、それはビルだった。
光の中から急にビルが現れ、下から作り上げられていったのだ。
いや、作り上げられるというよりは急に浮かび上がったとでもいう方が正しいのかもしれない。
1分ほどで名古屋駅にも負けないほどの巨大なビルが作り上げられると、ゴブリン達はまた列を組んで慌ただしそうに去っていく。
「マジで、意味が全くわからんぞ」
ゴブリンなんて、村を襲ったりするだけで知恵もないはずだ。
少なくともこのようにビルを作り上げているような姿は見たことがなかった。
目を白黒させている彼と違って、周りにいる人間はその光景にまた興味もないのか目を向けることすらなかった。
全く意味がわからないが彼はとりあえずゴブリンから離れていく。
駅の近くの草むらに、スライムが一匹ウロウロしているのが見えて、彼は小さく頷いた。
「やってみるか……」
自分の置かれた状況を理解するために彼は足音を消してスライムに近づく。
そして、反応のないスライムを思い切り蹴り飛ばしてみた。
特に抵抗もなく、攻撃もないスライムはそのまま蹴り飛ばされて蠢いていたので、もう一度走って近寄り、もう少し強く蹴り飛ばしてみる。
するとスライムは力尽きたのかキラキラと輝きを放って消えていった。
だが、特に何かアイテムが出てくることもないし、経験値が入ったりすることもない。
彼はただ消えていったスライムを見て首をかしげるのみだった。
「マジで、どんな夢だよ……」
良い加減目を覚ませ、と自分に言いながらその不安をぶつけるように何匹かスライムを蹴り飛ばしていくものの、何も彼の周りの現実は変わらなかった。
さらには夢中になっている彼の近くに他のゴブリンの列が近づき一瞬焦るのだが、彼に目を向けるものの何のリアクションもなかった。