第5章 第29話 カタルシス
「前にカタルシスがどうとか言っていましたね」
ほんの一度。一秒にも満たない一瞬、瞬きをした。
「ですが創作学Ⅳを修めた唯一の天使見習いとしては、まだまだだと言わざるを得ません」
いいや、瞬きなんてしていなかったのかもしれない。
「いいですか? カタルシスとは逆境が濃ければ濃いほど輝くものなのです」
わからない。少なくともただの人間の俺には見えなかったから。
「たとえば最強の味方が卑劣な手段で追い詰められ、苦しみ、そして圧倒的な実力を見せて瞬殺してようやく得られるものなんですよ」
俺にわかったことはただ一つ。
「つまり、こういうことです」
「ぎゃぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁっ!」
気づけばハロウの両腕両脚は霧散したかのように消え失せ、何もできないまま転がっていた。
「あぐっ、ひ、ぁ、ああああああああああっ!」
「さっきはずいぶんと楽しそうだったじゃないですか。もっと楽しんでくださいよ」
血溜まりを作りながら転がり悶えるハロウ。天使の血も赤いんだ、なんて呑気なことを考えてしまうほど、それは凄惨な光景だった。
「うるさいですねぇ。人間の主水さんですら耐えられてるんですよ? 天使なら我慢してくださいよ」
「んんんんんんんん」
どこかから出現させた両手の剣の片割れを、ハロウの口の中にねじ込むリル。その剣先はハロウの口の中から瞼の下を貫き、ただただ痛みだけを増幅させている。
「あぁ、これ一度やってみたかったんですよ! 主水さんっ、写真写真っ!」
「いやあのリルさん……? そこまでしなくても……少なくとも顔は治してあげてもいいんじゃないですかね……?」
「まったくリルさんは優しいですねぇ。主水さんに感謝してくださいよ?」
いや優しいっていうか……ただ単純にビビってるだけなんだけど……。
「なんで……なんでなんでなんで……!」
剣を抜いてもらい顔の傷も治してもらったハロウは、うわ言のように疑問を繰り返す。ハロウもわかっていないのだろう。なぜ弱っていたはずのリルが。こうも容易く次席であるハロウを倒せたのかを。
「そう複雑な話でもありません。主水さん、言いましたよね。神無さんさえ抑えてくれていれば億%勝てるって。つまり普段の1000分の1ほどしか力が残っていない今でも、余裕のよっちゃんで勝てちゃうんです。私、本当の本当に優秀なんですから」
無理した笑顔を作りながらも元気にピースを作るリル。なんかもうここまでくるとハロウの方がかわいそうだ。
「さて。このクソザコをどうしたものでしょうか」
「ひぃっ。殺さないで……。お願いします! 殺さないでくださいぃ……!」
「それはあなたの態度次第でしょう? 何をするべきかわかりますよね?」
俺に見せていた笑顔とは対照的なゴミを見るような視線を向けられ、ハロウはプライドの欠片もない命乞いを見せる。その直後俺の腕が病院服ごと蘇ってきた。
「主水さん、大丈夫ですか?」
「ああ! 痛みもない! だからハロウも……」
「んー……。まぁいいでしょう。はい、主水さんにごめんなさいしてくださいね」
リルがハロウに手をかざすと、またもや一瞬で手足が生えてきた。しかし地味な嫌がらせのつもりなのか、衣服は消し飛んだまま。ノースリーブと素足のハロウが安心したように深く息をする。
「主水さん、珍しく完勝ですね――」
「わたくしを、見下ろすなぁっ!」
リルがハロウに背を向けた瞬間。声が轟いたかと思えば、
「頭が高ぇですわ、です」
俺の視界には。床に上半身がめり込み、がに股になった脚をピクピクと痙攣させるハロウの姿が飛び込んできた。スカートが重力に従い捲れ、黒い下着が晒されている。
腕を落としたことも、地面に埋めたことも完璧な意趣返し。改めてリルの怒りの深さを推し量ることができた。
「あ、ごめんなさい聞くの忘れてました。オイ。返事をしてくださいよ。失礼な奴ですね……」
完全に落ちてしまっていることは明白なのに、ハロウの白い脚をぺちぺちと叩いて反応を見るリル。だがやはり見せるのは痙攣だけで、返事が返ってくることはなかった。
「まぁいいでしょう。後は神無さんを殺して終わりです」
「ひっ……」
あの力の化身に矛先を向けられ、俺の足元で静かにしていた天平が小さく悲鳴を上げる。
「申し訳ありませんが私が神無さんを殺すことはできません。主水さんが……」
「わかってる。これは俺がやらなきゃいけないことだ」
こちらに歩いてきたリルの隣に並び、天平を正面から捉える。
「い……いいんですか……? 殺すんですよ、あなたが。それであなたは元の……」
いい命乞いだ。俺の良心に訴えかける、とても効果的な命乞い。だがそれをするには、遅すぎる。
「もし今回で生き返れなかった場合、リルはまた命を狙われることになる。だからお前を殺す。理由は一つ。お前よりリルの命の方が大切だからだ」
人を殺すというのに、不思議と迷いはない。きっと俺は作業のように淡々と殺せるだろう。どっちにしろ天平は、俺が死なない限り生き返れない。だったらもっと早くこうしておくべきだったんだ。もっと早く天平を殺しておけば、リルを苦しめることはなかった。
「……ふ。あはは……!」
恐怖でおかしくなってしまったからか、天平は笑い声を上げる。狂ったような、瞳で。
「かんな、考えたんですよ。悔しいけど、あなたの言う通り。身体が動かなくてもあなたを殺す方法を」
あぁそういえばそんなこと言ったな。だがそんなことは……。
「教えましょう。かんなとあなたの過去を」
それはつまり。俺が知らない、天平の死因。
「きっとこれを聞いたら、あなたは自分が死ぬべきだと思うはずです――」




