月並みな子供たち -桜井音羽の場合-【参】
夜、子供たちが寝静まった後。
襟草は展望デッキの上に寝転がって、星空を眺めていた。
現状を整理する。
たまたま自分が「生き返る」人間だったから良かったものの、もし自分が「普通の」人間だったら。
果たしてどんな結末になっていただろうか?
船内には餓死した十人の子供たちと、一人の青年の死体。
青年の死体は、子供たちよりも早い段階で死んでおり、死因は出血死。
凶器と思われるナイフには子供たちの指紋がべったりとついている。
さらには子供たちの首には数字のハンコが押されており、並べ替えると文章が現れる。
【これは神の裁きだ 己の罪を悔いよ】と。
怪事件もいいところだ。
船が発見され次第、日本国内は大混乱。
警察はマスコミの対応に追われ、国内屈指の頭脳を誇る探偵団は、犯人逮捕に向けてすぐさま動き出していたことだろう。
狂気的な犯罪の裏に隠された真実を解き明かす、めくるめくクライムサスペンスが展開されていたに違いない。十人もの子供たちの命と、貶められた尊厳の上で。
おそらくそれが、犯人の狙い。
だとすれば。
「なるほどね」
幸いなことに、死ぬはずだった青年は生きている。
現状を打破することのできる、たった一人の存在として。
「たった一人、かぁ……」
眼前に広がる星空を見て、襟草はつぶやいた。
方法はある。
ここから脱出する手段は、既に思いついていた。
だが、なかなか実行に踏み切る気にはなれなかった。
なんど脳内で考えてみても、一手足りないのだ。
その不確定さが、襟草に待ったをかけている。
「さて、どうするかな……」
通信不能な海の上。資源は限られ、守るべき命は十にも及ぶ。
自分だけならまだしも、彼らと共に確実に生還する妙案は、そう簡単には出てきそうにない。
「ん?」
さざなみの音に混じって、扉が開く音がした。
襟草は展望デッキから顔を出し、甲板を見下ろした。
一人の少女が、甲板の上をよたよたと歩いている。
二つ結びにしたおさげが、肩の上で揺れていた。
桜井音羽だった。
「こんな時間に一人でなにして――」
その時。
ひと際大きな波が、ずずんと船体をゆらした。
音羽の小さな体が宙に浮き、甲板の外へと投げ出される。
咄嗟に危険を察知した襟草は、展望デッキから飛び出し――
間一髪のところで音羽の体をキャッチした。
「……セーフ」
もう少しで、大海原の中に飛び込まなくてはいけないところだった。
夜の海に入るのは、あまり気が進まない。
「怪我、ない?」
「あ、ありがと――」
今の一瞬で何が起こったのか、状況が飲み込めていなかったのだろう。
くりっとした目をぱちくりと瞬かせ、素直に礼を言おうとした音羽は、
「さ、さわらないでっ……」
襟草の顔を認識した瞬間、ぷいっとそっぽを向いた。
短い手足をわたわたと動かして、必死に襟草の腕の中から逃れようとするさまは、見ていて少し面白かった。
「ごめんごめん、今はなすよ」
「別に、謝らなくてもいいけど……」
音羽は歯切れ悪く言うと、その場にちょこんとしゃがみこんだ。
どうやら、逃げ出したりはしないらしい。
襟草は少し距離を置いて、彼女に倣ってしゃがみ、目線を合わせた。
桜井音羽は、子供たちの中では一番の年長だ。
これまでの様子を見てみても、八歳にしては大人びているのが分かる。
襟草は対話を試みた。
「ねえ、音羽ちゃん」
「な、なにかしら」
「もしかして、僕のことさけてる?」
「……さけてるっていうか……良く分かんないっていうか……」
「ふむふむ」
「…………怖いっていうか」
「怖い?」
「……うん、だって」
音羽は細い腕で膝をかかえた。
「あなた、死んでたから」
ああ……やっぱりか。
他の子どもはまだ幼くて、襟草がただ寝ていただけだと認識しているようだけれど。
彼女くらい聡ければ、気付いていてもおかしくはない。
襟草は死んでいた。
死んで、そして、よみがえった。
そんな自然の摂理に反した現象を目の当たりにして、怖くない方がどうかしている。
「あなたはいったい……何者なの?」
「……そうだな」
恐怖の根源は、非理解的な心情にある。
知らない、分からない、理解できない。
だから、怖いのだ。
襟草は問う。
「プラナリアって、知ってる?」
「ぷ、ぷらなり、あ?」
「知らないか。じゃあ、クマムシは?」
音羽は困ったように眉尻を下げた。
「クマさんは、虫じゃないわ」
正しい反応だ。これはもう全面的に僕が悪い。
どうにもこの例えはウケが良くない。
何か他の言い方を考えた方がいいかもしれないな。
襟草がどうしたものかと考えていると、
「……ねえ」
音羽がまた、口を開いた。
「なに?」
「あなたはもう……死なないの?」
「……なるほど」
それは想定していなかった質問だった。
そして――同時に理解した。
彼女が恐れていたのは、襟草の存在に対してではなかった。
死んでからよみがえった、訳の分からない生物に対する恐怖ではなかった。
彼女は。
襟草悟というあやふやな存在が。
また死んでしまうのではないかという、喪失そのものを恐れていたのだ。
桜井音羽の背後に、後光がさしている気がした。
彼女は、この絶望的な状況を突破するためのカギになる。
襟草はそう確信し、音羽の傍に一歩近づいた。
「うん、大丈夫。死なないよ」
「……ほんとに?」
「ほんとだよ」
「ほんとに、ほんと?」
「ほんとにほんと」
言葉を連ねるよりも、行動で示す方が早いだろう。
襟草は「見てて」というと、その場で逆立ちした。
「よ」「ほ」「あらよっと」
ゆらゆらと揺れる甲板の上、襟草は大道芸のように次々とポーズを変えていく。
逆立ち、宙返り、背面飛び。
様々なアクロバティックな動きを見せた後、
「じゃあ、最後は――」
大技を決めようと、助走をつけて甲板を蹴り上げる。
襟草の体は大きく宙を舞い、ふわりと音羽の前に着地する……はずだった。
「あれ」
がくん。
大きな波が船体にぶつかり、横にぶれる。
襟草はバランスを崩し、そのまま派手な音を立てて甲板の上にスッ転んだ。
「い、てて……」
「だ、だいじょうぶ……?」
おそるおそるといった様子で、音羽が襟草の顔を覗き込んだ。
「うん、大丈夫。それより、見てた?」
「みてたって、何が?」
襟草は頭をさすりながら、音羽に微笑みかける。
「僕、すっごく元気だったでしょ?」
「う、うん。まあ、それは……」
「だからね、死なないよ」
「あ……」
論理としては、完全に破綻していた。
だけどこの場に必要なのは、隙のないロジックなんかじゃなくて。
彼女を納得させるための、道理だと思ったから。
「僕はもう死なない。だから、大丈夫だよ」
「……うん」
しばらくして、襟草の言葉をゆっくりと咀嚼すると、
「うん、わかった」
音羽は安心したように笑った。
よかった。なんとか警戒は解けたみたいだ。
「……襟草の体って、素敵ね」
「素敵?」
「うん。だって、死なないんでしょう?」
「まあ、そうだね」
「いいなあ」
襟草は苦笑した。
「普通そこは、怖がるとこじゃないかな」
「怖くないって言えば嘘になるけど……でも、やっぱり素敵よ。だって」
音羽は言う。
「あなたが生き返ってくれなかったら、私たちはこのまま死ぬ運命だったもの」
「……」
その通りだ。
彼女は、現状を正しく理解している。
燃料の積まれていない船。わずかな食糧。子供たちだけの閉鎖空間。
緩やかに死に向かうはずだった箱舟。
けれど、襟草は生き返った。
大人が一人、箱舟の中によみがえった。
音羽はそれを喜び……そして同時に恐れ、逡巡した。
もしまた襟草が死んでしまったら、今度こそ自分たちに未来はないのだから。
死んだ人間がよみがえるなんて、あり得ない。
何かの幻覚かもしれない。何かの拍子にころっと死んでしまうかもしれない。
そう感じたからこそ彼女は、手放しには喜べなかったのだ。
襟草との距離を、測りかねていたのだ。
「ねえ、音羽ちゃん」
「なあに?」
「今から少し、ひどい話をするよ」
「……うん」
「君は気付いていると思うけど……この船にはあまり食料がない」
「うん」
「燃料もない」
「うん」
「もうあまり……時間はない」
襟草の言葉に、音羽は背中をぴんと伸ばし、
「……分かってるわ。だから、あなたに助けて欲しいのよ」
そして真剣な表情で、けれどどこか悲し気に言った。
「だってね、私は何もできないから……。このままじゃダメだって分かってても、何をしたらいいのか、ちっとも何も思いつかないの。だからね、襟草。あなたなら――」
「できるよ」
襟草は言う。
「君たちを救う、たった一つの手段がある」
音羽の表情が、ぱっと華やぎ、
「ほ、ほんと?」
「うん。だけど、そのためには君の助けが必要なんだ」
そして、曇る。
春先の空模様みたいに、ころころと音羽の表情が変わっていく。
無理もない。だけど、彼女に頼るしかなかった。
「私、の……?」
「音羽ちゃんが僕を信じてくれなくちゃいけない。僕を信じて、行動してくれなくちゃいけない」
そっと、両肩に触れる。
華奢で、細くて、ガラス細工みたいに繊細そうだった。
「できるかな」
こんな小さな両肩に託すには、あまりにも重い内容かもしれない。
できることなら、他の子どもたちと同じように、何も知らず、何も気づかず、ただあんのんと過ごしているうちに助かって欲しい。
けれど、彼女はとても聡いから。
そしてきっと、とてもとても芯の強い子供だから。
「……できるわ」
力強い瞳で、頷いた。
「やる、やってみる。襟草、私は……何をすればいいの?」
その日の夜。
僕たちは作戦を実行した。