いちごパフェの約束 -木下カエデの場合-【下】
女がナイフを刺したのを確認し、和合末吉は安堵の息を吐いた。
ようやく終わったか……。
万が一のことを考えて配置された自分だったが、どうやら無駄足に終わったようだ。
そもそも、あの女に選択の余地はなかったのだ。放っておいたとしても、どうせそのうち殺していただろう。
まあ、慎重派でアナログ派な「あの人」らしいといえば、あの人らしい。
それにしても、随分と退屈な任務だった。
もう少し重要な任務につかせてくれてもいいのにと、和合は心の内で不満を垂れた。
この業界に入って十数年。一通り社会の闇には触れてきたはずだ。
『お前はまだ本当の闇を知らない』などと上層部のやつらは言っていたが……帰ったら少し、苦言を呈してみても良いかもしれない。
約十二時間同じ体勢でいた体を思いきり伸ばすと、ぱきぱきと音が鳴った。
腰と首回りの痛みがひどい。おまけに背中も張っている。
やれやれ……また行きつけのマッサージに行かないとな。
「ああ、やっぱりここにいたんですね」
「……っ!!」
突如、背後から声があがり、和合は反射で銃を構えた。
振り向きざまに懐から銃を引き抜き、セーフティを外しつつ距離を取るまで、およそ0コンマ3秒。洗練された動きは、十数年暗部で培われたものだった。
「僕が殺されたことを、誰かが確認しなくちゃいけないと思ったんです。なのに、倉庫の中にはカメラもなく、彼女は連絡を取るための電話番号も伝えられていませんでした。なので――」
目の前で少年の頭がザクロのように弾けた。
空薬莢が渇いた音を立てて地面を転がる。
血に濡れた少年の顔を見て、和合は眉をひそめた。
あの女、殺しそびれたのか?
遠目に見ていたとはいえ、かなりの出血量だったはずだ。生きていたとしても、すぐに動けだせるような傷ではないはずだが……。
まあ、深く考えていても仕方がない。こういう時のために自分がいたのだ。
あとは階下で倒れている女にすべての罪を被せれば――
「――僕たち以外にも、誰かがこの倉庫の中にいると思ったんです。当たりでした」
「ぬぁっ!?」
絶句した。
同時に、ここ十数年間出したことのないような声が飛び出した。
銃の腕には自信がある。これまで「上」の命令を受けて、いくつもの死体を転がしてきた。
さっきの一発は確実に頭頂部を捉えていたはずだ。
なのに、なぜ……?
「目が覚めてからずっと考えていたんです。どうして犯人は、こんな面倒くさい方法を選んだろうって。
だってそうでしょう? ただ僕を殺したいのであれば、わざわざ彼女みたいな素人に手を汚させる必要はないはずです。
つまり、僕と彼女が選ばれたことには、何か明確な理由がある。そう考えて――」
二発、少年の胸に打ち込んだ。
致命的な弾丸が、肺と心臓の両方を貫く。
「――そう考えてみると、意外とあっさり答えは出ました。
僕と彼女が出会ったのは今日が初めてです。そして出会った場所は川岸で、僕たちは落とし物を探していました。
うっそうと生い茂った草木の中には、様々なものが落ちていました。みんな好き勝手に捨てるんですよね、バレないと思って。
使い古された電子レンジとか、錆びて使い物にならなくなった自転車とか、何年前のものかも分からない雑誌の束とか――」
少年が一歩、こちらに近づき。
和合は反射的に一歩、後ろに下がった。
俺は何を恐れているんだ?
こんな丸腰の素人相手に、この俺が気圧されるなんてあってはならない……。
だが、こいつは……っ。
「――何が入ってるのか分からない、ずた袋とか」
気づいている……!
俺たちの目論見に、こいつは完全に気付いているんだっ……!
「あなたは……いえ、もしかしたら、あなたたちかもしれませんね。まあ、どちらでも構いません。
とにかくあなたたちは、川辺に落ちていたずた袋の中身を見つけられたと勘違いした。
中身はおそらく死体でしょう。だから、僕たちの口を封じようと思った」
やるしかない。
どういう原理かは知らないが、こいつには銃弾が効かないらしい。
もしかしたら、服の下に防弾チョッキでも着こんでいるのかもしれない。
だったら――
「ですが、ただ口封じするだけなら、僕たち二人を殺せばいいはずです。だけどあなたたちはそうしなかった。なぜか? 答えは簡単です。あなたたちは――」
武器を変えて殺すまでだ。
「彼女を殺人犯に仕立て上げたかったんだ」
和合は素早く腰からナイフを引き抜くと、最小限の動作で距離を詰めた。
「おそらく彼女が僕を殺したのを確認した後、匿名で通報でもするつもりだったんでしょう。
そして彼女に……っ。……容疑を被せる算段だったんだ。僕の殺しと、ずた袋の中に入っていた死体を殺した、二つの容疑を」
「お……お、まえ……」
「彼女を殺人犯に仕立て上げる偽の証拠も、既にそろえているのでしょう。僕と彼女は実際にあの川辺にいましたからね。目撃証言も作りやすかったはずです。
僕と彼女は被害者Xを殺し、川辺に捨てた。しかしひょんなことから仲たがいをし、僕は彼女に殺されることになった。……筋書きとしてはこんなところでしょうか」
「お、お前っ!!」
「なんですか?」
和合はその場から動けなかった。
突き立てたナイフは、確かに少年の胸に刺さっていた。
薄暗がりの中でも、大量の血が噴き出しているのが分かる。
なのに。
「なんで死なないんだよっ!」
和合の問いに。
少年は待ってましたとばかりに答えた。
「プラナリアって知ってますか?」
「知らないが……お前はその……プラナリア……なのか?」
「違いますね」
この答え方イマイチなのかなあ……。などとぶつぶつ呟きながら、少年は頬をかいた。
そして和合の鼻先で眉根一つ動かさずに、淡々と言葉を重ねていく。
「うーん、なんて言えばいいのかなあ。この世にはあなたが知らないだけで、殺しても死なない人間がいるんです。そういうもんだと思ってください」
「そういうもん、なのか」
「そういうもん、なんです」
そういうことらしかった。
「そしてこの際、そんなことはどうでもいいです」
少年は続ける。
「いいですか、よく聞いてください。僕はともかく、彼女は何も知りません。ずた袋の中身にも気づいていないでしょう。今日のことも、僕が生きてさえいれば何の罪悪感も抱かずにこれから過ごしていけるはずです。彼女は優しい人です。善良な一市民です。だから」
ひたり。
血に濡れた手が、頬を撫でた。
「もう二度と、彼女に手出しはしないでください」
「…………」
十数年、社会の暗部で生きて来た。
何度も死線を乗り越えた。
今でも夢に見るような、凄惨な光景と向き合ってきた。
恐怖には慣れたつもりだった。
自分を律する術を身に着けたはずだった。
けれどどうやら……すべて思い上がりだったようだ。
この世には、まだ自分の知らない闇が蠢いている。
その一端を今日、和合は垣間見た気がした。
「……なあ、一つだけ教えてくれよ」
「なんでしょう」
「なんでわざわざ、俺を探しに来た?」
和合は問う。
「あんな女のことは放っておいて、さっさと逃げればよかったじゃないか。
知ってるぜ。お前とあいつは何の縁もゆかりもない、ただの他人なんだろう?」
「そうですね」
「ここに来なきゃ、あんたは痛い思いをしなくて済んだはずだ。どういう原理かは知らないが、鉛球をぶち込まれて、痛くもかゆくもありませんってことはないはずだ」
「まあそうですね。普通に痛いです」
「だったら――」
「でも、ダメなんですよ」
少年は静かに笑った。
胸に突き立てられたナイフのことなど、まるで気にも留めていないみたいに。
「僕も、いちごパフェが大好きですから」
その言葉の意味を、和合は理解できなかった。
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【次のニュースです。
昨日午後十二時過ぎ、T県U市在住の男、和合末吉三十四歳が殺人の疑いで逮捕されました。警察によりますと、先週末に提夢図川周辺で発見された身元不明の死体のポケットから、和合容疑者のものと思われる私物が見つかったということです。
調べに対し和合容疑者は「自分のもので間違いない。酒の席で口論になり、かっとなって殺した」と容疑を認めているということです】