いちごパフェの約束 -木下カエデの場合-【中】
木下カエデはごくりと唾を飲み込んだ。
心臓の拍動は耳の奥で聞こえるほどに大きく、そして痛い。
襟草という少年は、眉根一つ動かさず、木下を見据えた。
「僕を殺す」
「はい」
「そうですか」
「そ、そうですかって……」
木下はたじろいだ。
まるで他人事みたいな反応だった。
「怖くないんですか?」
「怖いですよ。泣きそうです」
「とてもそうは見えないんですが……」
「そうですか?」
「そうですよ」
「ううん。まあ、強いて言うなら」
襟草は小首をかしげた。
「そうやって僕のことを気遣ってくれる優しいあなたの口から『殺す』なんて物騒な言葉が出た理由が気になって、それどころじゃないって感じですね」
「……」
木下は下唇を噛んだ。
胸の奥がずくんとうずく。
「私は……優しくなんてありません」
「だったらさっさと殺せばいいのに。僕が寝ている間に、いくらでもチャンスはあったでしょう?」
「っ……」
言い淀む。
親にいたずらを咎められた子供になった気分だ。
彼の方がはるかに年下のはずなのに。
ちらりと視線を横に移す。
小汚いテーブルの上に、鋭いナイフが置かれていた。
この倉庫に来てから半日以上が経過したが、木下にはまだ、触れることすらできていなかった。
「どうせなら教えてくれませんか?」
「え?」
「あなたがどうして僕を殺さなくちゃいけないのか。その理由を」
「……聞いて、どうするんですか?」
「どうもしません。ただ、よく分からないまま死ぬのは嫌だなって」
「それは……」
そうだろうなと思う。
どうせ彼を殺す未来が変わらないのであれば、せめてすべてを説明するべきだ。
それで自分の行為が許されるとは思わないけれど。
木下はしばし逡巡したのち、話し始めた。
「あの日、襟草さんと一緒にヘアゴムを探して家に帰ると、家の鍵が空いていたんです。
電気もついていたので、娘が帰ってきているのかなと思いました。一人でいる時はカギをかけなさいと、普段から口を酸っぱくして言っていたので、おかしいなとは思ったんですが……。
様子がおかしいと気づいたのは、家の中に入った後です。娘の姿がどこにも見当たらなかったんです。決して広い家ではないので、見落としがあるとも思えません。鍵をかけないまま外出するような子でもありません。
いよいよ何かがおかしいと不安に思い始めた時――電話がかかってきたんです。
『娘は預かった。返してほしければ、今から言う通りの行動をしろ』と……。
その内容というのが――」
「僕を殺すことだった」
木下は頷いた。
「準備はすべて、あちらで済ませているという話でした。私はただ相手に言われるがままに、この倉庫まで足を運びました。私が来た時にはすでに、襟草さんは椅子に縛られていました。
電話の相手は言いました。
『そいつを殺せ。手段もタイミングも任せるが、二十四時間以内に始末しろ』。
それだけ言って、電話は切れました」
それ以来、電話がかかって来ることはなかった。
人気のない倉庫の中で、椅子に縛られた襟草を見つめながら、ひたすらに自問自答を繰り返した。
自分はこの人を殺せるだろうか、と。
「ここに私が来てから、半日以上経っています。もう……時間がないんです」
「それは大変ですね。早く殺さないと」
「……はい」
震える手を机に伸ばし、ナイフを持ち上げた。ずしりとした重みが腕を伝う。
これを彼の胸に突き刺せば、すべてが終わる。この悪夢からも解放される。
娘を助けるためだ。
私は悪くない。
これは仕方がないことなのだ。
そう自分に言い聞かせるのだけれど、体はちっとも動かなかった。
「ちなみに」
襟草は質問を続けた。
相変わらず飄々としていて、自分が死ぬことをちっとも怖がっていなかった。
「男の声に聞き覚えはありましたか?」
「いえ……。テレビでよく聞くような、ボイスチェンジャー越しの声でしたので」
「警察には連絡しなかったんですか?」
「すれば娘の命はないと言われたので……」
「なるほどなるほど。では最後に一つだけ」
「最後だなんて――」
言わないでください。
そう口に出そうとして、そんなことを言う資格が自分にはないことに気付いた。
噛んだ奥歯が嫌な音を立てる。
「じゃあ、あと一つだけ。電話をかけてきた相手は、あなたに何か連絡手段を伝えましたか?」
「……どういうことですか?」
「僕を殺した後はここに電話しろ、とか、ここに来い、とか。そういう話はありましたか?」
「いえ……ありませんでした」
「そうですか」
いったいこの質問に、なんの意味があるのだろう?
これから死んでしまう彼が、犯人の情報を得たところで、意味なんてないはずなのに。
けれど襟草は満足げに頷くと、木下に微笑みかけた。
「ではどうぞ。一思いにザクっとやっちゃってください」
刹那、様々な感情が胸の内をかき混ぜた。
横隔膜が激しく痙攣し、喉が震え、体中の産毛がざわりと逆立った。
「どうしました? 早くしないと、娘さんの命が――」
「……して」
視界が揺れる。
「どうしてそんな風に、笑えるんですか?」
気づけば木下は泣いていた。
限界だった。
「私今から、あなたのことを殺そうとしてるんですよ……? あなたはもうすぐ、死んじゃうんですよ……!? なのにどうして、そんなに覚悟ができた表情をするんですか! どうしてそんなに堂々としてるんですか! なにも未練がないみたいな顔、できるんですかッ!!」
押さえていた感情が間欠泉のように吹き出して、木下は初めて声を荒げた。
「もっと叫んでください! もっと私を恨んでください! 責めるような目で私を見て、許さない、お前も死んじまえって、汚い言葉を私に投げかけてください! じゃないと私、あなたを殺せない!あなたみたいな人を! なんの得もないのに泥だらけになって一緒にヘアゴムを探してくれたあなたを! あなたのことをっ! 殺せない! 殺したくない! 殺したく――」
「大丈夫」
それは、とても小さな声音だったのに。
木下の耳に確かに届いた。
倉庫の中が、静まり返る。
錆びた鉄の壁の向こうから、さざなみの音が聞こえた。
「大丈夫です。僕、死なないですから」
「……そんなわけない」
「死にませんよ、本当に」
襟草は笑う。
この期に及んでもまだ、柔らかく。
「そうだ、この事件が解決したら一緒にご飯でも行きませんか? 娘さんはきっと怖い思いをしたでしょうから、なんでも好きなものを食べさせてあげましょう。娘さんは、何が好きなんですか?」
木下は、その穏やかな声につられるように答えた。
脳裏によぎったのは、一人娘のほころんだ顔。
夫と別れ、女手一つで育てあげた、大切な大切な娘の顔。
「……いちごパフェが、大好きです」
「そうですか。では、いちごのパフェを注文しましょう。娘さんはきっと大喜びです。お母さんありがとうって、あなたにとびきりの笑顔を向けてきます。あなたはその隣に座っていて、小さな娘さんの頭を優しく撫でるんです」
ああ、どうして……。
「……襟草さん」
「僕はその向かい側に座って、あなたたちの様子を眺めています。娘さんは僕のことを知らないですから、きっと最初は警戒するでしょう。その時は、あなたが教えてあげてください。僕のことを、娘さんに」
「ダメですよ、襟草さん……」
どうしてこの人は、こんなにも優しいのだろうか?
分かる。分かっている。
この人は自分のために嘘をついてくれているのだ。
自分は死なないなんて嘘をついて、穏やかな日常を夢想させて、そうして私の狂いそうな心を必死になだめてくれているのだ。私の罪悪感を少しでも減らしてくれているのだ。
「そんなあり得ない未来を、語らないでください。そんな幸せな未来を、想像させないでください」
「どうして?」
「だって、あなたはその未来に――」
「いますよ」
襟草は諭すように繰り返す。
「いますよ、絶対に」
なんて強い人なのだろう。
理不尽に命を奪われようとしていてもなお、彼はあの時と変わらない。
川岸で一緒にヘアゴムを探してくれた、あの時のように。
穏やかで、優しくて、だけどどこか……儚げで。
「だから、大丈夫。あなたは大丈夫なんです。なにも恐れず、怖がらず、ただその手に持ったナイフを突き出してください」
私は弱い人間だ。
気を抜けば、今にも彼の優しさに甘えてしまいそうになってしまう。
「さあ、目を閉じて」
彼の声に誘われて、私はそっと目を閉じた。
だけど……ダメだ。ダメに決まっている。
彼を殺して娘を助ける。そんなこと、できるわけもなかった。
娘のことは大切だ。自分の命を引き換えにしたってかまわない。
けれど、見ず知らずの他人は……巻き込めない。
だから――
「強い人ですね、あなたは」
「え?」
木下の両手を、何かが包んだ。
ぐん、と引っ張られるような感覚があり、木下は思わず前につんのめる。
ナイフの柄を通して、鈍い感触がした。
次いで手元を濡らす、生暖かい液体。
「どう、して……?」
混乱する。
どうして彼は両手の拘束を外せた?
どうして私の手を引っ張った?
どうして――
「知っていますか? 犯人のことを一番よく知っているのは、被害者なんです。だから――」
どうして彼は、こんな状態でも笑っていられるんだ?
「あとは全部、任せておいてください」
目を開けた瞬間、大量の赤が視界を覆って。
木下はコトリと気絶した。