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「ご両親は亡くなっていて一人暮らしだそうですよ」
夫はただいまも言わずに、お帰りなさいと言った私に仕事から帰ってくるなり玄関口で靴を脱ぎながら、さして重要でもなさそうに言った。
「山田さんのことですよ」
私が何を言われたのかわからないと言った顔をしていたのだろう、夫は自分にそこまで言わせるのかこの暑い中帰って来たのにという顔をし、ネクタイを緩めた。
「聞いてくださったんですか?」
「同僚ですから」
「瞳さんにですか?」
「はい」
婚姻管理局に貰った資料には滋賀大学卒業と彦根市役所観光課勤務と書かれていて、後でもう一度岡山の母に電話することになった。
自分は本当に間が抜けている。
年は同い年の2109生まれ。
十二月生まれだから八月生まれの私の方が先に二十一歳になる。
でも今の所これしか情報はない。
趣味も好きな食べ物も嫌いな食べ物も。
得意な事、苦手な事、どうしても嫌な事、病歴。
今日まで何を思って生きてきたのかとか。
「良かったですね。姑と小姑にいびられる心配もないですよ。一人っ子だそうです」
「そうですか」
じゃあ貴方と同じですねと言おうかと思ったけど、そんなことを言ったら絶対零度の瞳で射抜くような視線を送ってくるだろうことが容易に想像できたので言わないでおいた。
「曾お婆さんが介護施設にいるそうですが、一緒に暮らしてないんですし貴方が介護する心配もないでしょう。ただどんな趣味の人かは知りません。彼女も一度も一緒に暮らしたことはないそうですし、会ったのも一昨日ので三回目だそうです。当然どんな家に住んでいるのかも知りませんが、公務員ですし、借金もないでしょうから、そんなにひどくはないでしょう」
「そうですね」
随分熱心に聞いてくれたものだ。
何処から出た積極性なのだろう。
無表情すぎてわからないが内心これでもウキウキしているのだろうか。
この先五十年以上一緒にいるかもしれなかった知性の欠片もないような女と子供を作らなくて済むようになるのだから。
「別居婚の理由ですが、彼女がうちの研究所に通う際に彦根からじゃ時間がかかるのでそうなったらしいので別に山田さんに落ち度があるわけじゃないそうです」
「瞳さんは京都の方ですか?」
「同じ高校です」
「じゃあ随分前からお知り合いなんですね?」
「まあ、そうなりますね」
これが漫画だったら初恋の二人なんだろうな。
お互いに話したこともなかったけど意識だけはしていた二人が最初は間違った人と結婚するけど、やがて強い運命に寄って最後の最後には結ばれるっていう。
その際流星が落ちてきたり、首都機能が完全に停止するなどのパニック要素も必要。
ただしゾンビは無しで。
何度もすれ違うんだけど、最後の最後のエンディングが流れるまで会えないんだ、きっと。
それだと私と理さんは当て馬ポジションか。
まあ、そうなるよね。
あの最初の恋人とのキスシーンいらなかった。
主人公が最初から最後までヒロインに一途であって欲しかったとか言われるやつ。
その展開だと私と理さんが駅ですれ違って、じゃあお茶でもって言うシーンも入れないと。
想像がはかどる。
妄想上ですら私と夫は間違いなのだ。
「何か気になっていることはありますか?」
「山田さんのことでですか?」
「他に何があるんですか?」
「特にないです」
「山田さんに連絡してみましたか?」
「いえ。まだ時間あるし、来週でいいかなって」
「呑気ですね」
貴方は一緒に暮らすんですか?と言おうかと思ったけど関係ないでしょうと言われるのは間違いなさそうなのでこれも引っ込める。
確かに私には関係はないし、そんなにも気にならない。
二人を並べてもしっくりは来るけど、どんな話をするのか想像もつかない。
まあ、これは私の頭が悪いからだ、きっと。
頭のいい人と頭のいい人が掛け合わされたらどれだけ頭のいい子供が生まれるのだろう。
瞳さんは夫の子供なら産みたいと思うのだろうか。
「引っ越しの相談は自分でしてくださいよ」
「はい、わかっています」
「まあ、そんなに荷物もないですね。服くらいですか?」
「そうですね」
「じゃあ、すぐできますね」
「はい」
鏡台、と思ったけど、理さんのお家にあるかもしれないし、正直引っ越し屋さんに頼むような大規模なものにはしたくない。
できれば両手にボストンバッグとこの身一つで出ていきたい。
でも瞳さんがもしこのマンションに引っ越して来た時、私が買ってもらった鏡台が寝室にあって、台所に行けば私が選んだ食器と私が使っていた包丁とフライパンとかモロモロの調理器具があったら気が悪いだろうか。
こういうの何ていうんだろう。
元妻の影?
結婚していたことすらなかったことにされるなら、私は宮原楓という男の元妻ですらないのだから気にしなくていいのかも。
「お腹空いたんですけど」
「すみません。すぐよそいますね」
明日は必ず電話してみよう。
そういえば、夫以外の男の人に電話するのは初めてだ。
少し胸がドキドキするのを感じながら、大盛りの牛すじカレーのお皿を夫の目の前に置く。
「こんなに食べられませんよ。相撲部じゃないんですから」
夫はそういいつつ大盛りの牛すじカレーをぺろりと平らげ、明日の朝ごはんもこれとサラダでいいですと言った。




