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聞いたことのある声だと思った。
記憶の奥底の深くへ閉じ込めたものではなく、いつの間にか薄れていたような淡い淡い。
それはテレビから聞こえてきた。
九年間一度も聞くことのなかったあの人の声。
間違うわけのない夏の終わりに見た夢。
「ママー。野球見ないのー?」
今日はマジックナイツの今シーズンの最終戦だ。
六時になったのにニュースを見ている私を見上げ長女の司が言う。
「よしくんー」
次女の遊は私のお腹に小さな顔をぴたりと付けて嬉しそうに呼びかける。
「遊、まだよしくんに決めたんじゃないからね」
私はお腹に引っ付いて離れようとしないポニーテールの娘に言う。
「えー、よしくんだよー。よしくんがいいー」
「ママ。野球見ていい?」
「うん。いいよ」
「よしくんー」
「よしくんはまだ回ってこないよ。七番だもん。遊、ママから離れるのー。ご飯できないでしょ」
「やー」
玄関で夫の声がして、私は慌てて野球中継にチャンネルを替えた。
「ただいまー」
「お帰りなさい」
「パパおかえりー」
「おかえりー」
「腹減ったー。夕飯何?」
「遊がハンバーグ食べたいって言うから、ハンバーグとそら豆のポテトサラダとほうれん草の胡麻和えと秋刀魚の梅煮」
「司と遊の好きなものばっかだなー。秋刀魚梅ばっか食べるんだろー」
「パパ今日よしくんホームラン打ったら赤ちゃんよしくんねー」
「遊。むちゃくちゃ言うなー」
「貴方もでしょ。山田野宮って何よ?」
「だって司、遊、ってきたらもう野宮しかなくない?もしくは六」
「六って」
「ここまできたら野宮関連の名前にしたいだろ」
「もう、手洗っておいでよ」
「おー」
夕飯を終え子供達をお風呂に入れて寝かせるといつも二人でテレビを見ながら台所の椅子に腰かけお喋りする。
いつもならバラエティが見てもいないのにつけっぱなしになっているけど今日夫は待ちかねていたようにニュースを見ていた。
「凄いね。宮原さん」
「うん」
「ノーベル賞取るような人だったんだね」
「うん」
九年ぶりに見たあの人は外見は何も変わってないけれど声に嫋やかさやしなやかさがが加わり九年という歳月を感じさせた。
それはそうだ。
自分だって年を取った。
もう三十、あっという間だった。
九年の間に子供が二人生まれ、再来月にはもう一人生まれる。
今度は男の子の予定でこの間からずっと名前が決まらず悩んでいて、次女の遊はマジックナイツのよしくんこと吉沢奏捕手のファンでよしくんーといつもお腹に顔をくっ付け内緒話のように呼びかける。
「瞳さんだ」
「ホントだ」
妻の瞳さんがインタビューに答えている。
ノーベル賞受賞の夫を献身的に支えた賢妻。
その言葉がぴったりの楚々とした優雅さだった。
これからテレビに雑誌に引っ張りだこだろう。
美しいお似合いの二人。
「相変わらず綺麗だね」
「だなー。この人が専業主婦してるなんて信じられない」
彼が何を発見したのか説明されても何もわからないけれど。
今後何かしたいことはありますかと聞かれて彼は言った。
「野球の始球式をしてみたいです。息子が奈良マジックナイツのファンなので」
私は彼がノーベル賞を取ったことより彼の口から息子と聞けたことが嬉しかった。
彼は父親になったのだ。
「吉沢ホームラン打ったしよしくんにする?」
「貴方がいいなら私はいいわよ。でもよしって吉沢のよしでしょ?」
「そうだなー。吉沢の下の名前で奏君かー。一文字だし山田奏悪くないかー。インスピレーションは大事だし」
「まあ、生まれてからでいいんじゃない?もうちょっと考えよ」
「あー。まあ、今年は育成の年だったと割り切らないとなー。吉沢がキャッチャーで三割三十本だし。打順もう少し上げたら百打点いけたなー」
「走れるキャッチャーだしね」
「そうだよなー。足速いんだよなー」
「今シーズンも終わっちゃったね」
「あー。寂しい。補強はうち関係ないしなー」
「FAも今年はないでしょ」
「ないなー。後は佐野のホームラン王カープの試合待ちか」
「カープ後何試合残ってるの?」
「二試合」
「抜かれるかもねー」
「あー」
次の日夫と子供を送り出すと私は三井寺で買ったクリアファイルを洋服ダンスの引き出しから取り出した。
これを挟んでいたアニメ雑誌はとっくの昔に捨ててしまったけど、これだけはずっと大事に取っておいた。
何度見ても面白いお顔だ。
理路整然とした文字を追う。
もうぼやけて読めなくなったりはしなかった。
遠い夏のあの日が夢ではなかったことは確かだった。
彼は幻の妖精さんでもなく、でも風がきっと連れて来てくれた。
毎日は慌ただしく過ぎていって、もう思い出すことなどないと思っていたけれど。
もし違う風が吹いていたら間違いの運命さえも空の彼方に消え失せてしまったのかしら。
それがなくて良かった。
私は母親になった。
父親にしたかった人を父親にした。
本当に何ていう不思議。
でも、貴方と私が間違いで良かった。
私は瞳さんのようにあんな風に的確に質問に答えられないし、スウェーデンで開かれる晩さん会に出席するなど考えただけでも逃げ出したくなる。
あの人は結局ずっと夢なのだ。
あの夏から夢になったのだ。
夢とはそうたびたび思い出すものでもない。
記憶に波紋が呼び起こされない限りいつまでも閉じ込めていける。
恋とは相手に夢を見ることだ。
夢は生活に向かない。
でも生きていくには欠かせない。
まるで嵐のように相反し反目し続ける。
間違いだらけの両片思いのように。
ワイドショーのコメンテーターが楓と言う名前が増えるんじゃないですかとコメントする。
自分は楓とはつけないだろうと苦笑する。
でも植物の名前はいいかもしれない。
まあ無事に生まれてくれたら何でもいい。
大きくなったらマジックナイツの帽子を被って欲しい。
選手としてとかそんな図々しいことは言わないからファンとして。
だって司も遊もユニフォームは着るのに帽子は頑なに被らないのだ。
「早く生まれておいでー」
よしくんと言いそうになりふと思い出す。
確か野宮は広島の三次出身だったなと。
夫は気づいているだろうか。
言わないでおこうか。
でもどんなことを言うか気になるから帰ってきたらさっそく言ってみよう。
どんな顔をするかはもう想像つくけれど。




