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私は夫からの知識を総動員し野球の素晴らしさと奈良マジックナイツの良さを隣の妖精さんにプレゼンした。
そのほとんどが野宮さんの意外な可愛さとか佐野さんとの親密さとか、浅宮さんや監督との仲だったり、今年初めて一軍で投げた高卒ピッチャー陣の寮での部屋割りだとか、まあペナントレースを左右するものではなかったけど、妖精さんはまるで興味があるかのようにお情けのような慈愛纏いながら聞いてくれた。
「その服彦根で買ったものですか?」
観光客でにぎわう城下町を抜けると、もうそこは現実に舞い戻るかのように普通の住宅街になっている。
二つの信号を渡った芹橋の上で彼は私にそう聞いてきた。
この橋を渡って右へ曲ると坂道がある。
もう我が家は目の前だ。
「そうです」
今日の私の服装は黒いTシャツに黒い花柄のフレアスカート。
上下とも彦根に来てから買った服だ。
「見たことがなかったので」
「そうですか」
「もうすぐお家ですか?」
「この橋を渡って右へ行ったらすぐです」
「この川大丈夫なんですか。台風の時」
川はいつもの穏やかさを忘れるほどに鳴りやまぬ遠雷のような音を立て、いつもの美しい淡い色は見当たらない。
代わりに乱暴な生命を感じさせる泥を纏う水が人間の感傷などお構いなしに流れていく。
「大丈夫です」
「避難場所どこか知っていますか?」
「近所に小学校があるので、そこです」
「そうですか。ちゃんと逃げてくださいね」
「はい」
何て親切な妖精さんだろう。
それにしてもこのまま家までついてくるのだろうか。
そもそも何故ここにいるの?
何をしに来たの?
本当に貴方は宮原楓さんなの?
芹川のケヤキ並木を通り抜け坂道まで来た。
ここを降りたらもう家はすぐそこだ。
「どうしたんですか?」
私は立ち止まっていた。
これ以上一緒にいてはいけないと全力で心が言っている。
「あの、何しに彦根へ?」
彼は顔を左へ向け芹川を見た。
美しい横顔は私の知っているあの人と寸分の狂いもなかった。
「さあ、何しに来たんでしょうね。気が付いたら仕事を休むと電話していて、京都駅で千百四十円の切符を買っていました。仕事休んだの初めてです」
「私があそこで働いているって知っていたんですか?」
「いえ。偶然です。住所は憶えていたので歩いて行こうと思ってたんですけど、喉が渇いたのと暑かったので入ったんですよ。そしたら貴方がいて驚きました。最初は別人かと思いましたよ。髪型違うし。でも声は貴方だし。貴方みたいな人二人もいるわけないし」
「お昼食べたんですか?」
こういう今どうでもいいことが気になる。
もう二時半くらいだろう。
お昼を食べてないのならお腹が空いているはずだ。
「お昼なら駅についてすぐ食べましたよ。駅のすぐ傍の蕎麦屋で」
「そうですか」
「家見せてくれないんですか?」
「家見に来たんですか?」
「まあ、そんなとこです」
私は坂道を降りていく。
後ろから足音もなく彼は付いてくる。
私はお母様が生きていた頃は車庫にしていたという現在は自転車置き場にしている広い屋根付きの空間に自転車を停め鍵をかける。
家を見ると言ったけど彼は家の外観などこれっぽっちも興味はなさそうで玄関すら見ずに私の傍に来て、台所の裏口を出たところにある物干しざおを眺めている。
干してあるのは私と夫の服と下着とタオルなどだが、まあ今更見られたからと言って騒ぐほどのものではないので私は動かない。
「もう、見ましたよね。もういいんじゃないですか」
「中には入れてくれないんですか?」
「夫の留守中に貴方を家に入れるわけにはいきません」
「そうですか」
風が吹いて来た。
さっきより強い風が。
私達を覆うように、隠すように。
「山田さんと上手くいってるんですね」
「上手くいってますよ。優しいです」
「それは良かったです」
貴方は上手くいっていないんですか、とは聞きたくなかった。
貴方のその先を知りたくなかった。
「貴方がいなくなってからゲーム始めたんですよ。あれです。アイローとブルファン」
「ゲーム、貴方がですか?」
「はい。さっきもやってましたよ」
「どうしてですか?」
「貴方が出て行ってから貴方のことばかり考える様になりました。貴方のことがこんなにも気になるのは貴方のことを理解せずに終わってしまったからだと思い、貴方を理解しようと貴方がしていたゲームを始めました。貴方が面白いと絶賛していたアニメも見ました。貴方がお友達と話していた同人誌とやらも読んでみました。でも何が貴方をそんなに夢中にしていたのかよくわかりませんでしたけど」
「けど?」
「貴方がこれによって楽しんでいたなら良かったなと思いました。そういえばパン屋の制服似合ってますよ。まあ貴方は何着ても可愛いですけど」
「何言ってるんですか」
もう完全に別人だ。
別人に違いない。
私の知っている宮原楓という人はこんなこと言わない。
「貴方のことはいつも可愛いと思ってましたよ。だから外に出て欲しくなかった。誰とも繋がりを持って欲しくなかった。ずっとあのマンションに閉じこもってて欲しかったんです」
違う、こんなこと、違う。
「何言ってるんでしょうね。でも本当にそうでしたよ」
違う。
そんなこと言わないんじゃない。
そうやって否定することはその人を見ていないのと同じだ。
自分の望む姿以外認めないと言う自分本位な我儘。
「戸締りしっかりして下さい。京都のセキュリティのいいマンションと違ってこんな家簡単に侵入できるんですから。山田さんに夜一人にならないようにしてもらって下さいね。こんな田舎でも殺人事件とか起こるんですから」
「佐和山のですか?」
「最初彦根の山中で女性の遺体発見と聞いた時貴方かと思い目の前が真っ暗になりました」
「田舎って言いますけど、彦根だって結構広いんですよ」
「そうですか」
「はい。一日の花火大会なんかこんなに人いたんだって驚くくらい沢山の人で」
「殺害された女性の名前俺は一生忘れることはないと思います。佐藤小百合さん」
「そうですね。私も忘れないと思います」
「大垣まで通っていたんですよ」
「誰がですか?」
「佐藤小百合さんと不倫相手の相葉優さん」
「大垣の人だったんですか」
「ええ」
「そうだったんですか。岐阜まで。遠いのに」
「京都より近いですよ」
私達の間には風だけがある。
風だけが私達を隔てる。
風だけが二人を阻んでくれる。
もうこれ以上は話せない。
「帰りますね」
「はい」
彼は玄関に回った。
自転車置き場からでなくわざわざ遠回りして。
「お元気で」
「はい」
私は俯かず彼を見た。
彼も私を同じ目で見ていた。
「子供できるといいですね」
私は彼が本当にそう思っているのだと気づく。
見たことのない曖昧な優しい点と線。
「貴方はきっといい母親になりますよ」




