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階段を上り改札が見えるとその先にある「ようこそ彦根へ」と書かれた看板の前で理さんは黒いTシャツを着て待ってくれた。
私に気づくと右手を振ってくれたけど、両手が塞がっているので返せない代わりに会釈をする。
改札を出ると私の傍まで来てボストンバッグとお土産の入った袋を持ってくれた。
「すみません」
「いえ、重くなかったですか。何かすみません。気を使わせて」
「いえ」
「大丈夫ですか?」
「何がですか?」
「ここから結構歩くんですけど」
「大丈夫です。曇ってますし。そんなに暑くないですし」
「まあ、京都よりはそうですね、二、三度違いますから」
駅を出てすぐにあるスーパーの駐車場に止めていた自転車の籠に荷物を載せ二人で並んで歩き出した。
「あれ、俺が働いてる市役所です。
道路を隔てた大きな建物を理さんは指さす。
「毎日自転車で通ってます」
「そうですか」
「すみません。俺車持ってなくて。でも免許は持ってるので、これを機に買いましょうね」
「はい」
「自転車も買いましょうね。自転車ないと、どっこも行けないので。自転車乗れますよね?」
「はい、乗れます。岡山では乗ってましたよ」
「岡山ってデイリーヤマザキあります?」
「ありますけど?」
「彦根ないんですよ。だから奈良行くと遂意味もなく寄っちゃうんですよねー」
「そうなんですか」
「彦根城の方から帰りましょうか?ちょっと遠回りですけど」
「はい」
理さんは此処はいろは松お城祭りとか大名行列やるんですよ、とか、ここが佐和口多聞、ここが木俣と言う家老の屋敷です。維新後男爵になったんですよ、とまるで口ずさむ様に話す。
「ここの高校に通ってたんです」
「お城の中にあるんですね」
「はい、下手くそですけど野球部でした。ピッチャーやってたんですよ。控えですけど」
「凄いですね」
「嫌、全然。でも楽しかったです。何部でした?」
「バドミントン部です」
「凄いですね。走りっぱなしのスポーツじゃないですか」
「まあ、そうですね。いつも一回戦負けでしたけど」
「俺もです。でも楽しいんですよね。バッティングは好きでした。全然打てなかったけど」
石橋を渡るともうそこはお店が並んでいて元の世界に戻ったみたいになった。
「今度彦根城上まで登りましょうね。夏終わったら」
「はい」
「天守閣がね、可愛いんですよ。ペンギンの顔に見えるんです」
「へー」
理さんは歩きながらずっと話してくれた。
彦根藩を一度も国替えなくずっと治めた井伊家のお話。
三十五万石という求肥の入った美味しい最中のお話。
途中立ち止まったお寺に大阪夏の陣で亡くなった豊臣方の武将木村重成の首塚があるということ。
彦根日光と佐和山の頂上から見た美しさ。
野宮さんの話をしないのが新鮮で、そう言えば市役所の観光課で働いていると言っていたことを今更ながら思い出す。
「この橋渡ったら右に曲がってすぐです」
芹橋と書いてある大きな橋まで来ると橋の真ん中で立ち止まり理さんは言った。
「この先が琵琶湖ですよ」
芹川には水がほとんどなかった。
そういえば今年は雨が余り降っていない。
「芹川決壊したら家水浸しになります。川のすぐ傍なので」
「そうなんですか?」
「はい。でも決壊したの百年以上前ですよ。大丈夫です」
「雨よく降ります?」
「まあ、台風来たりしたら。でもほとんどそれますけどね。まともに来たことなんかないです」
「そうですか」
欅の大木が並ぶ道を二人で歩くと坂道が見えてきた。
「この下です」
自転車で降りたらさぞかし気持ちいいであろう坂道を降りると家が立ち並んでいた。
此処ですと理さんは言い、本来は車庫として使われるであろう車一台くらいが余裕でおけそうな何も置いていない空間に自転車を止めた。
そのすぐ傍は裏口なのだろう、バスタオルやパンツや靴下など洗濯ものが干してある。
「窓すぐ開けますね。暑いし」
「はい」
玄関に回り理さんが鍵を開ける。
「お邪魔します」
何て言っていいかわからなかったから、遂言ってしまったけど、しまったと思ったけど、理さんは何も気にしていないのか、階段を上がり二階の窓を豪快に開ける音がした。
「すみません。上がってください。お茶飲みましょう」
「はい」
サンダルを脱いだものの、どうしていいかわからず立ちすくんでいる私に理さんは笑顔で言う。
台所に通されると野宮さんがいて安心した。
野宮さんの巨大ポスターは台所と繋がっている居間のテレビの横に貼られていた。
打った瞬間のバッドを捨てて走り出した凛々しい野宮さん。
これを見ながら毎日野球中継を見てご飯を食べてるわけだと、テーブルと椅子の配置を見て気づく。
これからは私も一緒に。
「疲れましたよね?座ってください」
「はい」
理さんはグラスにペットボトルの麦茶を注いでくれる。
沸かすの面倒だもんね。
そうだ、何でも売っている。
一人になってもお茶も飲めないなんてことはないんだ。
「疲れましたけど、今日どうします?」
「えっと・・・」
「婆ちゃんとこは明日行くとして、ご近所さんはもう今から行きますか?近所づきあいと言ってもお隣と裏だけです。あんまり付き合いないんですよ」
「そうですよね」
京都では結局お隣に誰が住んでいるのかわからないまま終わった。
「荷物明日でしたよね?」
「はい。明日の十時です」
「じゃあ、荷物受け取ったら婆ちゃんとこ行って、自転車買いに行きましょうか」
「はい」
「あー、でも今から行った方がいいですかね。婆ちゃんとこ行くのに」
「結構遠いんですか?」
「そんなでもないです。自転車ならすぐです」
「阿闍梨餅開けましょうか?家の分も買ってきたんです」
「いいんですか?食べたかったんですよ。これ美味しいですよね」
「はい。私も大好きで」
「俺もです。京都行ったら結構買いますね。それと八ッ橋。飽きがこないって言うか、外れがないじゃないですか」
「八ッ橋食べたかったですか?」
「京都ならいつでも行けますから。冷蔵庫にこの間買った葛餅あるんですよ。これも食べましょう」
「奈良で買ったんですか?」
「駅で買えるので」
理さんは冷蔵庫から包装紙に包まれたままの葛餅を出し食器棚から白いカフェオレボウルを二つ出す。
私は阿闍梨餅の箱を開ける。
葛餅はよく冷えていて、黒蜜ときな粉が絶妙だった。
「美味しいです」
「良かった」
「よく奈良で買ってこられるんですか?」
理さんは葛餅を口に運んでいたスプーンを持つ手を止めた。
「普段はあんまり買わないんですけど、来週には美弥子さん家にいるなって思って。葛餅って賞味期限長いので」
理さんは首を掻くと、立ち上がり冷蔵庫を覗き込んだ。
私は、今彼が照れていると気づき、彼を本当に大切にしようと思った。
彼は私が来るのを夏休みの前日の子供のような純粋さで楽しみにしていてくれたのだから。




