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第07話_平成1X年11月27日の期末考査前

「すみません、ムラカミ・メグミさんですか?」


 私がそう呼びかけられたのは、文化祭が終わって二ヶ月経った、放課後のことだった。期末考査前であったために、図書室で勉強していた私を、一学年下の女の子が呼びかけてきたのである。


「そうだけど……」


 と言いながら、私は頑張ってその子のことを思い出そうとしていた。黒いショートボブの髪の毛に、丸い輪郭。つぶらな瞳で、眉のちょっと太くて、背が低い、そんな――要するにどこにでもいるようなタイプの――女の子である。


 結局誰だか分からず、私は首を傾げるしかなかった。


「えっと、ごめん、どこかで会ったっけ?」

「いや、その、そういう訳じゃないんですけど……」


 言いながら、女の子はちょっともじもじし始めた。しかし決心がついたのだろう。私の顔をまっすぐに見上げると、


「あの、マモル君のことなんですけど」


 と女の子は言ってきた。


(マモルのことか)


 私はさっそく身構え、相手の出方をうかがった。


 文化祭が終わってからすぐのころは、意を決して


「すみません、む、ムラカミさんって、マモル君と付き合ってるんですか?!」


 と訊いてくる女子が、私の周りにたくさんやってきた。私はそのたびに、


「いや、そんなことはないですよ。マモル君、フリーですよ」


 と言わなくてはならなかった。もちろん私が言ったところで、説得力なんて何一つない。


 ところで、私もナヨロ・マモルも、文化祭以降はまったく顔を合わせなくなっていた。あくまで広報委員としてのみのつきあいなのだから、当然と言えば当然である。ちょうどそのタイミングで、カブラギさんも登校を再開してくれた。あいかわらずトモ子は口を聞いてくれなかったが、今はもう、どうも意地でそうしているらしかった。こういうところだけは、トモ子はしっかりと守ってくるのである。


 そんなわけで二ヶ月経った今となっては「ムラカミ・メグミと、ナヨロ・マモルは付き合っている」という噂も自然消滅し、私を恋敵とみなしてやってくる女子も現れなくなり、いつしか私自身も、そんなこと忘れかけていたところだった。


「あぁ、ナヨロ君のことですか?」


 私は平静を装うと、いかにも他人行儀な口調で「ナヨロ君」と呼んだ。すると相手の女の子は身を乗り出して


「そうなんです。マモル君のことで、話があるんです!」


 と言ってきた。


 ここで私は、状況がいつもと違うことに気づいた。女の子は「おそるおそる私に尋ねている」というよりかは「ナヨロ・マモルのことについて、話したくて話したくてしょうがない」という感じだったからだ。


 すると女の子は手を伸ばし、私の手を掴んだ。


「ど、どうしたの?」

「ちょっとだけ、来てもらっていいですか?!」


 有無を言わさない感じだったから、女の子に連れられるまま、私はしぶしぶ図書室を後にした。



――……



「わたし、一年三組のナシモト・カオリって言います。あの、茶道部に入ってます」


 誰もいない講義室Qで、私とカオリちゃんとは、向かい合わせになって席に着いた。


「はぁ、そうですか」


 私はそれしか返事ができなかった。カオリちゃんなんて知らないし、茶道部には知り合いもいなかったからだ。


「その、マモル君のことなんですけど。ムラカミ先輩、付き合ってるんですよね?」

「いや、話すと長くなるんだけどさ……」

「お願いします!」


 私の話を遮ると、カオリちゃんがとつぜん、深々と頭を下げた。


「えっ?」

「あの、その、マモル君のこと、分かってあげてほしいんです!」

「わ、分かる?」

「はい!」


 カオリちゃんはまっすぐ、私のことを見つめてくる。しかし残念なことに、私はカオリちゃんの意図が分からず、目をそらすしかなかった。


 今年は冬が来るのがはやい。外では粉雪が舞い始めていた。


「ごめん、『マモルのことを分かる』って、どういうこと?」

「え? えっ、と、その……マモル君のお父さんとお母さんの話とか……あの、私、マモル君の幼なじみで……」

「幼なじみ?」


 意外な単語を聞きつけて、私の声は自然と大きくなった。自分の視界に、自分の吐いた白い息が映り込む。


 マモルにも小さいときがあって、そして幼なじみがいた。――よく考えてみれば当たり前のことだけれど、それが当たり前であるがゆえに、かえって私には新鮮なことに思えた。


「そ、そ、そうなんです……」


 そう言いながら、カオリちゃんは自分とマモルとの関係について、私に訥々と説明してくれた。


 カオリちゃんは小さなときから、今みたいに引っ込み思案で、気の小さい女の子だったという。そして案の定、そんなカオリちゃんにちょっかいを出したり、いじわるをしたりする連中が出てきたらしい。


 そんなカオリちゃんを守っていたのが、ナヨロ・マモルだという。


「ナヨロが――?」

「そうなんです」


 カオリちゃんが小学校の一年生だったとき、マモルは転校してきて、二年時のクラスに編入したという。学校の図書室でひとりメソメソしていたカオリちゃんに声をかけたのが、「マモル君」だったそうだ。


「マモル君、お昼休みになると、いつも私と一緒にいてくれたんです」

「ふーん……」


 相づちを打ちながら、私はその頃の様子を、自分なりに想像してみた。カオリちゃんはたぶん、ちょっとうつむきがちになり、本を読んでいるフリをしながら、マモルのことを横目で見ていたのだろう。マモルはそんなカオリちゃんの側で、おそらく本を読み続けていたに違いない。カオリちゃんには、目もくれなかったんじゃないか。あるいは本なんて読んでおらず、ただ中空を眺めていただけかもしれない。


「でもさ、そんなことしたらさ、余計からかわれない?」


 私の率直な質問に対し、カオリちゃんは黙って一度うなずいた。


 それじゃダメじゃん。


「いや、その、はじめはからかわれたんです」

「でしょ?」

「でもマモル君は――」


 でもマモルは、まったく動じなかったという。からかってくる相手を、ただじっと見つめ、はにかんでいただけだったという。


 私はそんなカオリちゃんの説明を受け、あぁ、とため息を漏らした。たしかにマモルならば、そういうことをするだろう。そしてマモルに見つめられると、なぜか地面に穴が開いて、急に滑落していくような気持ちになるのだ。


 その一件以来、カオリちゃんに対するからかいは止んだ。それでもカオリちゃんは図書室に通い続け、マモルもまた図書室に通い続けた。二人の奇妙で、おぼつかない、それでいてどこかなつかしいような関係は、マモルが一足先に中学校へ行くまで続いたのだという。


「中学校では?」

「中学校では、その……、わたし、剣道部に入部したんですけど、マモル君はどの部活にも入らなかったみたいで」


 カオリちゃんはここで、言葉を切った。


「わたし、何度かマモル君の家に、遊びに行こうとしたんです。でもマモル君が『ダメだ』って言ってきて。それで『どうしてだ』って聞いたら、その、『お父さんもお母さんもいないから』って言われて」


 ここに来て私も、後夜祭の一件を思い出した。私に話したことと同じことを、マモルはカオリちゃんにも話したのだろう。


「『ムラカミさんにこのことを話した』って、マモル君からは聞きました」

「えっ?」


 意外な言葉に、私は身を乗り出して尋ねた。


「アイツが言ったの?」


 私の問いに、カオリちゃんは小さくうなずいた。


「同じ高校に入ってから、わたしたち、何度か会ってるんです」

「そうなんだ……ボウリングでもやってるの?」


 たいした意味もなく、本当に何気なく、私はカオリちゃんに尋ねた。


「ボウリング……ですか?」


 ところがカオリちゃんは、神妙な表情をして、私に尋ね返すだけだった。


「そう。アイツ、すごいボウリング上手だからさ」

「そう……なんですか?」

「『そうなんですか』って……知らないの?」

「ご、ごめんなさい」

「いや、別に謝ることじゃないけどさ……」


 カオリちゃんはうなだれてしまった。どうやらボウリングは、ナヨロ・マモルのプライベートな趣味らしい。


 とするとカオリちゃんは、ボウリングの球を必死になって磨いているマモルのことを、まったく知らないことになる。


「マモル君は無口で……その……あまり自分のことは喋ってくれないんですけど、でもこの前会ったとき、マモル君はムラカミさんのことを話していたから……」

「それで――カオリちゃんも私のところに来てくれたってわけ?」

「そうなんです。――あっ! その、だから、マモル君のことを、誤解しないであげてほしいんです」


 自分の胸のあたりで、こぶしを握りしめながら、カオリちゃんは強い口調で話を続ける。


「その、たぶんムラカミさんも、マモル君のこと誤解してると思うんですけど、でもマモル君、お父さんとお母さんが早いうちに死んじゃって、すごいショックだったと思うんです。マモル君、まだそのことを、心のどこかで引きずっているんじゃないか、って。あ、その、ムラカミさんにその、マモル君の家庭の事情を思いやってほしいっていうずうずうしい意味じゃないんですけど、その――」


 自分の言葉がとりとめのないことに気づいたのか、カオリちゃんはここで押し黙ってしまった。


 私はただじっと、カオリちゃんの言葉に耳を傾けているだけだった。そのときふと、ナヨロ・マモルも同じように、カオリちゃんの言葉に耳を傾けているのではないかと、そんな気持ちになった。


「カオリちゃん、」


 なぜだか分からないが、私はカオリちゃんに尋ねていた。


「マモルのこと、好きなんでしょ?」

「え……いや、その……!」


 カオリちゃんは顔を真っ赤にすると、ますます小さくうずくまってしまった。カオリちゃんから具体的な返事はなかったが、私はそれで十分だった。



――……



 カオリちゃんとの話を終えた後、私は少し早く図書室を抜け、家とは反対方向にある、市の図書館へとやって来た。


 司書の人に頼み込んで、十年前の新聞の縮刷版を持ってきてもらい、記事をくまなく探し回った。一時間ほど経った後、私はようやく、お目当ての記事にたどり着くことができた。


 二十二日午前四時ごろ、Q県I市の会社員、名寄 健一(39)さん宅から煙が出ていると、付近の住民から消防へ連絡があった。

 火は三十分後に消し止められたものの、燃え方が激しかった一階のリビングから、二人の遺体が発見された。

 名寄さんは妻(37)と子ども(7)の三人暮らし。名寄さんと妻とは連絡が取れておらず、警察は、焼け跡から発見された遺体はこの二人の可能性が高いと見て、出火原因とともに身元を調べている。


 「子ども」とは間違いなく、ナヨロ・マモルのことだろう。マモルの父は自らガソリンをかぶって自殺しようとし、止めに入ったマモルのお母さんも炎に巻き込まれた。父親と母親とが火柱になって燃え上がっている様が、マモルの脳裡には焼き付いているに違いない。


 ナヨロ・マモルが周囲に関心を持たず、そして私がマモルに「首が据わっていない」という印象を受けたのも、きっとこの事件が影響していたのだ。マモルの人生のすべては、七歳のときから前へ進んでいない。七歳のときの記憶がマモルを釘づけにしており、マモルはそこで立ちすくんだまま、この世界のスピードについて行くことができないでいるのだ。


 縮刷版を閉じると、私はひとりため息をついた。外ではしんしんと、雪が降り続けている。


 ここにきてようやく、私はナヨロ・マモルのことを理解できたような気がした。ナヨロ・マモルは、私にとって異質な存在ではないのだ。きっと私が分かりかねたのと同じようにして、ナヨロ・マモルも私たちの世界が分からないのだろう。でも逆説的なはなしだが、「お互いにお互いがわからない」ということを通じて、私たちはわかり合うことができるのではないか、と、私はそんなことに思いをはせたわけである。


 かくして私は、表面的な理解を表面的だとも思わずに、すべてを知ったような気分になって、図書館を後にした。


 だから、どうしてナヨロ・マモルは孤独なボウリングを行っていたのか、そしてボールを磨き続けることによって、何がしたかったのかということを、私は完全に忘れ去ってしまったのである。

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