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オックスフォードでも、イーライは変人というような評を得ていた。いつもウォークマンで音楽を聴いていて、すすんで誰かと話すことなどまったくない。ガールフレンドの一人もいやしなかった。彼を知る者の多くが、講義中に発言をするときの彼の声しか知らなかった。
しかし、オックスフォードの変人たちの中では、彼もなかなか優秀であるとの評判も得ていた。一方で、名家の出身で先祖の代からオックスフォード出身という貴族階級の人間には、相変わらずユダヤという偏見のまなざしがあった。あのアインシュタインも、核兵器を完成させたオッペンハイマーや、コンピュータを生み出したノイマンもユダヤ系であるというのに、彼らはイーライに見下したような視線を送った。いや、彼らは恐れていたからこそ、そのような視線を送ったのかもしれない。ボブ・ディランだって、ポール・サイモンやアート・ガーファンクルだってユダヤ系なのに。
当時の彼は、そんなことを思いながら、しかしもはや自分のルーツには無関心になりつつあった。アンは「自分のルーツに誇りを持て」とは言ったものの、イーライにしてみればそのようなこと、もはやどうでもいいように思われたのだ。自分はどの国の人間でもない。ここに自分がいるということさえはっきりしていれば、どこにだって居られる。そう思えた。そして、そのような自分を知る方法の一つが、彼にとっては過去を懐かしむ音楽だった。
イーライは暇があると、よく一人でパブに行った。酒を飲むことで気分が多少紛れると知った彼は、以来なにか思い出すような事があれば、パブに行って忘れるようにした。
彼は行きつけのパブは、オックスフォードのはずれにあった。裏路地にひっそりと軒を連ねる店で、小さくギネスの看板を吊していた。店自体は半地下にあって、赤い扉がトレードマークだった。
イーライがそこを好んだのは、単純に流れている音楽が好きだったからだ。あるときふと通りを歩いていると、ドアの向こうから『マーチ・オブ・ザ・ブラック・クイーン』が聞こえてきたのだ。それでイーライはふと立ち止まって、店に入った。それ以来、彼はちょくちょく一人でその店に来ていた。過去を思い起こし、過去を忘れるために。
大学二年生のある晩。イーライは例によってそのパブにいた。一人で『クイーンⅡ』を聴いていた彼は、氷の溶けきったジョニー・ウォーカーを揺らしながら、静かにカウンターに腰を下ろしていた。
するとそんな彼のもとに、珍しい客が現れたのだ。ヴァイオレットのドレスを着た女性だった。ぱっくりと開いた胸元からは、主張の激しいバストと黒いレースのブラが露出していた。店内にいた若い男の衆――おそらくイーライと同じオックスフォードの学生だろう――が彼女に声をかけようとしたが、それは叶わなかった。
彼女はイーライの隣に腰を下ろすと、
「もう一杯いかがですか?」
と声をかけた。
音楽に聴き入っていたイーライは、はじめ自分に声をかけているのだとは気づかなかった。
しばらく間があって、イーライは彼女をみた。黒髪の美女だった。エメラルドの瞳は、じっとイーライを見つめていた。
「じゃあ、同じものを」とイーライ。グラスをマスターに渡す。
「私も同じものを」
女はそう言って、少しだけ座席をイーライのほうへ近づけた。
香水のにおいが鼻についた。ヴィヴィアンとの関係以降、女性関係はおろか友人関係にさえ手を出さなかったイーライは、少ししどろもどろしてしまった。
女は、そんなイーライを見て微笑んだ。
「イーライ・カッツさん? 私、イヴ・マネーペニーと言います。すこしお話しても?」
――カッツ。
久しくその姓で呼ばれたので、彼は思わず身構えた。
「いいですが……。なぜ、その名を?」
「あなたについて少し調べさせてもらったんです。大変興味深い内容でした。それで、少しお話をさせていただきたいのですが」
「話、ですか?」
ちょうどそのとき、二人ぶんのジョニー・ウォーカーが運ばれてきた。
「乾杯します?」
「いえ、結構です。それで、話というのは?」
「ええ。ミスタ・カッツ――あえてそう呼ばせていただきます――国家のために働こうという気はありませんか?」
「国家? 公務員ということですか?」
「ええ。私、こう見えてリクルーターでして。あなたの才能を見かねて、大変失礼ではありますが、こうして直接伺わせていただきました」
「私の才能ですか?」
「ええ。……ずいぶんと面白い人生を送られていますね。ユダヤ系移民三世。敬虔なユダヤ教徒の下に生まれるも、両親に反発。幼くして両親を失い、その後ブラッドレイ博士の養子となる。ラグビー校を次席で卒業し、いまはオックスフォードで法学を学んでいる……。実に面白いです」
「退屈な人生ですよ」
「いいえ。あなたは、板挟みの中で常に自分を偽って生きてきた。違いますか?」
「……さあ」
イーライはごまかすように言って、ウィスキィを口に含んだ。
イヴは、シメたというような顔をして、また微笑んだ。真っ赤なルージュの塗られた唇がぷるんと揺れる。
「もし興味がおありなら、こちらに連絡してください。いつでもお待ちしております。私どもは、いつでもあなたを見ていますから」
イヴはニコリと微笑んで、カウンターに置かれた紙ナプキンを一枚取ると、それに万年筆で番号を書き記した。彼女は最後にキスマークをつけると、折り畳んでイーライの上着のポケットに差し込んだ。
それからイヴはウィスキィをあおって、一〇ポンド札を置いて出て行った。これがイーライが裏の世界に足を踏み込むきかっけであった。
イヴ・マネーペニーという女が、秘密情報部の人間であるとわかったのは、イーライが彼女の残した番号に電話を入れたあとだった。
MI6は、主に軍や大学にリクルーターを派遣することが多いらしい。その中でも、両親がすでに存在しない、里親からも見放されている男がいると聞きつけて、彼らはスカウトをしたという。天涯孤独ということは、それだけ姿を煙にまくのが容易ということであり、またイーライは伊達にオックスフォード生というわけではなく、語学や法学に堪能だった。また義母の影響で文学や絵画、音楽にも造詣が深い。戦闘要員ではなく、工作員としてイーライはまさしくMI6の求める人材だったのだろう。
MI6との協定は秘密裏に進んでいった。イヴ・マネーペニーを介して、彼は着々と入局の準備を進めていた。
大学卒業後、彼はテムズのほとりにある秘密情報部に迎え入れられた。
情報部の人間は、主に軍人か、イーライのようなオクスフォード、ケンブリッジというような名だたる大学出身の者、または作家などといった知識人が多かった。ゆえに彼は、ひとつ安心することができた。自分は、国家からようやく認められるようになったのだ、と。英国がようやく自分の存在を認めてくれたのだと。
しかし、そううまくいくはずも無かった。
二年近い訓練期間を経て、イーライは当時英国の占領下にあった香港支局に飛ばされた。
そして彼は、当時独立の機運が高まるアジアで、ある男と接触した。
当時から英国は、中国の国力に注目していた。かつては阿片戦争など卑劣な手段で翻弄した相手だったが、今では対等――いや、正確には見下しているだろうが――な立場で交渉をするつもりになっていた。
特に香港は軽工業で栄え、貿易拠点としても優秀だった。独立の機運が高まる時期、英国は今のうちに香港と良好な関係を結び、後の百年に備えるつもりでいた。イーライの任務は、そのような和平工作だった。中国語も覚えた彼は、英語・仏語・独語・ヘブライ語・ラテン語・中国語と、都合六つの言語を操れるまでになっていた。
そんなある日、彼は香港の夜をバーで過ごしていた。情報部として働くようになってからも、大学時代のクセは抜けきれずにいた。支局からしばらく行ったところにある英国式のバーが彼のお気に入りだった。
ある晩、それはまるでイヴ・マネーペニーと会ったときのような夜だった。彼は店を訪ねると、カウンターに腰をおろして、ウィスキィを頼んだ。ここも音楽の趣味がいい店だった。
しばらく飲んでいたら、一人の男が彼の隣に座った。そして男は言ったのだ。
「こんばんは、ミスタ・カッツ」
へブライ語だった。久しく聞いた両親の母国の言葉に、イーライは身構えた。それは彼にとって本能的な防衛反応だった。
「そんなに強ばらなくて結構ですよ、ミスタ。落ち着いてください」
男はそう言って、静かに笑った。
彼はハンチング帽を目深にかぶり、顔を隠していた。ただでさえ暗い店内では、男の顔立ちはよくわからない。だが、少なくとも彼は混血であるように見えた。アジア風のエキゾチックな顔立ちだ。しかし香港人であるのか、そうでないは、さすがにわからなかった。
彼は指をパチンと鳴らすと、店員に言ってイーライと同じものを頼んだ。
「安心してください。わたしはあなたの敵ではありません。……まだ、ね」
「返答次第では敵にも味方にもなる、とでも」
「飲み込みが早くて助かります。……単刀直入に言いましょう、ミスタ。祖国のために尽くす気はありませんか?」
「あなた、誰かと間違えてませんか?」
「いえ、間違えていませんよ。ミスタ・カッツ。あなたに話しているんです。いや、今はミスタ・レノックスと呼ぶべきでしょうか?」
「どちらでもいい。……何の用だ」
「ですから、祖国のために尽くす気はありませんか? 我が国は、あなたを歓迎します。シオンの丘に帰るつもりはありませんか?」
「……なるほど。MI6が黙っていないぞ」
「安心してください。我が国の諜報部は世界最強……ご存じでしょう? すでに監視の目は散らしてあります。この店も、いまは我々が占拠しています。時代遅れの紳士なぞ、我々にとっては取るに足らない敵ですよ」
イーライ・カッツ=ネイサン・レノックスは、わかっていた。このとき、話している相手が何者か。
イスラエル諜報特務局。
ここにいる男は、イーライにこう言っているのだ。
『二重スパイになるつもりはないか……?』
*
チューズデイは、電話越しの報告を聞いて、少し嘆息した。先日からチューズデイは、レノックスの素性を気にしていた。そのそもそも理由は、彼が神という言葉を口にしたからだ。ハシェム、またはヤハウェ。それはユダヤ教における唯一神のことだ。あのとき、なぜ彼はとっさに神でなく、神と口にしたのか。些細な違いだが、チューズデイは気になって仕方なかった。おそらくレノックスはボロを出したのだろう。チューズデイは、それを見逃さなかった。
「つまりネイサン・レノックスは、MI6内部に潜む内通者である可能性が高く、また今回の事件に一枚噛んでいる可能性も高い、と?」
「そう言える」とバーンズ。「まだ確証があるわけじゃないが、ヤツがモサドと関わりがある可能性は高い。もとよりMI6は、彼がイスラエルを嫌う移民三世であると思っていたらしい……だが、現実は違ったのかもしれないな」
「そうね。……ところであなた、そんなMI6も得ていない情報、どこで仕入れたの?」
「決まっているだろう? 俺一人で手に入れたわけじゃない」
「……まさか」
「ああ、そのまさかさ」
バーンズがそう言った直後、電話にノイズがかかった。
ああ、そういうことか。とチューズデイは頭をもたげる。ついでに電話機に追加のコインを入れた。
ノイズが晴れる。バーンズの代わりに出たのは、およそ人間とは思えない声の人物だった。
「やあ、ミス・チューズデイ。元気かな?」
合成音声によって歪められた声。CIAの秘密部隊を取り仕切っているという謎の人物、Mである。
「ええ、おかげさまでね」
「ジェイムズ元副大統領の拘束には失敗したようだね。でも、君のおかげでずいぶんと興味深い真実を知ることができた。MI6内にネズミが一匹紛れ込んでいたようだね。それも、ずいぶんと昔から。ネズミはシンジケートと共謀して、何かを計画していたようだ。その事実が、君のおかげで発覚した」
「計画って? ネズミは、何をたくらんでいたの?」
「詳しくはまだ調査中だが。そうだね、わかっている範囲で説明しよう。
ミス・チューズデイ、我々《CIA》から君に新たな任務を与えよう。君の次の仕事は、モサドがひた隠しにする兵器の偵察、および破壊だ。調査の結果、ネイサン・レノックスことイーライ・ブラッドレイは、モサドとMI6の二重スパイとして、長年暗躍してきた疑いがかけられている。さらに、彼はまたシンジケートとのつながりもあると考えられる。ラヒーム・イブラヒム、サマド・サドルディン両名のスイス番号口座に奇妙な入金記録があった。おそらくシンジケートだろう。シンジケートは傭兵を雇い、ASISの犯行を装って、ヨーロッパ諸国の注意を中東イスラーム諸国に向けていると考えられる。そしてモサドのダブルスパイであるイーライ・ブラッドレイが、英国にてその支援を行った」
「……つまりシンジケートの狙いは、ASISを悪者に仕立てあげること? いまでもずいぶん糾弾されてると思うけど」
「少し違うかな。現段階における我々の推理は、欧米社会の目がすべて意図的にイスラーム諸国へと向けられること……すなわち、ネイサン・レノックスが所属するモサド――イスラエルから目を背けさせることではないかと思われる。イスラエルはシンジケートと結託し、何らかの軍事作戦を計画しているのでは、と我々は考えている。ま、ともかくシンジケートの目的が戦争の誘発だということはわかっている。彼らが何らかの方法で軍事攻撃を計画していることだけは明白だ。CIAでは、すでにイスラエル・シリア国境近くに軍事基地らしきものを見つけている。君にはそこを調べてもらいたい」
「なるほど。……ASISの残党狩りに付き合ってシンジケートの化けの皮を剥がしてやろうとおもってたけど……向こうはそれもすべて折り込み済みだったというわけか」
「そうなる。ASISは、今やシンジケートにとって捨て駒に過ぎないようだ。しょせんは囮。彼らの目的は別にあるとみて間違いない。
ネイサン・レノックスは、米軍を主軸とした連合軍のシリア攻撃の準備のため、中東に飛ぶことになっている。今日中にはベイルート経由でシリア国境に向かうとのことだ。その際、彼がシンジケートと合流する可能性は高い。君は彼を泳がせて、真の目的を突き止めろ。それがシンジケートへの近道だ」
「わかったわ。引き受ける」
「恩に着るよ、ミス・チューズデイ。偵察の用意はこちらで手配する。英国にウチのエージェントが派遣してある。彼女に従ってくれ」
「彼女?」
「ああ、彼女だ。では頼んだよ」
そうして、電話は切れた。
電話ボックスから出ると、やはりピカデリー・サーカスは喧噪の中にあった。観光客が騒がしいし、ウィンドウショッピングに来た者たちが歩道からあふれている。ラウンドアバウトには車がごった返し、また目線をあげれば巨大なディスプレイがコンピュータの広告を繰り返している。
チューズデイはそこを出て、Mの言う協力者に会おうとした。しかし、Mは何のヒントも残していない。であれば、向こうから接触があるはずだ。
そう考えながら、チューズデイはピカデリー・サーカス・ステイションに向かった。長いエスカレーターを降りて改札へ。人でごった返す改札をなんとか抜けて、駅ホームに向かう。
するとその途中で、誰かがチューズデイの肩を叩いたのだ。彼女は自然な様子で振り返り、しかし警戒を続けた。右手は腰に差した銃把に向けられている。
だが、すぐにチューズデイは警戒を解いた。相手がよく知る人物だったからだ。
真っ黒いTシャツに、黒のスラックス。その上に黒のジャケットを羽織った女。顔には鼻や唇にピアスがあり、首筋には鎖模様のタトゥーが彫られている。濃いアイシャドーは、彼女のゴスなイメージをさらに引き立てる。
その女は、デイジー・アンダーソン。MI6研究開発課の主任研究員である。白衣を着ていなかったから、チューズデイもすぐにはわからなかった。
「あなた……」とチューズデイが言葉を漏らす。
「ハロー、ミス・ボンド。……いや、チューズデイ。MI6との仕事は満了したみたいだけど、もう少し私と付き合ってもらう」
「アンダーソン、あなた……」
「ゾーイって呼んで。私はデイジー・『ゾーイ』・アンダーソン」
彼女はそう言って、チューズデイの手を引っ張る。
それから彼女はホームには向かわず、代わりにその途中にあった『関係者以外立ち入り禁止』と書かれたドアを強引に開けて、中に入った。ドアの向こうには、長く薄暗い螺旋階段が続いていた。
「アンダーソン、まさかあなたが……?」
「ゾーイって言ったはずだけど?。そう、私がMの言っていた協力者。私もアンタと同じで、金額で動く人間でね。MI6よりもCIAのが金を積んでくれたから、そっちのために動くことにした。今回だけはCIA――いや、正確にはアンタの仲間。ボスの命令には逆らうことになるけど、今回ばかりはアンタの手助けをさせてもらう」
「ボスの命令って……?」
「わからない? ネイサン・レノックスよ」
「それはわかってるわ。……彼は本当にモサドの二重スパイなの?」
「さてね。それはまだ証拠不十分だけど、可能性としては高いみたい。彼は自分のルーツを憎んでいるって話だったけど、どうして裏切ったかね……。少なくとも、冷戦終結間際に入局してから、彼はMI6で多くの成功を積み上げている。むろんイスラエルのタレコミ屋なんかをしてたかもしれないけれど、それでも対外諜報部の部長を任されているぐらいの男よ。それなりの信頼も、愛国心もあったはず」
「だけど彼は裏切った」
チューズデイがそう問うと、ゾーイは突然黙り込んだ。
しばらく進んで、螺旋階段もようやく終わりを迎えた。その先にあったのは、薄暗いホームだった。明かりはほとんどなく、あたりにはコウモリや蜘蛛の巣も多い。
「なに、ここ……?」
「廃線になっている地下鉄の一つ。計画の途中で捨てられた。でも、レールは続いているから、列車は動かせる」
すると突然、薄暗いホームの奥から金属のこすれる音が聞こえてきた。列車がブレーキをかける音だ。
なまぬるく、ほこり臭いホームに風を巻き上げて到着する一両の地下鉄。シルバーに磨き上げられた車体が薄暗闇の中で妖しく輝いた。
「これでヒースローまで行く。ヒースローに着いたら、Mがイスラエル行きの飛行機を用意している。あんたはそれに乗って、レノックスを追って。この列車なら、追っ手の心配はいらないから」
地下鉄に乗り込む。打ち捨てられて久しい列車は、しっかりとは動くものの、鉄とカビのにおいが充満していた。
ガコン、と強引にレールを伝う音がして、扉が閉まった。そしてまもなく、廃線となった列車がロンドン・ヒースロー空港に向けて出発した。
停車駅を持たない特別列車は、古く錆びた鉄のレールを走り、ヒースロー空港地下にある作りかけの駅舎に到着した。
ホームに降り立つと、また石造りの螺旋階段をのぼって地上へ向かった。長い階段は、空港の片隅に通じていた。
「ロンドンの地下には、誰も知らないような空間がまだたくさん残っている。これもその一つ」
ゾーイは自慢げに言うが、長い登り階段に息を切らしていた。
五分ほど階段を登ると、ようやく地上の光がみえてきた。改札機もない改札口を抜けると、その先には扉の閉められた通用口があった。外から鍵がかけられていたが、内側から開けることができた。
錆びきった扉を強引に開けると、その先には空港の滑走路が広がっていた。そこでは、まさに今、エアバスが飛び立たんとしていた。
「廃線になったあとにヒースローの改装工事があって、誰も知らない秘密の通用口になったとかなんとか」
「誰が計画を止めたか知らないが、今の私には好都合ね」
エアバスがジェットエンジンを始動させ、強風を巻き起こしながら空に飛び立った。ゾーイが上着のポケットに手を突っ込み、風に耐える。
「さて、ルビー・チューズデイ。私が案内できるのはここまで。あとはMがなんとかしてくれるかだろうから。あっちの倉庫の方がプライベート・ジェットのスペース。そこに行けば、Mがアンタを待ってるはず」
「ありがとう、ゾーイ」
「お礼はいい。それより、i8とエヴォーラを弁償してほしいんだけど」
「帰ってきたら、考えてやらなくもないわ」
「それじゃ、無理そうだな」
ゾーイはそう言って鼻で笑うと、また駅舎のほうへ戻っていった。
女同士、背中を向けて手を振った。お互い、手を握ったりハグしたりするのは性に合わない女だった。
*
そのころ、ネイサン・レノックスはベイルート行きの旅客機の中だった。彼はMI6エージェントとして、プライベートジェットに乗り込んでシリア国境に向かう途中だった。
広いスペースを持つジェット機の機内。安定飛行に入った機内で、彼は電話で現地スタッフとのやりとりを続けていた。中東支部、とくにイスラエル、イラク、レバノン支部のスタッフは、攻撃への準備のために情報収集を続けていた。
レノックスは受話器を片手に、熱い紅茶を飲む。
「……わかった、ありがとう。私からCIAのほうにも伝えておこう」
「お願いします」と電話の向こうの支部局長。「しかし、よく首相が攻撃を認めましたね。確かジョーンズ首相は、軍の必要以上の活動に懐疑的でしたよね? さらに言えば、我々も縮小すべきだと……」
「だが、本人がテロに巻き込まれたんだ。考えも変わるだろう。上の人間は現場を知らない。だからこそ現場を知ることで、より状況に即した判断を下すことができる……。今回の事件は、図らずも首相の見識を広げ、対テロへの強行路線を踏み切らせる契機になった。良いことだが、しかしASISは今後も我が国を敵視するだろうな」
「テロリストに屈することは、むしろ悪い判断です。彼らをつけあがらせるだけですよ」
「現場はその判断でいいんだ。問題は上がどう判断するかさ。……ともかく、君たちはASISの拠点の捜索に当たってくれ。すでにラッカなどといった主要拠点からは移動が終わっているはずだ。新たな拠点を発見、これを空爆する。……頼んだぞ」
通話を切る。
レノックスは気分を落ち着けるため、ミルクティーを一杯飲んだ。イングリッシュ・ブレックファスト・ティーをロイヤル・ミルクティーで。濃い茶葉の香りが鼻から抜けていく。
レノックスは窓越しに空を見た。さすがに上空一万メートルまで来ると肌寒く、眼下は白い入道雲で覆われていた。また、ときおり訪れる乱気流が機体をグラグラと揺らした。
そうしてカップ一杯の紅茶を飲み干したとき、座席備え付けの電話が鳴った。
「……まさか、もう報告か?」
レノックスは不審に思いながら、受話器をあげた。
まもなく、スピーカーからノイズ混じりの声が聞こえてきた。その声は、ボイスチェンジャーでねじ曲げられた、男とも女ともつかない声だった。
「やあ、レノックス。久しぶりだね、僕だよ」
「……Mか」
「そうだ。ミス・チューズデイとの契約は満了したようだね。どうだったかな?」
「彼女のおかげでテロリストから首相を守ることができた。あいにく、彼女が求めていた『シンジケート』とやらの情報は手に入らなかっただね」
「みたいだね。おかげで、ウチにも何の情報も入ってきていない。君のほうはどうだい?」
「サッパリだ。そもそも、シンジケートとかいう組織じたい、君から聞いたんだぞ。世界中の諜報機関・テロ組織の裏に暗躍する謎の組織……彼らの目的は戦争を誘発させること……だったか?」
「そうだ。CIAは現在、総力を挙げて彼らの捜索に勤めるほか、ラングレー内部に紛れ込んだネズミの駆除を進めている。MI6のほうはどうだい? ネズミはいたか?」
「どうにもいたようだ。拘留した殺し屋を逃がし、首相官邸まで導いたやつがいる」
「それは怖い。犯人の見当はついているのかい?」
「おおよそな。事件発生当時、拘留室付近にいた者を拘束している。あとは炙り出して殺すだけだ」
「おお、怖い。……しかし、その裏切り者はどうしてテロリストを逃がそうなどと考えたのかね?」
「決まっているだろう。首相を襲うつもりだったんだ。ASISのねらいは各国の首相の暗殺にある。世界情勢をかき乱すことが、連中の目的だろう? 彼らは自分たちこそが唯一正しい正義の国であると過信し、従わない国は滅ぼそうとまでしている。シンジケートという組織は、その手助けをしているんだろう。であれば、ネズミは金に目のくらんだブタか、悪魔に魂を売った狂信者だ」
「なるほど。悪魔に魂を売った狂信者か……。おもしろい。ありがとう、レノックス。僕も楽しくなってきたよ。そうだレノックス、今度会ったら香港にいたときのように、また一緒にバスケットボールでもしようじゃないか」
「この年でか? それに君は――」
その瞬間、電話は切れた。
M――彼は昔から謎の多い男だった。レノックスが香港支局にいた頃、MもまたCIAの香港にいたことがある。二人はその当時からの知り合いで、英米での協力関係が彼らの親密さを作り上げた。しかし、それでもレノックスはMの深部にたどり着くことができなかった。当時、すでに死の騎士の異名を持っていたMは、その明るく快活な声色と裏腹に、底知れない闇を持った男だった。
しかし、レノックスも人のことを言う権利はない。ちょうどそのころだったのだ。レノックスが――イーライ・カッツとしてモサドに協力を始めたのが……。
――M、お前は何をやっている……?
レノックスは窓を見ながら思った。いま、自分は国のため……いや、本当は自分自身のために戦っている。M、お前はCIAで何をしているんだ……?