6
一年に及ぶ孤児院での生活は、イーライにとってもっとも自由な時であると同時、もっともつらい時でもあった。自由といえども、孤児院でも人種による差別が無かったわけではない。結局、イーライは差別から逃れるために自分の殻に閉じこもるようになった。勉学と、音楽だ。
音楽は、ヴィヴィアンとつながる唯一の方法だった。ラジオから流れてくるボヘミアン・ラプソディを聴くと、彼はいつも楽しかった日々を思い出した。そしてそのときを思い出しては、彼女と別れてからの悲惨さを痛感した。そして気づいたのだ。もう、自分で自分の居場所を見つけていくしかない。両親は死んだ。天涯孤独であるということは、同時に誰にも指図されることはない。いかようにもなれる可能性を秘めているのだ。
もとよりイーライは成績優秀だった。しかし、今のまま学校に通っていては、親と同じ道を歩んでしまうと彼は思った。だから彼はなおのこと勉学に励み、見返してやろうと考えた。そしてパブリック・スクールへの編入を決意したのである。
それからしばらくしたある日、里親が決まった。
イーライの新たな両親は、ビル・ブラッドレイ、アン・ブラッドレイ夫妻。熟年結婚の大学教授と作家の夫婦だった。しかも二人ともアングロサクソンで、名家の出身。そんなところの養子になれるとは思っていなかったから、イーライは自分は幸運であると感じた。
さすがに養子を迎えるだけ金に余裕のある夫婦だったからだろう。二人はイーライがパブリックスクールへの編入を望んでいると知って、進んでその準備をしてくれた。おそらく彼らもイーライを迎える前にそのことを知っていて、それで養子を迎え入れる決断をしたに違いない。せっかくなら、より優秀な子を選びたいはずだ。ゆえにイーライは、そのような裕福な家庭に選ばれた。ある意味で計画通りだった。
大学教授であるビルの発言力は強く、それが編入試験の際に良い後ろ盾になった。
そして一九八〇年の春、イーライは晴れてラグビー校に入学することになったのだ。
高校での生活について、イーライは何も思わなかった。周りはみな貴族階級ばかりの中で、一人移民の孤児ということで目立ったが、彼はそれを無視した。ちょうどそのとき、ウォークマンが話題になり始めたが、イーライはブラッドレイ夫妻に頼んで買ってもらい、自らの耳を音楽で蓋をすることで周囲のノイズをかき消すことに成功した。もちろん彼が聴くのは、カセットに録音した『オペラ座の夜』だった。
学校での出来事は、耳と目を閉じ、口をつぐんでいれば済む話だった。成績さえ良くて、教師にいい顔さえしていればいい話だ。
そのことを、イーライは周囲から迫害され続けた人生の中で心得ていた。相手が思うとおりの反応をしていれば、おおむね相手は自分に対してよい印象を持ってくれる。すなわち、教師が思う狡猾なユダヤ人を演じることで、イーライはこの環境に慣れていった。下手にこの国に馴染もうとしたり、遠く離れた自分のルーツに倣う必要はない。ただ、ステロタイプな人物像を演じ続けていればいい。それが彼が会得した処世術だった。
しかし、そんな彼にも避けられないことが一つあった。それは、里親との確執である。
長期休みに入ると、多くの生徒は寄宿舎を出て実家に帰る。イーライの場合もそうだった。特にブラッドレイ夫妻は成績を気にするタチだったので、休みに入るたびに手紙をよこし、直接学校の様子を報告しに来るようにと言ってきた。だからイーライは、毎年長期休みには、バーミンガムにあるブラッドレイ邸に行かなければならなかった。そして、イーライにとってはそれが最大の苦痛だった。学校の出来事は無視できるが、親はたとえ義理であっても避けられぬ存在であったのだ。
ロンドンから特急に乗って数時間。キャリーケース片手にバーミンガム駅にたどり着くと、義母のアンが待っていてくれた。しかし、イーライは彼女のことを母親などとは思っていなかった。だが、少なくとも義父よりは心の許せる存在だと思っていた。
アンはいつも控えめの色をした服装で現れる。このときも落ち着いたブルーのドレスだった。
「おかえり、イーライ。荷物、お母さんが持つわね」
彼女はそう言うと、イーライからキャリーケースを取り上げる。そして、駅前のタクシー乗り場まで引っ張っていった。
タクシーに乗ると、アンは運転手に自宅の場所を言って、出発させた。運転手も手慣れているのか、「ブラッドレイさんですね」と応じていた。
「どう、学校は楽しい?」
タクシーが動きだして早々、アンは問うた。
「は、はい。楽しいです」
イーライは適当に返して、窓の外を見た。
ブル・リングのショッピングモールをぐるりと回って、タクシーは住宅街を目指す。バーミンガム大聖堂近くの通りを抜けると、大きな目をしたフクロウの像がいくつも立っているのが見えた。色とりどりのフクロウたちは、瓶底眼鏡のような大きく丸い瞳でイーライを見つめていた。
「勉強はどう? はかどってる?」
「おかげさまで、とても充実してます」
「そう、良かった。ビルがなんて言うか楽しみだわ。ウワサに聞いたけれど、成績は良いらしいわね。でも、編入生だからって何か陰口言われてない? 孤児だったからっていじめられてない?」
「大丈夫です」
イーライは毅然とした態度で言い、外の風景を見続けた。
大丈夫。自分は、周りの人間とは違う世界に生きているのだから。彼らに関わる必要もない。彼らが求めるイーライ・ブラッドレイを無心で演じていればいい。いつか憂き目を見るのはそちらのほうだと、そう信じながら。
黒塗りの小型タクシーは、ぶるんとエンジンを震わせながら、バーミンガムの道を進み続けた。
自宅に着くと、義父がクルマを用意して待っていた。彼はちょうど仕事を終えて帰ってきたところのようで、まだスーツにネクタイ姿だった。
大学教授であるビルは、ふだん滅多に家に帰ってくることはない。長期休みのときだけちょくちょく帰ってきて、妻と息子を食事に連れて行く。イーライが嫌いなのは、それだった。
ビルは禿頭をかきながら、メルセデスSクラス・W116のエンジンを始動させていた。
「帰ってきたか」と彼はぶっきらぼうに言った。
ビルは、イーライに目線を合わせることもなかった。ただ車内を見据えたまま、なんとなく息子との会話をする。彼にとっての養子とは、そんな存在だった。ビルはあまり子育てに熱心では無かったのだ。
「ただいま戻りました」
「ああ。……出掛けるぞ。はやく支度しろ」
「わかりました」
それからイーライは、スーツケースを自室に置くと、急いでクルマに戻った。ビルは物静かだが、せっかちな性格だ。帰省早々へたに刺激したくはなかった。
制服姿のままクルマに乗ると、ビルは中心街へ向けて出発させた。目的地は、ちょうど戻ってくる途中で見たブル・リングのショッピングセンターだった。せっかく息子が帰省したから外食をしよう、というのがビルの考えだ。しかし、彼のその考えは、子への愛情というよりは、妻や隣人に向けて父親像という体面を保つためだけの行為と言えた。息子に何か買い与えてやる、食わせてやる……。ビルの行為はそこで終わり、それ以上の父性や愛情と呼べるようなものは無かったのだ。彼の興味や関心は、あくでも自分のことか、研究にとどまっていた。
だから、イーライはビルと食事をするのがイヤだった。
この日、彼らが行ったのはブル・リングにある日本料理店だった。すだれや座敷、また漢字で書かれたメニューといったアジアンテイストな店内が特徴だ。
ビルはコース料理をあらかじめ予約しており、奥のテーブル席には「ブラッドレイ様」と張り紙が付されていた。
席に着くと、真っ先に湯飲みに入れられた緑茶が出た。それから前菜として刺身と香味野菜の盛り合わせが届いた。
ビルは、真っ先に酒を頼んだ。アンは「運転はどうするの?」と問うたが、「少しぐらいいいだろう」と怒り気味のいらえが返ってきたので、それ以上追求することはなかった。
メインディッシュの鯛のグリルが出てくるころには、ビルはもう完全にできあがっていた。彼は決して意識がもうろうとしていたとか、千鳥足だったとか、そういうわけではなかったのだが、ずいぶんとお手洗いが近くなっていた。店員に緑茶を頼んでは、そのつど席を立つような形になっていた。
テーブルには、結局イーライとアンだけのようだった。アンは魚を器用に箸でほぐしながら食べる。彼女は日本にも造詣が深く、箸の使いもかなりの腕だった。
「イーライ、ビルのことどう思ってる?」
突然、アンは緑茶をすすりながら言った。
「父さんのこと、ですか?」
――父さん。
本当は、誰のこともそう呼びたくはなかった。イーライが真に父と思える存在は、いまのところどこにもいなかった。だが、アンとビルがそう呼べとというので、渋々それに従っていた。
「そう。あの人不器用だから。でも、本当はあなたのことを思っているのよ」
「はい。わかっています。父さんと母さんには、とても感謝していますから」
「そうね。私たちもあなたに感謝しているわ、イーライ。あなたは優秀だから、それだけでいいのよ。自分の生まれとか、そういうことに悩む必要はないの。いい?」
「はい、わかっています」
イーライは言って、深くうなずいた。熱いお茶をすすると、少しだけ落ち着くことができた。
「それでね、イーライ。この休み中に、旅行に行こうと思うの」
「旅行、ですか?」
「ええ。私たち三人で。ちょうどビルが学会の都合でミュンヘンに行くことになってね。あなたも行くべきだと思って。あの場所……ドイツには、きっとあなたが知るべき場所があるわ」
「……僕が、ユダヤの血をひいているから、ですか」
「そうは言ってないわ。でも、人は誰しも自分の過去と向き合う必要があると私は思うの。だから……もう切符はとってあるから。いいわね?」
イーライにはもう、うなずく他に選択肢は残されていなかった。彼は黙って首を縦に振り、茶をすすった。
*
一月のミュンヘンは想像以上の寒さだった。イーライはシャツとジャケットの上にダッフルコートを重ね着し、さらに革の手袋とマフラーまでしていたが、それでも凍えるような寒さだった。
一九八一年の冬。緊張緩和を迎えた西ドイツは、もはや戦争の名残などないかのようだった。特に七二年にオリンピックを開催したミュンヘンは、活気に満ちあふれていた。
ブラッドレイ一家が宿をとったホテルからは、ちょうどオリンピックスタジアムを望むことができた。ドイツに着いたその日、イーライがまずホテルについてやったことと言えば、バルコニーに出てミュンヘンの街を見渡すことだった。
美しくよみがえった街に、もはや戦争の陰はない。しかし、それでもイーライは、この街に恐るべきものを感じ取っていた。言うまでもない、七二年のミュンヘン・オリンピック事件。それは、イスラエルからの独立を望んだパレスチナ武装組織『黒い九月』によるものだった。アンは「過去に立ち向かうべき」とイーライに語って聞かせたが、よもや入国早々、自分のルーツを恨むようなことになるとは思っても見なかった。……いや、多少は考えていたのかもしれないが、イーライはあまりそれについて思い出さないようにしていたのだろう。子供のころ、そして今も、自分の過去と現在に板挟みにされる苦痛――それを思い出したくなかったから。
一日目は、長旅の疲れですっかり寝てしまった。ホテルのレストランで気まずい食事をしてから、眠りについた。
翌日の朝には、ビルが学会があると言ってミュンヘン大学へ行ってしまった。アンとイーライの二人きりになると、観光に行く以外やることはなくなった。
アンはクルマの運転ができなかった。彼女はもともとサトクリフ家の長女であり、箱入り娘として育てられた。社交界でのマナーを叩きこまれ、良家の妻となることだけを教えられた彼女は、その反動で文章を書き始め、そしてそれが職となった。ゆえに彼女の生涯は、貴族の家柄としての生活と、作家としての生活しか無く、クルマを出したり料理をしたりということは、ほとんど無かった。まさしく貴族階級を体現したような存在だったのだ。
アンはホテルの前までタクシーを呼びつけた。彼女は流ちょうなドイツ語で「ありがとう」と言ってから、タクシーに乗り込んだ。
そうしてアンが告げた目的地。タクシーの運転手に言ったその場所の名を、イーライは決して忘れなかった。
アンはこう言ったのだ。
「ダッハウまでお願いします」と。
ホテルからダッハウ強制収容所跡地までは、クルマで三十分ほどだった。住宅地を抜けてハイウェイに入り、それからダッハウまで。アルテ・レーマー通りまで来ると、車内からでもその全貌を見ることができた。
巨大な門と、有刺鉄線の跡。高くそびえ立つ壁と監視塔が収容所を見下ろしていた。赤い屋根の平屋が、運動場を取り囲むように広がっている。そしていくつかの建物からは、長く太い煙突も見えた。それらが悪名高いガス室、そして焼却場であることはイーライにもすぐにわかった。かつて――いまから四十年ほど前には、あそこから黒い煙が立ち上っていた。人間の焼け焦げた、その痕が。
そんな地獄絵図を幻視したとき、イーライは思わず体が震えたのがわかった。幻覚は彼の体を蝕み、臭覚にまでも至った。鼻から脳へと突き抜ける腐乱臭と蛋白質の焦げた臭い。強烈な悪臭が彼の脳を刺激した。
一瞬、イーライは四十年前にタイムスリップしたみたいだった。しかし、アンが手を握ってくれたおかげで、彼は現実に戻ってこれた。
「目を背けてはダメよ、イーライ。あなたも、私も、この現実を受け止めなくちゃいけない。いいわね」
イーライはアンの問いかけに答え、静かにうなずいた。
タクシーを降りると、二人は門の手前から収容所を見た。
この当時、ダッハウは難民の居住施設として再建されていた。
かつて囚われていた人々からは、あの惨劇を忘れないためにもモニュメントにすべきだ、という声があがっていたが、それが現実になるのは、世紀をまたいでからになってしまった。
ゆえにこのとき、イーライは外側からしかダッハウを見ることができなかった。しかし、それでも彼には十分だった。
かつて、超高度実験などの人体実験や、飢餓、チフス、ガスによる虐殺などで数多の人がここで死んだ。その多くが、イーライと同じルーツを持つ人々だった。
そしてこのとき、ダッハウには飢えに苦しむ難民たちが押し込まれていた。イーライには、それが当時の再現に見えてならなかった。もちろん彼には当時の状況などわからないから、想像にすぎない。現実はもっと恐ろしかったはずだ。だが、それでも、彼の恐怖をかき立てるには十分だった。
アンは、そんなイーライの手を掴んで、言い聞かせた。
「自分のルーツに誇りを持ちなさい、イーライ。でも、それは過去を継承することではないわ。あなたは、あなたらしい生き方をしていけばいいの。でもね、そのときあなたは、自分たちが歴史で一番つらい時を過ごしてきた民族の一人なんだって、思い出しなさい。そして誇りに思いなさい。それはいつか、あなたのためになるわ」
「……はい」
イーライは、静かにそう応えた。そうしか言いようがなかった。
言葉は必要ない。彼はただ、ダッハウの姿をその目と、心に焼き付けたのだ。
*
ミュンヘンへの旅行は、楽しいものだったと、イーライは記憶している。しかし、ダッハウでの出来事の印象が強すぎて、そのほかの記憶は薄れていった。
ビルの学会については、何も覚えていなかった。ビル・ブラッドレイは、航空宇宙学、航空力学の博士であるが、いったい彼がどのような学会のためにミュンヘンに来ていたのか。イーライにはそれを知る由はなかった。ビルも教えるつもりはなかっただろう。彼はイーライに対して、あまり積極的ではなかったから。
しかし、ビルとの思い出がまったく無いというわけではない。一度だけ、ビルと一日を過ごしたことがあった。
それは、ラグビー校の卒業を控えた八三年の夏の日のことだった。イーライは夏期の長期休暇のためにバーミンガムに戻ってきていた。ビルははじめ研究室にこもりきりで自宅には戻ってこなかったが、ある日突然帰ってきた。そして、彼は全長一メートルはあろう巨大な模型飛行機を持ってきたのだ。
「イーライ、出掛けるぞ」
ビルはぶっきらぼうに言って、自室で受験勉強に取り組んでいたイーライを引っ張り出した。
ビルとイーライはメルセデスに乗り込んで、近所の野原まで向かった。ちょうどいい平原を見つけると、ビルはクルマを停めて、トランクからその飛行機を取り出した。
「これは、私がハイスクールにいたころ作ったものなんだ。今見るとひどい出来だが、これでもしっかり飛ぶんだ。見てろ」
ビルはそう言うと、芝の薄い平原を見つけて、そこに模型飛行機をおいた。
機体中央部にあるエンジンを始動。ガソリンエンジンが雄叫びをあげ、全長一メートルのレシプロ機を動かし始めた。
ビルは、ラジコンのコントローラを構えると、フラップを下げさせ、エンジン出力をさらにあげた。ぶるん、ぶるんと雑音を響かせた後、エンジンは甲高く小気味よいサウンドに変わる。風を切るプロペラの音が鳴り響く。
それから模型飛行機は、野原という滑走路を走破し、ふわりと機体を浮かばせた。上昇開始。出力を増大させながら、機体は右へ旋回。ゆっくりと高度を上げていく。夏の暑い日差しの中へ、飛行機は吸い込まれていった。
それからビルは、得意げにいろいろなマニューバを披露してくれた。インメルマン・ターン、スプリットS、シャンデル、ハイ・ヨー・ヨー……。「どうだ、すごいか?」と自慢げにイーライに迫るビルは、まるで子供のようだった。
しばらく飛んでから、飛行機は滑走路に戻ってきた。ビルが高校生の時に作ったそれは、どうにも久しく空を飛んだようで、とても心地良さそうな良い顔をしていた。
ビルはいったんエンジンを空転にしたまま、機体を静止させた。ビルもまた恍惚とした表情で、模型飛行機を見ていた。
「イーライ、おまえも飛ばしてみるか?」
「僕が、ですか? でも、僕は……」
「いいからやってみろ。壊しても構わんから。飛ばしかたなら教える」
「じゃあ……」
と、イーライはビルからコントローラを受け取る。六本のスティックといくつものスイッチ。そして長いアンテナを持つそれは、イーライの手にずっしりとのしかかった。
「まずはそのスティックを下げて、こっちのスティックを上に押し上げる。それで離陸の準備が整う。やってみろ」
「ここのスティック?」
「そうだ」
言われたとおりにコントローラを動かす。
飛行機はプロペラを回転させ始めた。はじめはゆっくり。調子づいてくると、一定間隔のリズムを伴って空を切る音を響かせた。まもなく、草原の滑走路を走って、飛行機は上昇を始めた。
「よし、それからそっちのレバーを戻して。出力は少し控えめ。で、今度は下のスティックを起こして……そう、昇降舵を操作して。上昇だ」
模型飛行機が、尾翼をくたりと動かした。刹那、急上昇を開始。青空を突き抜けるように飛んでいく。
「そうだ、いいぞ。次、そっちの横に動くスティックを使って……そうだ。右へロールしろ。バレルロールだ」
右へ向かって一回転。何かから逃げるようにバレルロール。機体は右への旋回を始める。
「ロールとエレベーターを使って、うまいこと操縦してみろ。落ちないようにな。とにかく、自由に。自分の思うままに飛ばしてみるんだ」
「うん……」
イーライは応えて、今度はビルの言葉なしに操縦を始めた。
舵を切って、左へロール。機体が九〇度傾いたまま、旋回を始めた。急旋回、Uターン。それからヨーイングで方向を修正しつつ、今度は後方宙返り。上空でアクロバットを決める。
風にのり、自由に飛ぶ。それは、これまでの人生でイーライは一度も経験しなかったことだった。ずっと、誰かの顔色ばかりをうかがってきた。誰かの命令ばかりに従ってきた。社会に重苦しく流れる空気というものばかりに従ってきた。だから、こうやって飛ぶのが新鮮で、とても楽しかった。
「どうだ、楽しいか?」
ビルは低い声で問うた。彼の声色からは、感情というものを推し量るのが困難だった。
「はい、楽しいです」
「そうか。よかった。もっといろいろやってみろ」
言われたとおり、イーライは他にどんな飛び方ができるだろうか、試してみることにした。
舵を切り、まっすぐ飛ぶように調整する。夏の太陽に向けて、飛行機が進む。
するとそのときだ。突然、突風が草原に吹き付けたのだ。それは近くの大地から吹き付ける。力強い風だった。草木はその風に激しく揺らされ、草原は海のように波打った。そして蒼穹もまた、風によって強い波を引き起こされたのである。
突然の風にあおられ、機体が大きく回転した。何も操作していないのに、機体が大きく右へロール。きりもみ状態になり、ついにコントロールを失った。糸の切れた人形みたいに、突然ぷっつりとその動きを途絶えさせたのだ。もはや風にあおられるだけの暴れ牛と化した模型飛行機は、なす術もなく地上へ落ちてくる。
ぼちゃん、とまるで水に落ちるような音がした。実際は、濡れた草間に落ちた音だった。
ビルはその一連の様子を見て、顔面蒼白になっていた。「壊してもいい」と口では言っていたものの、実際はそんなこと微塵も思っていなかったのだろう。
イーライは、そのときビルが発した言葉を決して忘れない。
ビルは飛行機のほうへと走っていくとき、こうつぶやいたのだ。「ユダヤ人め」と。
あとで聞いた話だが、ビルが突然イーライを誘って飛行機を飛ばしに行ったのは、すべてアンによるものだったという。イーライに不干渉なビルを見かねて、一度二人でどこかに遊びに行くと良いと、アンが言ったのだという。その結果がこれだった。
イーライにとっては、むしろ状況は悪化したように見えた。しかし、ある意味ではプラスでもあった。
結局、自分がいくら足掻こうとも、自らの出自というものは付いてまわるのだ。イーライは自分を隠すために様々なことをした。板挟みになった状態から、世間に合わせるようにシフトした。マイ・フェア・レディではないが、彼の英語は両親たちのイディッシュ訛りから離れて、クイーンズ・イングリッシュに近い発音になった。そのうえ名家の養子になり、いまではパブリック・スクールの学生だ。どこに恥じるところがあろうか? だが、それでも。そこまで来ても、彼はユダヤと罵られるのだ。
アンは言った。それを誇るべきだと。そんな事ができるのかと彼は思った。
そして、誇ることなどはじめから無理なことだったのだと、大学生にまでなると気づき始めた。彼はわかったのだ。結局、自分は誰かの顔色をうかがい、存在を希薄にさせる努力をしてきただけにすぎないのだと。
それに気づいたのは、ちょうど大学に入る直前のことだった。
イーライは、学校の推薦もあってオックスフォードで法学を学ぶことになった。もはやイーライのことなどどうでも良くなっていたビルは、「オックスフォードならどこでもいい」と言ったが、アンはそうはいかなかった。
初めて進路について相談したとき。アンは食卓できりきり舞いを起こした。夕飯は鴨のローストに野菜、グレイヴィーをよく吸ったヨークシャー・プディングだったのだが、彼女はそれらすべてを机の上にひっくり返した。アンが怒るのを見たのは、これが最初で最後だった。
「イーライ、私は言ったはずです。あなたは芸術を学ぶべきだって」
「はい。でも僕は――」
「でも、ではありません! あなたは、私と同じく芸術を学ぶべきよ!」
「まあ落ち着け、アン」ビルがなだめるように。「彼も男だ。芸術では食っていけんことぐらいは知ってる。法学を修めれば、弁護士だろうが検事だろうが、あるいはどこかの企業の法務課にだっていける。少なくとも食い扶持は確保できるはずだ」
「いままでずっとイーライを放っておいたくせに、よくそんな口が利けますね!」
「放っておいたからさ。彼の判断に任せる。もう十八だ。自分の道ぐらい、自分で決められる年だろう。違うか?」
イーライは黙ってうなずいた。
しかし、アンは承伏しなかった。アンは机上のグラスワインを一杯あおると、鼻を鳴らして食堂を出て行った。
そのときにイーライは気づいたのだ。アンが積極的だったのは、結局自分にとって都合のいい子供がほしかっただけにすぎない。彼女もまた、イーライに価値観を押しつけていただけなのだ。そこに善意なんてものは無かった。
そのとき以来、イーライにはアンの行為がすべて邪なものに見え始めた。でも、それでよかったのだ。この世の中に、邪な理由以外に人を動かすものはない。あるとすれば、それは無関心という行為だけだ。ビルのように。
結局、イーライは法学に進んだ。それが正しかったかどうかはわからないが、しかし、人生にとって大きな分岐となったことは違いない。
彼はロンドンとバーミンガムを離れ、また一人での生活が始まった。オックスフォードでの、一人の生活だ。