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ハートブレイカー  作者: 機乃 遙
ハートブレイカー 第一部
5/13

 そのころ、ネイサン・レノックスは首相官邸にいた。ジョーンズ首相の執務室。シックな調度品と、暖炉、そしてカーペットに転がるネコと黒服のボディガードたち。レノックスは彼らを前に、首相と話を進めているところだった。

「……やはりASISは私をねらっている、ということで間違いないんだね?」

「ええ、違いありません。現在MI6は、その首謀者であるサマド・サドルディンを拘束しています。サドルディンは数々の暗殺に荷担してきた男であり、今回暗殺は阻止できましたが、今後もASISは我が国を狙ってくるものと思われます。パリやニューヨークであったように、我が国でも爆破・銃撃テロが起きるのも時間の問題であると」

「やはりテロ対策は国際的な課題になるか」

「はい。そこでですが、軍への報復行動の命令をお願いいたします。現在、MI6では米軍と我が国との共同作戦を準備中です。今後、テロに屈しない英国というイメージを形作るためにも、いまこそ軍を動かす必要があります。このままでは、テロリストの思う壷です」

「それはそうだが……」

 ジョーンズは言って、目元を押さえながら俯いた。

 ASISの活動が活発化したのは、ちょうど選挙戦の直後。ジョーンズが二期目を勤めはじめたあたりだった。その当時から、彼は不用意に報復行動には荷担しないというスタンスを取ってきていた。ゆえに英国は支援物資を送るのみで、直接の攻撃行動には参加しなかった。国民の中にはそれを批判する声もあったが、余計に軍を動かすことは様々な問題につながりかねない、という彼の考えはもっともなことだった。それに、英国にはテロ以上に連合王国内での問題がある。ジョーンズとしては、ASISは内政問題よりも下に位置するものだった。

「野党からも、米・仏・露軍との対テロ共同戦線を模索すべきであるとの意見もあります」

 側近の一人がそう発言した。

 レノックスもうなずく。

「強い英国、というイメージを見せるべきです。さもなければ、今後もテロリストは我々に攻撃を続けるでしょう。彼らは話し合いで解決できる存在ではありません。彼らの目的は、あくまでも異教徒である我々を殺すことにあるのですから」

「それはそうだが……そうだな……」

 ジョーンズ首相は深いため息をもらした。

 それから部下に言って、一杯の紅茶を用意させた。ひとまず落ち着いて考えさせてほしい、という意思表示だった。

 しばらくして紅茶が運ばれてきた。そしてそれ時を同じくして、首相執務室にスーツ姿の男が入ってきた。

 背の高いラガーマンのような男は、「失礼します」と一言断って室内に入ると、レノックスに耳打ちした。

「部長、緊急事態です。サドルディンが地下から脱出したと、先ほど報告が」

「なんだと? あそこからは抜け出せないはず……!」

「誰かが手引きしたものと思われます。現在、外注の工作員がサドルディンの行方を追っているとのことですが……」

MI6(サーカス)のなかに裏切りものがいる、か……。サドルディンはどこへ向かっている?」

「それが……」と、男は屈強な体躯を縮こませて、不安そうに言った。「それが、首相官邸ここらしいんです」

「ここだって……?」

 その次の瞬間だった。

 突如として警報音が鳴り響いた。あわてる秘書官をさしおいて、ボディガードたちがジョーンズを取り囲む。

 レノックスは、額にイヤな汗が流れるのを感じた。

「もうきたか……。首相、地下の通路へ。ここから脱出します」

「なんだ? なにが起きているんだ?」

「最悪の事態です。例の暗殺者――サマド・サドルディンが脱獄しました。ヤツは、ここにやってきます」


 ジョーンズ首相はボディガード四名に護衛されながら、さらにMI6エージェントに囲われつつ、地下通路を目指した。

 状況は切迫していた。レノックスが右耳にさしたイヤフォンからは、本部での怒鳴り合いが聞こえてきた。

 レノックスは彼らに一言、「情報をくれ。なんでもいい」と、言った。

 まもなく、部下の一人が通信に出た。

「本部地下で爆発が起きました。その直後、警備員数名が負傷。犯人とおぼしき男、サドルディンは、研究開発課を通り抜けて、改修中のアストンマーティンを強奪。逃亡しました。幸いトラッカーがついているので、現在位置は把握可能なんですが……」

「やつの位置は?」

「すぐに送信します」

「……クソったれ、最悪の事態だ」

 レノックスは吐き捨てるように言って、腰のホルスターから拳銃を抜いた。ワルサーPPK/S。こういうときのために、彼は小型拳銃をいつも携えている。

 廊下を抜けて地下通路の入り口へ。警報音が鳴り響く中、一行はそこまでたどり着いた。

 そのときだった。

 爆音。無数の銃火の轟きと、それに付随して起きた爆発。耳をつんざくような激烈な音が、首相官邸に響きわたった。そして直後、けたたましいエキゾーストノートがこちらに向かって近づいてくるのが聞こえてきたのだ。

 細い廊下を、カーペットを巻き込んで強引に走ってくる一台の車両。カーボン・ブラックのアストンマーティンDB9。その運転席には、もはや暗殺など忘れた狂戦士がいた。彼は左手でハンドルをつかみながら、右手には筒のようなものを持っていた。ハートブレイカー。強力なマイクロ波兵器である。

 クルマは壁にぶつかって急停車。一行から一〇メートル先で白煙を上げて止まった。ドライバーのサドルディンは大きく体を揺らしたが、シートベルトが彼を支えた。フロントガラスの向こうに映る彼の瞳は、アドレナリンで満たされ、錯乱しているようだった。

「死ね! ウィリアム・ジョーンズ! 神は偉大なり!」

 刹那、ハートブレイカーの先端に赤い光が灯った。

 ボディガードの一人がジョーンズ首相の前にでて、盾になった。まもなく男は顔を白くさせ、その場に倒れる。心停止。もう息をしていない。

 絶対絶命の事態。首相は地下通路のセキュリティパスを開くところだった。このままでは、もうダメか。

 レノックスはワルサーを向け、引き金に指をかけた。こうなれば、自分の命を捨ててでもテロリストと渡り合う覚悟はある。

 照準もろくに合わせずトリガーを引いた。しかしワルサーの32ACPでは、とてもじゃないがDB9の装甲は貫けない。レノックスは続けざまに発砲したが、そこにはフロントガラス越しに不敵に笑むサドルディンがいるだけだ。

 サドルディンは、右手でハートブレイカーを構え、左手でハンドル脇にあるスイッチを押した。ボンネットから機関銃が現れる。本来は二門のはずだが、片方は事故の衝撃で止まっていた。しかし、それでも十二分な火力だ。自動照準が作動。銃口が動き、人の形をしたした熱源に狙いを合わせた。

「伏せろ!」

 レノックスは叫び、DB9の下に潜るように飛び込んだ。

 その直後のことだ。伏せて視界を失ったレノックスの耳に、地響きのような銃声が鳴り渡った。腹を揺らすような、低く響く7・56ミリの轟音。まき散らされた鉛のうちの一発が、彼の背中をかすめていった。肩胛骨のあたりから暖かいものが流れるのを感じた。しかし、アドレナリンが効いているのか、不思議と痛みは感じなかった。

 銃撃は三秒ほど続いた。頭上をかすめていく死の息吹。しかし、それはある爆音とともに掻き消された。

 何かが、コンクリートを突き破ってきた。首相官邸の壁をぶち抜いて、一台のスポーツカーが飛び込んできたのだ。ロータス・エヴォーラ400。シルバーの車体が獲物に飛びかかる豹のように、屋内に飛び込んできたのだ。

 壁を突き破ったエヴォーラは、DB9の横っ腹に衝突した。直後、エヴォーラのボンネットから機関銃を展開。二門の機関銃は、サドルディンごとDB9を蜂の巣に変えた。

 爆発、炎上。サドルディンの血液が爆弾のように飛沫をあげ、あたり一面を真っ赤に染め上げた。いつもは猫が転がる美しいカーペットは、いまや鮮血とガソリンに染められていた。


     *


 ――なんとか間に合った。

 ルビー・チューズデイの額は、冷や汗でいっぱいだった。焦りと恐怖で発散された体液が、髪の毛にへばりついて気持ち悪い。その上、首相官邸に飛び込んだときに作動したエアバッグが彼女の顔を台無しにしていた。

 チューズデイは多少髪型を整えてから、ひしゃげたクルマから降りた。粉々になった首相官邸を見上げて、チューズデイはすこし派手にやりすぎたと感じた。炎上するアストンマーティンと、それに突っ込んだロータス。ひどいありさまだ。

 イヤフォンからは、デイジー・アンダーソンの怒声が響いていた。

「DB9のシグナルがナンバー10で止まったけど、アンタ何をやったの?」

「ちょっとした事故よ」

 チューズデイはそれだけ言って、通信を切った。

 首相は無事だった。ボディガードが二名負傷。一名死亡という事態に陥っていたが、暗殺犯を止めることができた。

 背中に銃弾を喰らったネイサン・レノックスは、部下の肩を借りながらも、立ち上がっていた。彼は「かすっただけだ」と言っているが、部下は肩を貸さずにはいられないようだった。

「すまん、ミス・ボンド。まさか我々もこのような事態になるとは思っていなかった」

「私がロンドンにいて本当に良かったですね。……いまのMI6には、おそらく内通者がいます。誰かが、何らかの目的でサドルディンを逃がしたものと考えます」

「そうだろうな。私もそうとしか考えられない。だが、ひとまずこれで何とかなったな」

「私の頼み綱はなくなりましたがね」

「確かに、それは申し訳ない。君はシンジケートの情報がほしかったのだものな」

 レノックスは嘆息し、申し訳なさそうに頭をかいた。

 彼も負傷し、かなり疲弊している。よろけたレノックスを部下が支えた。なんとかなったが、状況は最悪といったところだ。

 そんな最悪の状況下で、ウィリアム・ジョーンズ首相の意志は固まったようだった。彼は二人のボディガードに付き添われながら、レノックスとチューズデイのもとへやってきた。

「まず君は……えーっと」

「ボンドです。ジェイミー・ボンド」

「ミス・ボンド。礼を言わせてもらう。君がいなければ、私は死んでいただろう」

「礼は結構です。仕事ですから」

「そうか。今後も期待しているよ。それから、レノックス君。私の意志は決まったよ」

「つまり、それは……」とレノックスがよろけながら応える。

「ああ。テロリストに屈するわけにはいかない。君の言うとおりのようだ。今すぐ我が国も、米国主導の多国籍軍に参加。ASIS殲滅に協力する」


     *


 あくる日の朝。BBCブレイキング・ニュースでは、かなりの時間を割いて首相演説を放送していた。

 昨日のダウニング一〇番地襲撃事件。首相官邸襲撃という未曾有の大事件に、メディアが沸かないはずがなかった。SkyやITVもこぞって事件の様子を報道していた。そして、それに続く首相演説。テロには屈しないと強く宣言するジョーンズ首相の姿は、特に注目して映されている。

 国民の意見は、彼の意志に賛同的な様子だった。BBCが実施した緊急世論調査では、英国の多国籍軍参戦に賛成するという意見が六割以上を獲得したと発表している。9・11以降テロに対する関心は増すばかりであったが、現実に首相が襲われるなどという事態が発生したことで、ようやく国民も気づいたのだろう。テロリストは根絶やしにするべきである、と。

 しかし、チューズデイは彼らの意見には懐疑的であった。だが、あくまでも中立の立場をとる彼女には、あれこれ言う権利はなかった。そもそもチューズデイは、金額によってどの立場にも転がる女だ。


 その日の十時過ぎ、ルビー・チューズデイは、MI6が用意したホテルから這い出た。この日の彼女は、やけに注意深かった。いま起きているこの状況を考えた結果、彼女の中で一つの仮説ができつつあったからだ。

 MI6は、このホテルにも何か細工を施しているに違いない。そう踏んだチューズデイは、あくまでも自然なフリをして、最寄り駅のユーストン・ステイションに向かった。そこからビクトリア・ラインのブリクストン行きに乗り込み、ヴォクソール・ステイションで降りた。ヴォクソールで彼女は、MI6本部を訪ねるフリをして、あちこちを歩き回った。

 監査探知ルート(SDR)をとったチューズデイは、もとより尾行者をまくためだけに動いていた。ただでさえゴミゴミとしたロンドン市内を、複雑なルートで進む。しばらくして監視の目が無いことに気づいた彼女は、再びビクトリア・ラインに乗り込んだ。そしてオックスフォード・サーカスで乗り換え、ピカデリー・サーカスで降りた。ここは特に人が多い。行方をくらませるには絶好の場所だ。

 ゴミゴミとした駅舎の中で、チューズデイは追手をまいたと確信した。

 そしてさらに人の多い地上に出ると、彼女は手近の電話ボックスを見つけ、国際電話をかけた。

 しばらく録音によるガイダンスが流れてから、しゃがれた声の男が出た。アーネスト・バーンズ。元CIA工作員であり、現在はフリーの調査員。チューズデイの唯一の協力者とも言える男だ。

「ユニバーサル貿易のボンドと言います。ジェイク様で間違いないでしょうか」

「そうだ。……おまえから頼まれていたアレ、調べ終わったぞ」

「で、結果はどうだったの?」

「一つわかったことがある。おまえが言ってたサマド・サドルディンって男のことだ。確かに、ASISにはラサーサというコードネームの男がいた。その本名もサマド・サドルディンで間違いない。しかし、そのサマドは半年前に死んでいるようだ。それも、シリアの内線地域でな。ヤツは欧州での仕事を終えたあと、シリアに密入国しているらしい。偽造パスポートもCIAが押さえている。その後、ヤツはシリアで仏露の爆撃に遭ったとかなんとか。決定的な証拠には欠けるが、サマドはおそらく死亡している。生存している確率は低い」

「やつが身分を隠匿するために死を装ったという可能性は?」

「俺やおまえ、CIAやMI6ならできない話ではないだろう。だが、奴は単独シングルトン目標選定人ターゲット・オフィサーだったと聞いている。何らかの組織のお膳立てがなければ難しいだろう。だが、今のASISにそのような力はない」

「となれば、やはり組織シンジケート……?」

「さてな。サドルディンは、組織ヤツらが死亡を装って送り込んだ聖戦士か。あるいはまったく別人の傭兵をASISの兵士と偽って送り込んだのか。……ま、ともかくヤツは、半年前に死んでいる可能性が高い。お前がロンドンで遭遇したってヤツは、偽物か、それとも死を装った本人だろう。それと、ヤツの本業はテロの計画と、実行準備。本来は前線に立って鉄砲玉になるようなヤツじゃなかった。ぜったい何かがあると思うぞ」

「そうね……。サマドは今回、ナンバー10に特攻じみた攻撃をしかけてきた」

「そうらしいな。MI6は責任問題で大忙しらしいが……。とりあえず、単刀直入にわかったことを言おう。おまえが殺したって言うサマド・サドルディン――あるいはラサーサと名乗る男は、シンジケートに雇われた可能性が高い。おそらくプロの傭兵だろう。サドルディンは、身分を偽って英国内に侵入。ラヒーム・イブラヒムとともにテロを実行した。それからラヒームって男だが、そいつもどうやらタダのASIS兵ってだけじゃなさそうだ」

「二人とも雇われで、ASIS関係者ではない、と」

「少なくともアフマドの信奉者ではなさそうだ。金に困ってASISに入った野郎でもない。どっちもプロの傭兵らしい」

「つまり何者かがASISを騙るテロを実行した、と」

「そう考えられるな。誰かが意図的に英国内でASISの評判が悪くなるようなことを起こした……とでも言おうか」

「わかったわ。……それで、もう一人のほうは? 調べついてる?」

「ああ、そうだったな。そっちも伝えなければな。詳しいところはまだ調査途中だが、わかっている範囲まで教えよう。

 ……言っておくが、チューズデイ。もしかしたらおまえは、とんでもない事件に首を突っ込んでるかもしれないぞ」


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