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ラサーサの身柄はMI6に移送された。彼はMI6本部地下にある尋問室に閉じこめられ、そこでレノックスから直々に尋問を受ける事になった。
チューズデイは一人、その様子を別室から見ていた。マジックミラーを挟んだ向こうで、尋問は始まった。コンクリート打ちっ放しの、湿った床。それがこの部屋で起きた残虐行為のすべてを物語っていた。
手錠をかけられ、パイプイスに固定されたラサーサ。部屋の四隅にはライフルを持ったエージェントが四人警備にあたっている。そしてレノックスは、中央でラサーサに相対していた。
「まずは自己紹介をしようか。私はネイサン・レノックス。MI6の者だ。君は誰だ?」
「……ラサーサ」
「本名は?」
「答えると思うか?」
「残念だが、君が答えなくてもこちらは情報を掴んでいる。顔さえ分かればこっちのものだ。君の名はサマド・サドルディン。ASIS所属の聖戦士。過去にヨーロッパでも何度か乱射事件に荷担している。違うか?」
「……」
ラサーサ。もとい、サマド・サドルディンは黙っていた。どうやら図星らしかった。
レノックスは、無慈悲にも尋問を続けた。
「君の目的はジョーンズ首相の暗殺。それで違いないな? ……まあ、黙ったままでもいい。我々が知りたいのは、君が首相を狙った、その理由だ。答えてくれるかい?」
「……知るか。俺はあくまでも弾丸だ。神の命ずるがまま、向かった方向に飛んでいくだけだ。弾丸は何も考えない」
「だが、銃手が狙うまでの課程ぐらい、弾丸も記憶しているのではないかね?」
そのとき、部屋の隅に待機していた男が、ライフルを構えたままサマドに襲いかかった。
男二人がかりでサマドの体を押さえつける。サマドは必死に抵抗したが、しかし両手足を拘束された状況では、さすがにどうしようもない。
抵抗むなしく、サマドは体を押さえつけられた。そして、そこへレノックスが注射器を一本取り出し、彼の腕へ強引に刺した。薬剤が一気にサマドの体に回っていく。一瞬で彼の瞳は白目を剥き、顔は上を向き、口からは泡を吹いた。
「安心しろ。即効性の自白剤だ。もうすぐ意識は戻る」
まもなく、レノックスの言うとおりサマドの意識は回復した。
サマドは口元にヨダレを垂れ流したまま、充血した目でレノックスを見た。彼の顔は、どこか嗤っているように見えた。
「もう一度問おう、サマド・サドルディン。ASISの目的はなんだ」
「ひひっ……ふざんけんなよ……へへっ…そうだ……報復さ……。偉大なるハディア・ハールーン・アフマドは天に召された……その復讐のため、これから地獄が始まる。俺はその地獄の引き金に引かれた銃弾の一つさ……これから事態はもっと悪くなるぞ……へへっ……へへっ……」
そして、サマドはそこまで言ったところでまた泡を吹き、白目を剥いて倒れた。
気絶したサマドは、レノックスの部下が地下独房へと運んでいった。レノックスはしてやったりといった顔をしていた。
しかし、チューズデイはどうにも納得できていなかった。
*
尋問を終えたレノックスは、チューズデイが待つ部屋に戻ってきた。
「ありがとう、ミス・チューズデイ。君のおかげでラサーサを捕らえることができた。MI6を代表して感謝させてもらう」
「礼はいらないわ。……それよりも、ラサーサ――いや、サマドが言うには、今後ASISは本格的に各国の首相を狙い始めるみたいだけれど。ASISはもう指導者を失い、弱体化が始まっているはず。それがどうしてこんな突飛でもない行動に出たのかしら。しかも、それを支援しているシンジケートはいったい……?」
「さてね。私にもそれはさっぱりだ。それこそ彼らに言わせれば、神のみぞ知るといったところではないかね。曰く、彼は神の命に従って動いているらしいしね。もっとも、私は神など信じたことはないがね」
「……あらそう。まあいいわ、私も個人的に調べてみるわ」
「ああ。ともかく、今回は助かった。今後も我が国と良好な関係を気づいてもらえると助かるよ」
「そうね。そちらが余計なことをしない限りはそのつもりよ。ともかく今の私には、シンジケートに関する情報が必要だわ。サマドへの尋問は続行。私にその情報を流してもらえる限りは、味方でいるわ。いいかしら?」
「それはCIA……Mからの依頼のためか」
「そうよ。私はMI6とも契約しているけれど、Mともまた契約しているから。そこは忘れないでほしいわ」
チューズデイはそう言って、監視室を出た。
しかし、このときチューズデイの脳裏には疑問ばかりが渦巻いていた。
英国は、アメリカやロシア、フランスなどと違いASISへの攻撃には懐疑的だった。ここで英国の敵愾心を妙に刺激しては、逆効果であるはずだ。なのに、どうしてASISはテロの第一発としてジョーンズ首相を狙ったというのか。
チューズデイは疑問を抱いたまま、地下から駐車場に戻り、そこでエヴォーラに乗り込んだ。そうしてロンドン市内をしばらく流して、電話ボックスを見つけると、チューズデイはある番号に電話した。
受話器の向こうから、まもなく女性の声が聞こえてきた。
「はい、こちらユニバーサル貿易です」
「私よ。すこし調べてほしいことがあるのだけど」
「かしこまりました。しばらくお待ちください」
それからしばらく、電子メロディが流れた。やがて一人の男がでた。男の名はアーネスト・バーンズ。引退したCIA工作員で、チューズデイの協力者である。
「何ヶ月ぶりだ、ジェイミー。いまはどこにいる?」
「ロンドンよ。ある人物について少し調べてほしいのだけど。いいかしら?」
「かまわんが……お前、いま何に首を突っ込んでやがる?」
「ASIS……シンジケート関連よ。調べてほしいのは、ASIS所属の兵士、サマド・サドルディン。彼の経歴を洗ってほしいの」
「おやすいご用だ。で、用はそれだけか?」
「そうね……」
チューズデイは、少しだけ思案した・
先ほどからずっと感じている、この一連のテロ事件への違和感。その正体を、チューズデイはまだ自分自身わからずにいる。
「……もう一人、調べてほしい人がいるわ」
「そいつは誰だ?」
「それは――」
*
しばらくロンドン市内を流してから、夕方過ぎにチューズデイはMI6本部に戻ってきた。
チューズデイがMI6に戻ってきたのは、研究開発課のデイジー・アンダーソンに会うためだった。デイジーは地下室で、他の課員たちと黙々と車両の整備をしていた。彼女らが扱っているのは、今度はロータスではなく、アストンマーティンDB9だった。それも車体はカーボンブラックで、特注品らしい。
チューズデイは忙しく働く彼らの元に近づくと、デイジーだけ休憩室に呼んだ。およそ他の課員たちは、その女がルビー・チューズデイであるとは気づかないだろう。
もはや喫煙室と化している休憩室につくと、デイジーは白衣のポケットからタバコを取り出し、それを吸い始めた。
「いったい何の用だ、ミス・ボンド?」
「あなたに聞きたいことがあって。私がいま何の仕事を請け負ってるかは、知ってるでしょう?」
「ASISの裏に暗躍する組織……たしかシンジケートって言ったか。アンタはそれを追ってる。違うか?」
「あってるわ。それでだけど……たしか、ラサーサは妙な武器を持っていたはず。『ハートブレイカー』とか言った、あれよ」
「ああ、あれね。それがどうしたの」
「それについて詳しく教えてもらえないかしら。もしかしたら、シンジケートが提供した武器かもしれない」
「たしかに、それは考えられるかも」
デイジーは言って、タバコの煙を中空に向けて勢い良く吐き出した。
「ラサーサの持っていたカメラ。その望遠レンズから、妙なものが見つかった。レンズみたいな、長細い杖みたいなのだった」
「それが『ハートブレイカー』?」
「たぶんね。……いろいろと調べたけれど、あれは強力なマイクロ波を照射する小型の指向性兵器のようだった。米軍が持ってるアクティブ・ディナイアル・システムとか、長距離音響装置みたいな非致死性兵器の一種じゃないかと思われる」
「非致死性?」
「そう。一般的に普及しているのは、基本的に敵を殺傷することを目的としていない。コストパフォーマンスが悪いからな。だけどアイツが持っていたのは、そうじゃなかった。もっと強力なやつだった。照射された相手は気づかぬうちに激痛に襲われる。マイクロ波を受けた肉体は、数秒後には心停止。そのまま死んでしまう」
「まさしく暗殺にはうってつけ……というわけか。しかし、ASISにそんな兵器を開発するような余力も、購入する資金力も無いはず。となるとやはり……」
「アンタが言うシンジケートが出てるんじゃない?」
デイジーは妖しげに笑い、タバコを飲んだ。
「ハートブレイカーの提供者は、シンジケート。あるいは、彼らに荷担している組織と考えられる。アンタはそれを追ってるんでしょう? いいわ、見せてあげる。こっちよ」
デイジー・アンダーソンは、白衣のポケットから携帯灰皿を押し込むと、研究室を出た。
デイジーが向かったのは、MI6本部ビルのさらに奥深くだった。ちょうどラサーサ=サマド・サドルディンが拘留されている部屋と同じ階層にある。
そんな地下深くの、さらに合金製の扉をいくつか抜けた先。そこにハートブレイカーがあるという話だった。
「上層部から、アンタへの情報提供は積極的にするよう言われている。アンタはウチにとっても重要な情報源。CIAがひた隠しにしているような情報を得るためのいいパイプ役だからな。だから、ギヴ・アンド・テイク。ウチも極秘情報をのぞいては、提供を惜しまない。特に欧米圏にとって最大の危険であるASISについては、積極的に情報共有を行うべきである……とは、上司の談。アンタは、そのための架け橋になっていると言っても過言じゃない」
デイジーはそう言いながら、首からさげたIDカードを差し込んでいく。そのたびに認証が確認され、チタン合金製の扉がゆっくりと開いていった。
やがて四層目の扉にさしかかったところで、異変は起きた。
分岐した道を右へ向かい、研究開発課の最重要隔離倉庫区画と名付けられた方向へ。そこへと続く最後の扉を開けようとしたときだった。
デイジーは例のごとくカードを差し入れ、さらに声紋・網膜認証まで行った。しかし、セキュリティはエラーを起こし、施錠したままIDカードを吐き出したのだ。
「くそ、セキュリティ・コードの定期変更はまだだぞ……くそ」
デイジーは悪態をつきながら、再度認証を開始。
一方チューズデイは、異変を感じ取ったのか、腰に差したルガーに手を伸ばしていた。
「おかしいな、これでもダメなのか……?」
「どうしたの。開かないの?」チューズデイが問う。
「わからない。セキュリティ・システムが応答しない。完全にこっちのアクセスを受け付けない。これじゃ締め切ったまま開けることもできない」
「どういうこと?」
「わからないって言ってるでしょうが、くそ」
苛立たしげにデイジーは言い、胸ポケットからキャメルを取り出して一本くわえた。
その瞬間だった。
ヴーッ! ヴーッ! と、けたたましい警告音があたりいっぱいに響いたのだ。さらには照明も一瞬消え、次の瞬間には赤い非常ランプが灯った。
「セキュリティが復活した!? しかも最高ランクの危険度?」
「なに? なにが起きているの、アンダーソン?」
「わからないわ! でもわかるのは――そう、この警告はつまり、本部ビルに侵入者がいるか、あるいは……」
「脱獄者がいる、か」
チューズデイは今度こそしっかりと銃を抜いた。
目を凝らし、耳をそばだてる。拘留施設は、この倉庫のすぐ近くだ。もしラサーサが脱出をはかったのだとしたら、まだ近くにいるはずだ。
スライドを引き、薬室内に初発が装填されているか確認。黄金色の.22LR弾を確認すると、チューズデイは動き出した。
「あなたはここで大人しくしていて。私は拘束室のほうを確認してくる」
「でも、いまのセキュリティ・レベルじゃ、どの扉も強制封鎖されてて開かないぞ」
「大丈夫。どうせ相手が勝手に開けてくれるわよ」
チューズデイがそう言った直後、どこかで爆音が轟いた。その衝撃は二人のもとまで伝わり、ほこりが爆風に乗って飛んできた。
「ほらね」
チューズデイはおどけるように言って、爆音がしたほうへ走った。ここで重要な証人を逃すわけにはいかない。二回目の失敗を、彼女は許さなかった。
駆けつけた先には、巨大な穴が穿たれていた。チタン合金製のシャッターがいとも容易く切り開かれている。いったいどんなマジックを使ったかは不明だが、しかしラサーサ=サマド・サドルディんが脱獄したことは、もはや言うまでもなかった。
融解した扉は、地上階へと続く非常階段へと続いていた。おそらく、混乱に乗じて外へ逃げ出したに違いない。
チューズデイも階段を駆け上がり、地上階へ向かう。
地下四階から、地上へ目指して。息をあえがせ、彼女は走った。途中、研究開発課の研究室――さきほどまでデイジー・アンダーソンと一緒にいた部屋だ――を通過した。そしてそのとき、チューズデイは聞き覚えのない音を聞いたのだ。
それは、猛烈なエキゾーストノート。まるで獅子の咆哮がごとき、けたたましいエンジン音だ。
まさか、とチューズデイは思った。
そして直後、彼女の腕時計型端末に無線連絡が入った。件の研究開発課の女、デイジー・アンダーソンからだった。
「最悪だ、ボンド!」と彼女は語気を荒げて、「誰かが研究室で大暴れして、DB9を盗んだ!」
「……どうやら、イヤな予感があたったようね」
「不幸中の幸いとしては、あのDB9には発信器がついている。アンタのエヴォーラとは違ってね。信号をエヴォーラのナビに送る。追いかけて」
「わかったわ」
ようやく、地上階へと出た。
さび付いたドアを開けた先に広がるのは、よどんだテムズ川だ。
チューズデイは、川岸の階段を駆け上がって路上に出た。そして腕時計に向かい、「自動運転・回収モード」と命令。
まもなく、駿馬のいななきが聞こえてきた。しかし、同時に獅子の咆哮も。
ヴォクソール橋を駆け抜けるアストンマーティン・DB9カーボンエディション。漆黒のボディが轟音とともに駆け抜けていく。突風がチューズデイの髪を揺らした。
それから数秒遅れて、彼女のクルマ、ロータス・エヴォーラ400が到着。乗り込むと、すぐにナビゲーションを起動。目標までの最短ルートを割り出し、エンジンスタート。カーチェイスは再び始まった。
まずいことになった、とはチューズデイ自身わかっていた。彼女の悪い予想では、MI6にサドルディンの協力者が存在する。そしてその何者かが――仮にチューズデイは、反逆者と呼ぶことにした――サドルディンを逃がした。そうとしか考えられない。サーカスの根城から、たかだか数時間でいとも容易く脱出できるはずがない。可能性は一つ、MI6に内通者が存在する。
アクセルを開け、チューズデイはハイド・パーク方面へとクルマを走らせた。脱獄者が駆る車両、アストンマーティンDB9は、チューズデイのエヴォーラと同じく、MI6研究開発課でのカスタムが施されている。まだ完璧な改造では無いようだが、それでもグリーンパークでの追跡劇のように一筋縄でいくとは考えられなかった。
赤信号の交差点を、漆黒のDB9が駆け抜けた。フロントグリルに備えられた青色灯を明滅させ、観光客とトラックの群をかき分ける。チューズデイもそれを追った。
右折し、ソーホー方面へ。ウェストミンスターは観光客だらけだった。中国人観光客が騒がしくカメラを振り回す。彼らは騒がしすぎて、はじめDB9のエキゾーストノートには気づかなかった。しかし、ロンドン人たちがあわてたようにスマホを握り、路上にカメラを向け始めると、彼らもようやく気がついた。
軽く一〇〇キロを越えたDB9が、フラッシュの中を駆け抜けた。数秒遅れでエヴォーラが来る。
チューズデイにはわかっていた。スペック上では、DB9にエヴォーラで勝つのは難しい。V8エンジンを積んだ巨大な黒獅子と、軽快なフットワークが自慢の女豹。それが牙を組み交わしたらどちらが勝つか。チューズデイにはわかっていた。しかし、わかっていても、逃がすわけにはいかなかった。
サドルディンはシンジケートにつながる最後の頼み綱。彼の口さえ開かせれば、その裏に暗躍するリベリオン――おそらく、その者はシンジケートと深いつながりがあると考えられる――の情報も得られるはずなのだ。
だから、逃がさない。死なせもしない。
DB9がケツを振り、環状交差点をドリフト走行で駆け抜けた。それからカウンターステア、また進路を切り替える。その先にあるのは、ダウニング一〇番地。ナンバー10――すなわち、首相官邸である。やつのねらいはもう分かり切っていた。
「試してみる……?」
チューズデイもまた、円形の路面を滑り抜け、ナンバー10に向かう。
そのとき、彼女の左手の指はシガーソケットの上にあるスイッチにあった。エヴォーラに追加された新機能、ERS。回生エネルギーによって瞬間的な加速を得る機構である。もはや、サドルディンに追いつくにはそれしかなかった。
「追いついてよ、あなたはあのゴス女の最高傑作でしょ?」
スイッチを深く押しこむ。
システム始動。充填されていた余剰エネルギーが、すべて駆動系へ回される。ホイールの回転速度が上がっていく。モーターが静かに猛り吠え、その真価を発揮する。
続いてハンドル脇、パドルシフトの隣に設けられたトリガーを引く。刹那、ボンネットより機銃が姿を現す。加速しながら、狙いをすませ、引き金を引いた。
毎分数千発の鉛玉の嵐。猛加速する女豹は、虎の尾に食ってかかる勢いだった。
しかし、狩りはそううまくはいかない。黄金色の銃弾は、確かに前をいくDB9のボディに直撃した。しかし直後には、その銃弾たちは弾け飛ぶように周りへ飛散したのだ。まるで爆弾が炸裂したように、弾丸のあられが虚空を舞った。路肩にあった赤い電話ボックスが、跳弾により一瞬で蜂の巣になった。
チューズデイはその仕組みを知っていた。電磁装甲だ。強力な磁性の装甲をまとったボディは、無数の銃弾を弾く。i8にも、エヴォーラにも搭載されていた装備。それがDB9に付いていないはずがなかった。
――抜かった。
チューズデイは胸の内で舌打ちをしながら、銃座を格納。ERSを起動させたまま、猛追を続けた。しかし、残念なことにダウニング一〇番地は、もうすぐそこだったのだ。