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ハートブレイカー  作者: 機乃 遙
ハートブレイカー 第一部
3/13

 チューズデイがブライトンで殺害した刺客。ラヒーム・イブラヒムという名のその男は、MI6が以前よりマークしていた暗殺者の一人だった。チューズデイがこの事件に介入するずっと前から、英国諜報部は国内のASIS関係者を洗っていたのである。しかし、それもすべてチューズデイがアフマドを殺害し、事態が一変したからだ。

 MI6が目星をつけていた男はもう一人いた。その男こそ、コードネーム・ラサーサ。ヨーロッパを拠点にテロ活動をしているとして、国際指名手配を受けている男である。しかしラサーサに関しては、詳しい情報はまったくないと言ってよかった。

 MI6はまず、ラサーサが英国に入国したらしい、という情報を得た。しかし、そのときですらラサーサの人相、本名、手口すらも分かっていなかった。ただその男が、パリとベルリンで起きた爆破テロに関与していた、という情報だけが逮捕されたテロリストの尋問からもたらされただけだった。

 そんな中、ASIS首領であるアフマドが死亡し、さらにイギリス政府あてに首相殺害予告が送られてきた。ラサーサ入国の情報を聞いていたMI6は、おそらくこの男が関与していると見て監視を強化。そしてついに、ラサーサとサマドとの電話を盗聴するまでに至ったというわけだ。

 ラサーサはなかなかの手練れだった。サマドが鉄砲玉であるとすれば、ラサーサは照準を決める射手であったといえよう。諜報の世界で言えば、目標選定人ターゲット・オフィサーに該当する。事実、MI6によれば、ジェイムズ元米国副大統領暗殺に関しても、ラサーサが一枚噛んでいるとのことだった。

 だが、彼の最大の誤算は、ラヒームがボロを出し、死んでしまったことだった。MI6はすでに、彼らの情報交換の方法を知り得ていた。


 チューズデイは、さっそくエヴォーラに乗り込み、ロンドン市街地を走っていた。普段は隣には誰にも乗せない一匹狼な彼女だが、このときばかりはレノックスが乗っていた。作戦の情報共有のためである。

 エヴォーラは、ソーホー地区を抜けてピカデリーサーカスへ向かっていた。ロンドンでも特に人が多い場所だ。駅はいつも混んでいるし、ネオンサインを中心とした道の合流地点サーカスも、何十台という車で埋め尽くされている。歩道を見れば、物珍しげに曇った空を見上げるアジア人が密集隊形を組んで歩いていた。時刻はすでに午後七時を回っていた。

「サマドはいつも、同じ時間に同じ公衆電話で通話していた。午後七時半、その時間キッカリに電話がかかってくるんだ。その電話の主こそ、ラサーサと思われる」

「それで私がその電話に出ろ、と。このボイスチェンジャーを使って」

 チューズデイは言って、ネクタイの中程のあたりをさわる。黒のスキニータイにはタイピン型のボイスチェンジャーが挟まれている。音声出力装置は無線接続で、小型のスピーカーが別に渡されていた。

「そういうことだ」とレノックス。

「ラサーサに関する資料には目を通したわ。彼は目標選定人であり、数々の暗殺に関与している。情報提供、あるいは実行部隊という形でも……。そんな男なら、あなたたちの動きにも気づいてるのでは?」

「確かに。しかし、政府に揺さぶりをかけるという点では、すでに彼らは目標を達している。このまま暗殺ではなく、自爆テロを強行する可能性も考えられるし、攻撃を実行しないケースも考えられるだろう。しかし、もし彼がそのまま目標の第二段階――すなわち暗殺に移るとしたらだが、その点でも調べはある程度ついている。すでにウチの情報担当チームがラサーサと思しき人物がネット上から監視カメラの映像に何度もアクセスしているのを発見している。目標――ジョーンズ首相の暗殺計画を練るためだろう。暗殺実行の可否は不明だが、やつは必要以上に慎重になっているはずだ。特に、我々MI6の動きには細心の注意を払っているはず」

「私みたいな外注の工作員を雇ったのは、そういう理由?」

「一部の上層部を除いて、傭兵のパブリック・ドメインとさえウワサされている名前、『ルビー・チューズデイ』。ラサーサはもちろん君の正体を知るはずがない。面が割れていないのはいいことだ。そこで君にはラサーサの正体をあぶり出してもらいたい」

 レノックスは、そう平然と言った。

 チューズデイは、「そうね」と答えると、問題の電話ボックスへと車を走らせた。


 しかし電話ボックスとは考えたものだ、とチューズデイは思った。

 ロンドンの真っ赤な電話ボックスと言えば、実用的な公衆電話というよりも、観光名所と言った方が近い。フェイクの受話器がおいてあったり、そもそも公衆電話などどこにもないただの赤い箱、なんて場合もあるぐらいだ。ゆえに観光客のフリをしたり、またそもそも電話をしていないように見せることも出来る。そのうえ個人の電話ではないため、身元が割れる危険性を下げることも出来る。もっとも、MI6を前にそれは不可能であったようなのだが。

 問題の電話ボックスは、ピカデリーサーカスから少し外れた路地裏にあった。円形に広がるサーカスを中心にして枝分かれする道路。その途中で車を路肩に停めると、チューズデイはエヴォーラをレノックスに預け、現場へと向かった。

 ピカデリーサーカスはまさしく人と人との合流地点だ。ここに居れば必ず知り合いと遭遇する、などというたとえ話もある。しかしながらルビー・チューズデイという女を知る者は、さすがのピカデリーサーカスにもいないようだった。

 忙しく動き回る人波をかき分け、チューズデイは路地裏へ。さすがにそこまで行くと人通りも少なくなっていた。しかし逆に言えば、人混みに紛れることも出来ない、ということでもある。

 真っ赤な電話ボックスは、路地に入ってすぐのところにあった。車道からL字に入る小さな路地、その行き止まり。

 電話ボックスのすぐ脇にはレストランが軒を連ねていた。陽も落ちたこの時間、店に来るのは若い男女と老齢のカップルが主だ。チューズデイのような独り身は、どこにもいない。

 電話ボックスの前につくと、チューズデイは左腕のルミノックスで時刻を確認してから、ボックスの中に入った。現在時刻は午後七時二十八分。ちょうどいい頃合いだった。

 軋んだ扉を開け、真っ赤なボックスの中へ。古びた受話器の残された屋内は、タバコとすえた小便の臭いがした。四つ角には吐き捨てられたガムもある。

 シリアの戦場に比べたらよっぽどマシだ。

 チューズデイはそう考え、仕事だと割り切った。だが、それでもこの二分間はチューズデイにとってひどく長い二分間になった。

 しばらくして、電話が鳴った。グリニッジ標準時で七時三十分ちょうどのことだった。

 受話器をあげ、そしてマイクに向かって彼女はシールのようなものを張り付けた。極薄の無線スピーカーだ。出力される音声は、すべて任務開始前にアンダーソンが設定済みである。

 タイピンのスイッチを入れ、受話器のスピーカーだけを耳に当てる。口元からマイクは離し、チューズデイはボックスの背にもたれ掛かる。

「もしもし、俺だ」

 と、ピッチの上げられた声。誰だか分からないように調整が施されている。しかし一人称と声の質感から男だとは判別がつく。

 まるでCIAのMのようだ、とチューズデイは思った。だが、ラサーサの声色からは、Mのような聡明さは感じられなかった。

「ああ、分かっている」とチューズデイは返答。

「作戦を実行に移す。いいな」

「わかった」

「……手順は分かっているだろうな?」

 訝るようなラサーサの声。

 このとき、チューズデイは失敗した、と内心考えていた。

 本来の目的は、あくまでも接触である。しかしながら、向こうは急な電話でいきなり「作戦を実行に移す」などと言ってきた。

 チューズデイは当惑した。

 だが、そのとき左耳にしたイヤフォンからレノックスの声が響いた。彼からの無線通信だ。回線は常時オープンになっている。イヤフォンも骨伝導タイプなので、盗み聞きされることはない。

「作戦とは、首相暗殺計画のことだ。奴らはオペレーション・呪詛ラアナと呼んでいた。詳細は不明だ」

 それを聞き、チューズデイは少し遅れてから思い出したように答えた。

「オペレーション・ラアナ、だろう。覚えている」

「そうだ。……それに関して一つ変更点がある。襲撃地点はグリーンパークに変更だ。明後日の午前十一時、ジョーンズを乗せた車が首相官邸(ナンバー10)から出て、そこを通るとの情報を得た。お前は手はず通り、事故に見せかけて車を止めろ。そこを俺がしとめる。……いいな?」

「分かった」

「以上だ。しくじるなよ」

 そして、通話は切れた。

 ラサーサは一瞬だがチューズデイを怪しんでいる様子を見せたが、しかし最後には信用したようにも思えた。

 そして何より、相手の計画の全容が見えた。これは思いの外簡単に済む仕事かもしれない。

 チューズデイはスピーカーをはずし、四つ角のガムに混ぜて捨ててやると、タイピンのスイッチを切った。

 ドアを開けて外へ出る。息が詰まるような接触は、成功したように見えた。


     *


 あたりいっぱいに広がる芝生と木々、そして巨大な大理石の石像。翌朝、バッキンガム宮殿に隣接するグリーンパークは厳戒状態にあった。だが、一般人がそれに気づくようなことは、まずない。

 現在時刻、午前一〇時三〇分。衛兵交代で有名なバッキンガム周辺は、この日も観光客で埋め尽くされている。特に宮殿の前では、アジア人からアメリカ人、北欧から来たような者までもが列をなして写真を撮っている。

 MI6のエージェント、そしてルビー・チューズデイは、そんな観光客の中に紛れて、グリーンパークの中に潜んでいた。そしてまた、ASISの暗殺者ラサーサも、同じくここに隠れているはずだった。昨日の電話の内容が真実であれば。

 チューズデイは、ジーンズにTシャツ、黒のジャケットというラフな格好で、カメラ片手に立ち尽くしていた。彼女がいるのはグリーンパークの道路際。木立が立ち並ぶ場所で、カメラを振りかざす。さながら自然写真を取りに来た若い女のように。

 しかし彼女の狙いはもちろん自然などではない。殺し屋だ。

 ラサーサは確かに言った。『首相官邸から車で出てきたところを、グリーンパーク周辺でしとめる』と。そうなると、ラサーサがいる場所は必然的に絞られた。車道を見渡すことの出来る高い建物。あるいは、車道のすぐそばである。付近一帯のビルは、現在MI6のエージェントが確認に向かっている。そしてグリーンパーク内では、チューズデイがラサーサを追っていた。

 しかし、公園にいるのはチューズデイだけではない。よく見れば、観光客や観光ガイドに扮したMI6のエージェントが道路の方をちらちらと見ている。見ていないように見る、という技術は諜報員にとっては基本中の基本である。見晴らしの良いところから、景色を見る振りをして見るのもいい。鏡やガラスを使って、光の反射で見るのも手だ。また、チューズデイのようにファインダー越しに見ている振りをするのも手である。

 MI6のエージェントは、もちろんそのような技術を心得ていた。彼らの存在を知っているチューズデイならまだしも、何も知らない素人が彼らに気づくはずがない。自分と同じ観光客としか、彼らの目には映らないだろう。

 そうしてMI6のエージェントが派遣され、またチューズデイも監視任務に就いてから二十分ほど経った頃だ。

 チューズデイは、妙な人影を見たのである。


 その男は、チューズデイと同じようにカメラを持ち、ラフな格好で写真を撮り続けていた。彼が手にしているのは最新型のデジタルカメラなどではなく、今時フィルム式の一眼レフだ。それがまた着古したミリタリー調の上着と似合っていたが、しかし顔は目深に被った野球帽で隠されていた。

 だが、チューズデイが気になったのは、何も男が自分と同じようにカメラを持っていたからではない。それでは何の疑念さえも起きない。男の様子が気になったのは、彼が肩から提げていた『あるもの』による。

 その男は、巨大な望遠レンズのケースを肩から提げていたのだ。異様に長いレンズケースは、超望遠のものだろう。何に使うかは分からないが、しかし考えられる一つの可能性がある。そのケースの中に、何かしらの武器を隠している、ということだ。

 ラサーサは言った。車を止めろ、と。それはつまり車を止めさせたところで、狙撃あるいは爆発物を仕掛ける、ということと考えられた。だが首相専用車両であるベントレーには、一通りの防弾装備は備わっている。それこそわざわざ殺害予告までしたぐらいだ。相手に狙撃や爆発物に気を付けろ、と言わんばかりである。その状況で狙撃を行うとは思えない。だが――

 チューズデイは、どうにもその男の様子が気になった。

 道路から生け垣を挟んで、公園の芝生の上でカメラを握りしめる男。何度かファインダーの中を覗いていたが、しかしシャッターを押しているようには思えない。

 チューズデイは口元へ腕時計を近づけると、時刻を確認するフリをしながら言った。

「こちらボンド、不審者を確認」

 通信機能付き腕時計。その送信先は、MI6のネイサン・レノックスである。

 レノックスは現在、MI6本部で首相暗殺阻止作戦の陣頭指揮を取っている。ロンドン市内のそこらじゅうにある監視カメラの映像を見ながら、部下からの情報を元に、ラサーサの位置を割り出していた。

本部(HQ)了解。悟られぬように接近、確認せよ」

 レノックスの返答。行動の許可が下りた。

 チューズデイは、再度男の容姿を確認した。現在時刻は十一時八分前。もうラサーサが現れてもおかしくはない。

 首から提げたデジタル一眼レフカメラ。その液晶画面越しに、チューズデイは男の姿を見る。クリーム色のミリタリージャケットにジーンズ、そして目深に被った黒の野球帽。微妙に露出した肌は浅黒く、しかし日焼けなのか、元からの色なのかは判別がつかない。だが少なくとも、白人ではないように思えた。耳から顎にかけては無精ヒゲが続き、ごま塩のような模様になっている。

 カメラをおろす。そしてチューズデイは、自然と男の方へと向かっていった。決してターゲット一人を注視することはなく、まわりを見回して、さながら写真を撮る構図を探しているように。

 そのとき、チューズデイの耳の骨伝導式イヤフォンに再び声が響いた。レノックスである。

「ウチの部下が、道路際にあるビル屋上で怪しげな男を発見した。確認に向かわせる。君は引き続き、問題の男の確認を。あと七分だ」

 いよいよ面倒なことになってきた。

 男に接近する最中、見回す度に容疑者が増える。そんな気がした。

 スパイには、基本的な技術として目をカメラのように扱う、というものがある。すなわち、眼球に一瞬捉えた物体を、そのまま脳に焼き付けておく、というものだ。しかし、何もそれはサヴァン症候群の患者のように一目見た風景を暗記するというものではない。そのとき見た物体・人物の特徴を、そのものの顔や形質に併せてメモするのだ。例えば公園の木立の側でくつろいでいる男女には、カップルという属性に対して、二人の特長――衣服や持ち物の様子――などを追記していく。そうすることで、頭の中で容疑者と無害な人間を選別し、目を向けるべき相手を絞り込む。慣れると、そのような判断を息をするように行うことが出来る。

 だが、いまのこの状況では、あまりにも容疑者が多すぎた。その中でも特に優先度が高いのは、やはり例の望遠レンズを持った男だ。

 チューズデイは、他の容疑者に関してはMI6に任せることにして、問題の男に接近した。

「すみません、いいカメラですね」

 と、彼女は男に向かってそう話しかけた。

 男はぎょっとして、ファインダーから目を離す。

「あ、ああ……どうも」

「すみません、急に話しかけてしまって。いま、いい撮影スポットを探してまして。どこかご存知ですか?」

 首から提げたデジタル一眼レフを持ち上げ、チューズデイは微笑む。

 だが、この微笑は仮面を隠すためのものだ。

 殺し屋がもっとも嫌うのは、不必要な他者との接触である。殺し屋というと、その素性を隠すために変装をしたり、それと分かりづらい方法で殺す――事故に見せかけるなど――というイメージが強い。それは確かに正解なのだが、しかしそこまで来ると上級のテクニックである。殺し屋としての初歩の初歩は、まず目立たない人間になることである。この人混みの中で、真っ白でも真っ黒でもない、曖昧なグレーの存在になること。そうなることが、暗殺の基本である。それは他者との必要以上の接触を避けるためであり、そのような目立たない人間というのは、自分からそうしない限り誰かから話しかけられることはない。そうすることで、まず不用意な接触を避ける。顔を覚えられることを阻止する。

 同じ汚れ仕事ウェットワークを行う人間であるがゆえ、チューズデイにはそのような心得が分かっていた。もし男がラサーサならば、彼の最大の誤算は、相手が国家公務員だけではなく、金で雇われる殺し屋も含まれていた、というところだろう。

 カメラを持った男は、少し緊張した様子でいた。。

「すみません、教えたいのは山々なんですが、実は海外からきた観光客でして。ロンドンは初めてなんです」

「そうだったんですか。どこの国から?」

 チューズデイは、会話を続けさせる。そうすることが、時間稼ぎになる。

 男はなおも焦った様子で答えた。

「アメリカです。……すみません、観光で。その、急いでいるので」

「いえ、こちらこそ申し訳ありませんでした。観光、楽しんでくださいね」

 笑顔で言って、手を差し出すチューズデイ。

 男は一瞬ためらったように見えたが、しかし彼女の手を取り、軽い握手を交わした。

 そしてその瞬間、チューズデイは両手で彼の手を握り、さらに左腕の時計をクイと彼の上着に当てたのである。それはチューズデイの狙いだった。

 いま彼女の腕時計、ルミノックス・ネイビーシールズには、特殊な弾丸が込められていた。何種類もの小型弾頭の発射機構を有するルミノックスだが、このとき装填されていたのは、極細のワイヤー型発信器である。それが握手をした瞬間、射出。男の上着に突き刺さった。

 男はそれに気づいていないようだった。だが、何か違和感は感じたようで、握手を交わすと早々に逃げていった。

 彼の逃げ足は速かった。終始焦った様子だったことは認めるが、それにしても一般人が声をかけてきただけなのに、逃げ帰るように走っていったのである。遠い異国の地で見ず知らずの人間に話しかけられたのだから当然の反応かもしれないが、しかしそれでも異常だった。

 オペレーション・ラアナ開始まで、あと三分。チューズデイは、彼の逃げ足を見て確信した。あの男が、ラサーサであると。


 尾行術は、もはや体に染み着いたようなものだった。諜報の世界では、もはや初歩の初歩とさえ呼べるものだ。

 ラサーサと思しき男は、それからグリーンパーク周辺をぐるぐると歩き回った。広い公園であるから、それが不審に見えることはない。だが、首相が通過する予定の道路脇から離れようとしないのは、事情を知る人間にしてみれば、明らかに怪しく見えた。

 おそらくラサーサは、最後まで作戦を実行に移すかどうかを決めかねてたのだろう。オペレーション・ラアナ実行までの残り数分、彼はグリーンパークをウロウロして回った。

 やがて、実行開始の時が来た。

 そのときラサーサは、左腕に目を落とした。腕時計を一瞥し、彼は踵を返した。計画は、中止だ。

 

 ラサーサは、とたんに足早になった。そして生け垣と植木の間を飛び越えて路肩に飛び出すや、路駐されていたオレンジのレンジローバーに乗り込んだ。

 チューズデイはすぐに無線で叫んだ。

「ラサーサとおぼしき男が、黒のレンジローバーに乗り込んだ。追跡する」

「頼む。こちらからは人員は割けない。一人でできるか?」

 レノックスは心配そうに問うたが、チューズデイにはいらぬ心配だった。

「安心して。心配するなら、あなたの部下が改造した車を心配したほうがいいわ」

 チューズデイは吐き捨てるように言い、ラサーサを追って茂みの中へ。そして左腕のルミノックスに命じて、ロータス・エヴォーラを自動運転オートパイロット回収ピックアップモードへ。

 茂みを抜けると、ちょうどレンジローバーが交差点を右折する姿が見えた。

 同時、エヴォーラがチューズデイの目の前で急停車。ドアを大きく開いた。


 男に放った発信器は、しっかりと機能していた。GPS反応は、エヴォーラのカーナビにくっきりと光点として表示されている。赤い点がソーホーはピカデリー・サーカスに向けて走っていた。

 チューズデイはエンジンを蒸かし、レンジローバーを追う。まもなくフロントガラスにレンジローバーが映った。

 そのときだ。突然、レンジローバーは急加速を開始。信号を無視して、一直線に進み始めたのだ。わざわざ手信号まで出していたのに無視されたサイクリストが、激怒して交差点で地団駄を踏んでいる。

 チューズデイもサイクリストの群を横切り、急加速。タイツ姿の男たちが猛抗議を始めたが、無視して進んだ。

 ちょうどそのとき、オペレーション・ラアナの実行時間が訪れた。チューズデイにはそれについて気にする余裕は無かったが、否が応にも情報は入ってきた。

「首相車両、グリーンパークを通過。周囲に不審者は認められず。暗殺は失敗の模様」

 ――それはそうだろうな。

 チューズデイは目の前を行く車両を見て思った。そして、今度は首謀者を捕らえねばならない。

「……使ってみるか」

 パドルシフト脇にあるトリガーを引く。

 直後、連動してエヴォーラのボンネットから機関銃が二門姿を現した。それはトリガーに連動して射撃開始。分間数千発の鉛玉の嵐が、眼前のレンジローバーに叩きつけられた。閑静なロンドン市街地を、激烈な銃声が支配する。轟音があたりいっぱいに広がり、観光客が一斉に道路を振り向いた。

 放たれた無数の弾丸のうち、何発かがレンジローバーのタイヤに直撃。後部車輪が二つともパンクし、クルマはコントロールを喪失。オレンジのレンジローバーはその場でスピン。ドーナツターンのように円を描いて回ると、信号機に横から突っ込み、停車した。

 チューズデイはその脇にエヴォーラを停めると、強引にレンジローバーのドアを開け放った。彼女はスタームルガーを引き抜き、運転手の男に突きつける。そしてタイピンの電源を入れて、ボイスチェンジャーを起動した。声を男に切り替え、無線接続でレンジローバーのカーステレオに割り込む。

「チェックメイトよ、ラサーサ。私が誰か、わかるでしょ?」


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