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テムズ川の沿岸、ヴォクソール・ブリッジを抜けた先にある『テムズ川のバビロン』。古代メソポタミアの神殿を彷彿とさせるその建物は、しかし古風な風貌に関わらず、盗聴・爆発物等への対策が施された最新の建造物である。
ロンドン、MI6本部。神殿のようなその建物を、ルビー・チューズデイは川面から見上げていた。水面を進む一艘の小型ボートの上、ネイサン・レノックスと肩を並べながら、曇ったロンドンの空の下を行く。
黒塗りのボートは、4ストロークエンジンの轟音を響かせて、薄汚れたテムズをかき分け進んでいた。舵を握るのはMI6の若いエージェントで、船首に立つネイサン・レノックスの部下であった。
レノックスは鼠色の水しぶきを手で遮りながら、橋の下に続く地下通路を見やった。そこはMI6本部へと続く水上の地下通路だ。
ボートは弧を描くようにゆっくりと右旋回しながら、岸辺の地下へと入った。そこまで来るとエンジンの回転数も徐々に落とされ、接岸準備が始まった。静かに地下へ入る。薄暗い、濡れた通路に接岸。操舵していた若い男がロープを岸に括り付ける。
「さあ、こちらだ。案内しよう」
レノックスがチューズデイの手を取り、岸へと向かう。
まるで女王陛下でも扱うような丁寧な応対。チューズデイはそんなお節介を余計に思ったが、しかし彼らは異国から来た女スパイに英国紳士らしさを見せてやりたいのだろう。彼女も黙って従い、通路の奥へと進んでいった。
地下通路を抜けて案内されたのは、MI6内の会議室だった。地下深くに造られたそこは、盗聴対策のため厚い壁に覆われていた。部屋の四壁はテムズと同じ鼠色で、天井にはプロジェクターが張り付いている。
会議室に入ると、部下の若いエージェントは消えていた。部屋にはチューズデイとレノックスの二人だけだ。コの字型に並べられた机の上にネイサン・レノックスは腰掛ける。そして、机の端におかれていたリモコンを手に取り、プロジェクターのスイッチを入れた。電源が入ったばかりのそれは、ただ青い画面を灰の壁に描き出した。
「我々MI6が君に依頼したいのは、言うまでもない。ASISとシンジケート関連の事件であるからだ。君は昨年、CIAの依頼でASISに潜伏中だった裏切者を暗殺。さらにはASISが密かに進めていた核発射計画を阻止し、リーダーのハディア・ハールーン・アフマドを殺害した。これによりASISは大打撃を受け、ほぼ壊滅状態。世界的なテロの危機は終わったように思えた……。違うかい、ミス・チューズデイ?」
「間違ってはいない。ハリー・ライダーを『裏切者』と一括りにするのはどうかと思うけれど」
「まあ、そこは気にするところではない」
レノックスは肩をすくめ、鼻で嗤った。
チューズデイは、彼のその態度に少し苛立ちを覚えたが、しかしサタンの一件はほとんど外部に漏れていないと言ってもいい。CIAの汚点でもあるからだ。だからチューズデイは感情を押し殺し、黙って話の続きを聞くことにした。
「アフマドは死亡したが、しかし問題は君が殺したということだ。どの国家、組織にも帰属しないフリーランスのスパイ。そしてアメリカ、CIAは、もとより自らの手を汚さないために君を雇った。おかげでアフマドは殺害されたが、当のASIS残党は、いったい誰に殺されたのかわからないままでいる。CIAの殺し屋というのが一般論として広まっているらしいが、アフマド亡き今、数々の憶測が飛び交っているらしい。そして、その混乱がもたらした結果がこれだ」
そのとき、ようやくレノックスがプロジェクターへ信号を送った。
画像が切り替わる。青いスクリーンから、今度は動画らしきものに移り変わった。もう一度レノックスがリモコンを操作すると、再生ボタンが押され、動画が流れた。
まずは黒い背景からフェードイン。そして、古ぼけたコンクリートの壁が映される。壁には血の染みた痕が生々しく残されており、よく見れば弾痕もいくらか確認できた。
そんな場所に掲げられた国旗。ユニオンジャックだ。しかしそれは英国の偉大さを崇めるためでも、はたまた自治独立を求める野蛮なIRAの為でも無かった。
目出し帽を被った男が現れ、その手に持ったマッチを擦った。そして、火をユニオンジャックへと灯す。瞬く間に炎は燃え広がり、赤青白の模様は、すべて紅蓮にかき消された。
そして、燃えさかる国旗を背景にして男は言ったのだ。アラビア語なまりの英語だったが、チューズデイでも容易に聞き取れるものだった。
「英国大統領、そして英国国民に告ぐ。お前たちは我らが偉大な指導者を殺す手伝いをした。それは許されざる行為である。お前たちのせいで数多の聖戦士、そして偉大なるハディ・ハールーン・アフマドは死亡した。いいか、次はお前がこうなる番だ。ウィリアム・ジョーンズ」
刹那、映像がブラックアウト。
しかし完全に闇に包まれたかと思えば、次の瞬間、新聞の切り抜きのように人間の首だけの写真が写された。どうにも合成したもののようで、禿頭の紳士が生首のようにして、黒い空間に放り出されている。
その写真の男こそ、ウィリアム・ジョーンズだった。
ウィリアム・デイビッド・ジョーンズ英国首相。その生首の合成写真が描き出されている。「次はお前がこうなる番だ」という恐ろしい台詞と共に。
映像はそこで終わった。ものの二分足らずの短い映像だったが、しかし脅迫としては十二分に効力を持っていた。
「わかっただろう、ミス? 現在、各国にこのような映像が送られているらしい。混乱したASISは、手当たり次第に殺してやろうとでも考えているんだろう。すでに合衆国大統領はシェルターに逃げたとかなんとか……。標的国は、まずはアメリカ。次はフランス、ドイツ、イギリスといった欧州各国。それからロシア、イスラエル……と言ったところだろうか」
「なるほど、すべては私とCIAのせいだと。それで、私の任務というのは、このASIS暗殺者からジョーンズ首相を守れ……ということかしら」
「理解が早くて助かるよ、ルビー・チューズデイ」
レノックスは三度リモコンを操作し、プロジェクターの電源をオフにした。壁面に映されたジョーンズ首相。生気を失った生首の画像は、ドブネズミのような色の壁に切り替わる。
「この仕事を引き受けるかどうかは君次第だ、ミス・チューズデイ。だが、我々MI6としては、君のASISとの戦闘経験。ひいては、そのバックに存在するというシンジケートについての知識を生かしてもらいたいと思っている。報酬は十分以上に出すつもりだ。どうする?」
「そうね」
チューズデイは言って、口元に手を当てて少し考えるようなふりをした。
面倒ごとに巻き込まれるのは御免だが、しかしここでMI6に媚びを売っておくのも悪い話では無かった。それに何より、この事件もシンジケートへと繋がる手だてになるかもしれない。
そう思っていると、机から腰を上げたレノックスが、
「そういえば、君がブライトンでやりあった暗殺者だが。ラヒーム・イブラヒムと言ってな、ヤツもかつてはASISの聖戦士として戦っていた男だ。しかも、今回、我々MI6が首相暗殺の計画者だと考えている男、『ラサーサ』と定期的に連絡を取っていたとの情報が入っている。……失敗した仕事の埋め合わせをしたくないか、ミス?」
特徴的な微笑みを返すレノックス。
その含み笑いには、おそらくチューズデイがこの仕事を引き受けるだろうという確信があったに違いない。そして、彼の確信は実際に当たっていた。
チューズデイは深く嘆息してから答えた。
「いいわ。受けましょう」
*
首相暗殺の阻止。そんなボディガードじみた任務を受けたチューズデイ。
次に彼女が案内されたのは、同じくMI6本部の地下にある部屋だった。MI6本部自体、数々のテロ事件によって何度も被害を被っている。特に重要なセクションを地下に移すのは、確かに賢明な判断と言えた。
チューズデイが案内されたのは、MI6の研究開発課である。まさしくチューズデイが破壊したBMW i8を造ったのは、このセクションである。
会議室よりも十倍近く開けた空間。地下とは思えぬ広いガレージのような部屋が、研究開発課のオフィスである。高い天井と、長く細く続く空間。壁は会議室と同じく対爆発・盗聴仕様の鉄筋コンクリート、複合装甲。無機質なグレーの壁だ。
そんな部屋には、至る所にコンピュータが所狭しと並べられている。いくつものモニターがアームで固定され、設計図やら何やらが表示されている。さらに奥の方を見やると、今度はメタルラックにいくつもの銃が架けられていた。そのどれもが諜報員の為の特殊仕様のものだろう。サプレッサーを装備したものは言わずもがな、発信器を始め任意の特殊弾頭を発射可能なリボルバー、アタッシュケースの中にしまい込めるよう切り詰められたサブマシンガンなど様々だ。
そして、そんな物騒な部屋で一人、白衣を翻す女性がいた。他の研究員――みな白衣姿だが、すぐに伸びてしまいそうなメガネの痩せ男ばかりだ――は、みなモニターやキーボードを前に仕事をしているのに、その女性だけは仁王立ちで中央に立ち尽くしている。
レノックスは、そんな一際目立つ女を指さしながら言った。
「紹介しよう。MI6研究開発課の主任、デイジー・アンダーソンだ」
紹介された女は白衣を翻し、チューズデイのもとへ一歩近づく。
アンダーソンという女は、実に奇妙な格好をしていた。彼女は、確かに白衣こそ着ているものの、その下は黒のスラックスにTシャツという実にラフな格好だった。その上、髪の毛は真っ黒に染められ、しかも寝起きのようにあちこちに跳ね回っている。おそらくそれはワックスか何かで固めてあるのだろうが、だがチューズデイには髪の毛が爆発しているようにしか見えなかった。パンク、と言えばいいのだろうか。確かにアンダーソンの顔には、いくつものピアスが埋め込まれている。右の眉に沿って二つ、唇に一つ、顎に一つ。それから左耳だけに銀のピアスが施されていた。さらには、目元に黒いアイシャドーが殴られた痕のようにくっきりと描かれていた。まるで九〇年代のロックシーンから飛び出てきたような風貌だ。
彼女は、パンクロックで、ゴスで、しかもレズビアンのようだ。女性が左耳だけにピアスをすることは、同性愛者であるというメッセージである。
「アンタが噂のジェイミー・ボンドか」
と、アンダーソン。
彼女はピアスの埋め込まれた唇をツンとつきたて、白衣のポケットに手を突っ込んで、いかにも不機嫌そうにしている。
「そうよ。あなたがここの主任と聞いたけれど、ミス・アンダーソン」
「そういうアンタは、ウチが贈ったi8をぶっ壊したっていう女エージェントだろ。追跡装置が言うには、i8はまだゴビ砂漠をグルグル回ってるらしいんだが、どうしてイーストボーンの崖の下から見つかったんだろうね」
「さあ。フランスにでも行こうとしていたんでしょう?」
アンダーソンの好戦的な物腰に、チューズデイも応える。
だがまもなく彼女も飽き飽きしたのだろう。少しため息をついてから、
「もういい。上から仕事の内容は聞いている。私の仕事は、アンタのサポート。アンタが必要な武器を与えること……それでいいんでしょう、ボス?」
レノックスが小さくうなずく。
刺々しい物言いのゴス女は、もう一度深くため息をつく。それから白衣を翻すと、
「ついてきて」
と言って、つかつかと歩き始めた。
デイジー・アンダーソンは、研究開発課のオフィスの一番奥まで来て、ようやく足を止めた。そこが彼女の居城らしく、開け放たれたデスクには骸骨やらシルバーアクセサリー、革製のライダースジャケットなど、いかにも彼女の風貌に合うものが並べられていた。
だが、それだけではない。
強化ガラスで出来た机の上。デスクトップ型のコンピュータが置かれたその上から、彼女は鍵とネクタイピンを取り上げる。
「まずはこのネクタイピンが、次の任務に必要なはず」
と、アンダーソンはピンを投げて寄越す。
チューズデイはソレを受け取ると、ひっくり返したり開いたりしてみた。しかし、何の変哲もないピンのように見える。
「それはネクタイピン型のボイスチェンジャー。マイクが仕込んであるから、あとはブルートゥースでスピーカーと繋げれば、そこから合成した音声が出力される。手始めに何かしゃべって見て。出力はこっちでする」
アンダーソンは言って、机上のスピーカーの用意をする。
チューズデイは言われたとおり、何か適当にしゃべってみた。マイクの音量テストでもするように。
「あ、あー……」
するとどうだ。しゃべった声がスピーカーから出力されるや、完璧な男の声になって現れた。
「この合成音声は、リアルタイムで拾い上げた声を屈折させる。今の設定は、サンプリングした音声を元に作り出した『ラヒーム・イブラヒム』の声。アンタがブライトンで殺したASISの殺し屋の声だ」
「それで何、私に殺し屋のフリをしろと?」
「そうだ」とレノックス。「ラヒームと、いま我々が追っているASISの兵士、『ラサーサ』は、我が国に入国後、何度か電話での連絡を取り合っていた。しかしラサーサは、まだラヒームが死亡したとは知らない」
「だから私が彼のフリをして接触すれば、暗殺者をおびき出すことが出来る、と」
「まさにそういうことだ。さすがに理解が早い」
言って、またレノックスは微笑む。
ネイサン・レノックスという男は、実に笑顔が似合う英国紳士であったが、しかしその笑顔の裏に何かを感じさせるあたり、やはりMI6のエージェントであるようだった。
「それで、もう一つアンタに渡すものがあるわけなんだが。次はこっちだ。こっちの鍵」
アンダーソンが鍵をちらつかせる。彼女が持っていたそれには、ロータスのエンブレムが描かれていた。
ロータスと言えば、英国の自動車メーカーである。特に軽量のスポーツカーをメインとして売り出している。乗用車というよりは、レーシングよりのマシンが多い。
「ロータスか」とチューズデイ。
「そう、BMWをぶっ壊されたから、次はロータス」
毒のある物言いと共に、アンダーソンは微笑んだ。彼女らが担当したというBMW i8。確かに最新技術の粋を尽くしたような車両だった。故に簡単に壊されてしまったことが、相当キテいるのだろう。わからなくもない。
アンダーソンは鍵を持ったまま、机上のスイッチパネルを操作した。すると、今まで行き止まりだと思っていたコンクリの壁がゆっくりと開き始めたのである。上方へと静かにあがっていくコンクリートの壁。その向こうから、一台の車両が現れる。シルバーに塗装された4シーターの軽量スポーツカー。ロータス・エヴォーラ400。その厳つくも流線的、かつ鋭角なフォルムは、まさしくスポーツモデルといった風格を持っていた。
スモークグラスの向こうには、真紅に染め上げられたインテリアが見える。真っ赤なバゲットシートは、シックな印象のシルバーの車体に対して、良いアクセントとなっていた。
「素晴らしいとは思わない?」
誇らしげな表情で、アンダーソンは笑った。ゴスメイクの彼女が笑うと、まるでヴァンパイアが獲物を前に高笑いをあげるようだった。
「確かに、良い車ね」
「V型六気筒、スーパーチャージャー搭載。最高速度は毎時三〇〇キロ。特殊装備は、基本的にi8をベースにしている。自動運転機能は、音声認識デバイスと同期させることで遠隔操作が可能。車体後部からは、スパイクベルトを三つまで投下可能。フロントグリルには七・五六ミリ機関銃を搭載。自動照準機能で、だいたいの相手は蜂の巣に出来る。ボディはすべて特殊金属とカーボンの複合装甲で、i8と同じく電磁反応装甲と車体色変更機能が備わっている。そして新機能として、エネルギー回生システムが搭載された。ブレーキング時の運動エネルギー、排気ガスの熱エネルギーを回生、蓄積。モーター用電力として用いることで、加速性を高めることが可能。――すなわち車体重量が多少増したぶん、出力でカバー出来る、ということ。……気に入ったか?」
「ええ、とても」
そう言ってチューズデイは、エヴォーラのボディを撫でた。
「でも一つ気がかりなことがあるわ」
「何だ?」
「今度は発信器をつけていないでしょうね?」