ブライトン・ロック
本作は、『悪魔を憐れむ女』の続編となります。そちらを読んでからお読みになることをおすすめします。
海辺にせり出したデッキ。白いテーブルクロスに覆われた机と、まっさらなパラソル。その目が冴えるような白さが、四月の太陽に照らされて鏡のように反射している。青い海の向こうでは海猫が鳴いており、その様子を紳士、貴婦人たちが談笑しながら見つめていた。
イングランド南東部、イギリス有数の観光都市ブライトン。その岸辺に立つキングス・ホテル。デッキと繋がったその大広間では、社交パーティが開かれていた。パーティといっても、要するにブライトンに集まった金持ちたちの道楽だ。あたりに目を向ければ、このイギリスでそこそこ有名な企業の社長たちが見れる。どこに目を向けても、羽振りの良さそうなふくよかな顔をして、体にあった特注のイブニングスーツを着込み、手にはシャンパンを用意している。海鳴りの音をかき消すような大笑いは、酔った大富豪特有のものと言えた。
そんな絢爛豪華で華美な格好をした雑踏のなか、一人静かに酒を嗜む女性がいた。焦げ茶色のセミロングの髪をした彼女は、シャンデリアが明かりを落とす大ホールで一人カウンターに立ってワインを楽しんでいる。グラスに注がれているのは、血のような赤ワインだ。
するとしばらくして、スーツ姿の男が彼女の隣に現れた。五十代はじめぐらいに見える男は、バーカウンターの向こうに立つバーテンに頼む。
「ギムレットを」と。
それから彼は、白いのが目立つ髪をかきなでながら、女の方を向いた。
「どうも、ご婦人。私はレノックス。ネイサン・レノックスです」
言って、男は手を差し出した。
女はその手を握り返し、
「ボンドです。ジェイミー・ボンド。……前にどこかでお会いしましたか?」
「それは僕の台詞だね。ナンパをし損ねたじゃないか」
レノックスは微笑んで、ジェイミーの顔をのぞき込む。
バーテンがシェーカーを振って小気味よい音を奏で、間の悪い沈黙を紛らわした。
おそらくこのレノックスという体格のいい壮年のハンサムは、このパーティ会場では比較的若い女性であるジェイミーを狙い、「一晩どうだ?」などと話しかけるつもりだったのだろう。
だが、それはまったくの大失敗である。
ジェイミー・ボンド――もとい、ルビー・チューズデイ。彼女の正体は、金によって雇われるフリーランスの工作員。どの諜報機関にも属さない彼女は、それゆえ汚れ仕事を掴まされることが多い。
そしていまこのとき、彼女に与えられていた任務もそのような仕事であった。
「ブライトンへは初めて?」
と、ギムレットを受け取り、レノックスは言った。
「ええ。何故わかったんです?」
「なに、カマをかけてみただけさ。ブライトンはいい場所だ。多くの作家やアーティストが、この美しい土地をモチーフにして作品を書いている。ブライトン・ロックは?」
「グレアム・グリーンの著作ですか」
「フムン。ここで『クイーンの』と言わないあたり、君の聡明さが窺える気がするね。もっとも僕はクイーンの大ファンであるわけなんだが。そうだね、彼もブライトンを舞台にした偉大な作家の一人だ。本当にいいところだよ、ここは」
彼は微笑んで、グラスに注がれたギムレットに口をつけた。少し飲んで、また微笑みかける。昼間から強い酒を飲んでいられるのは、相当な地位の人間であるからだろう。レノックスという男からは、そういう余裕のようなものが感じられた。
たしかに、彼の言うとおり。ここは良い街だ。海風は気持ちよく、太陽は美しく照っている。チューズデイもそれには同意する。しかし彼女には、オトコに構っている暇など微塵も無かった。
チューズデイはワインを煽り、レノックスから目線を外す。そして、会場奥にたたずむ小太りの男に目を寄越した。今回の目標は、その男だった。
ロバート・ジェイムズ元合衆国副大統領。彼は昨年、アメリカに新たな仮想敵国を作るため、テロ組織ASISを支援。彼らに核を撃たせるようし向けたとして、国家反逆罪の容疑がかけられている。残念ながら証拠不十分でFBIも起訴出来ず、さらにはジェイムズは辞職。CIAすら追うことも出来ず、ただ彼が貯金と共にイギリスの観光地へ逃れた、という情報だけが残された。
そしていま、チューズデイはその男を見つけたところだったイギリス南東部、イーストサセックスにある観光地、ブライトン。その高級ホテルで開かれる社交パーティの中で。
「……あの、ミス・ボンド」
と、レノックスが声をかけたところで、チューズデイは目線を戻した。
「よろしければ、私が一杯奢りましょうか?」
「いえ、結構です。私、人と待ち合わせていまして」
かすかにワインの残ったグラスを持ち上げ、チューズデイは人混みの中へ。今の彼女に酔っぱらいの相手をしている余裕は無かった。
ジェイムズはボディガードらしき男を数人侍らせ、その上で恰幅のいい男三人と談笑を続けていた。シャンデリアの下、食い過ぎで太った連中と酒を飲み交わす姿は、何とも滑稽に見えた。
談笑する紳士、貴婦人の中を分け入り、チューズデイはジェイムズの近くへ。そして彼女はワインを飲み干すと、近場のウェイターに空いたグラスを渡した。そして、右腕にはめた腕時計――ルミノックス・ネイビーシールズを操作する。その時計には、各種薬剤が塗布された針を射出する機構が備わっている。そしていま時計に装填されていたのは、即効性の下剤であった。
やっとの思いでジェイムズのもとへ。そしてチューズデイは、持ち前の女の武器を使って、彼らの中へと入っていく。
「すみません、ミスタ・ジェイソンですよね?」とチューズデイ。
しかし、ジェイムズを始めとする男たちは、頭上にクエスチョンマークを浮かべて見せた。
それもそのはず、ここにジェイソンという名前の人物はいないからだ。いるのは民間軍事企業を束ねるミスタ・グリーン。表向きは貿易企業社長であるミスタ・ブラッドレイ。そして、ジェイムズ元副大統領とは盟友であり、ニューヨーク州議会議員のミスタ・スターリング。この三人だ。どこにもジェイソンなどいやしない。
「誰だね、君は?」とジェイムズが言った。
「申し遅れました。私、ユニバーサル貿易のボンドというものです」
「ボンド? 聞いたことのない名前だね」
「そうでしょうか……? おかしいですね。あなたは……?」
「私はジェイムズだ。ジェイソンではない。人違いだろう」
「すみません。どうやらそうみたいです……本当に申し訳ありません」
言って、チューズデイは踵を返そうとする。
そのタイミングだった。
彼女は時計の位置を戻すフリをして、リュウズを押した。これが針を打ち出すトリガーの役割を果たしているのだ。まもなく射出された針はジェイムズの首筋に命中した。
彼は少し痛みを感じ、首を傾げた。
だが、その頃にはもうボンドという女は消えていた。
彼女の思惑は、つまるところジェイムズを尋問するところにあった。殺しではない、捕縛だ。そのためには、彼を一人にしなければならない。
トイレは個室だ。男の場合、小さい方は個室ではないが、漏れなくジェイムズは大きい方の個室に飛び込むに違いない。そしてそこへチューズデイは忍び込み、あとは情報を聞き出すという算段だった。
別に飲み物に下剤を仕込んでも良かった。だが、周囲のボディガードが逐一飲み物を調べていたので、それは無理だと判断した。
ジェイムズは副大統領の座を辞してから、必要以上に身の危険を案じている。彼はシンジケートという巨大な組織の手がかりではあるが、しかし同時に組織の加護の下にもいるはずなのだ。
チューズデイのような刺客が来るのはわかっていたにせよ、あまりにも警備が厳重すぎる。しかし、それにしては社交パーティに出てくるなど、まったくジェイムズの意図は分からない。
チューズデイは人混みに紛れ、ウェイターが持つグラスを一つ頂いた。注がれていたのはシャンペンだった。
彼女はそれに静かに口を付けると、しばらくテラスの向こうでジェイムズの様子をうかがった。行動開始の合図は、彼が顔を青くし、腹を抱えて外へ出ていく時だ。
まもなく、遠くの人間でもわかるような仕草で、彼は自らの腹部をさすった。他人には悟られぬよう、グラスを右手で持ちながら、軽く腹をさする程度だったが、しかし事情を知るチューズデイにしてみれば、これは確実な『前兆』だった。
――これはかかった。
チューズデイはグラスを手近なテーブルに預け、ゆっくりとテラスから出る。ワインレッドのドレスの下、太股に隠した愛銃を確認。スタームルガーMKⅢ。消音器内蔵型。暗殺、隠密任務にはうってつけの銃だ。
彼女は前兆を確認すると、少しずつジェイムズのもとへと近づいた。
ジェイムズは周りに何度か断りをいれ、腹をさすりながら会場を後にしようとする。談笑していた他三人の男たちが「食い過ぎですかな」などと言って笑う。
だが、それどころでは済まされない状況が、次の瞬間起きたのだ。
刹那、ジェイムズの足がもつれたかと思うと、彼は空のグラスを持ったまま倒れたのだ。ズシン、と地響きのような音がして、周りにいた富豪たちも一斉に振り向いた。だが、もう振り向いた時には遅かったのだ。
ボディガードの内の一人、サングラスをしたラガーマンのような白人が、「ボス! ボス!」と何度も呼びかける。それから男はジェイムズの首を触った。
チューズデイはまもなく、男の反応からジェイムズが殺されたのだと知った。男は首を横に振って俯いている。脈が無かったのだろう。即死だ。
チューズデイ以外の何者かが、同じくジェイムズを狙っていた。毒を盛ったか、狙撃か、それとも刃物か。手段は分からないが、新たに現れたライバルの目的は、シンジケートではない。ジェイムズの存在抹消だ。そして、ライバルはそれを見事に成し遂げた。
チューズデイは、薄々気がついていた。なぜジェイムズを殺されたのか……。
これは、シンジケートが仕組んだトカゲの尻尾切りなのだ。
あわててチューズデイは周囲を見回した。まだどこかに犯人がいるはずだ。どうやって殺したのかは不明だが、しかしここにいるはずなのだ。
遠目ではあるが、死体の状態から見て、少なくとも狙撃ではない。目立った外傷は見あたらないのだ。出血もない。絞殺か、極細の針を使ったか。または薬を盛られたか、あるいは……。
ジェイムズの死体はひどい有様だった。倒れた彼の口からは泡があふれ出ている。さらにはチューズデイが仕掛けた下剤のせいだろう、あたりには彼の糞尿が散乱していた。もはや意識を失った彼には、どうしようも無かったに違いあるまい。
シンジケートが雇った殺し屋が、まだここにいる。
ホテルの中を見回す。
絢爛豪華なシャンデリア。その下で、手で口を、あるいは目を塞ぐ貴婦人。妻の顔なだめる紳士。状況は混乱していた。女のヒステリックな悲鳴が会場いっぱいにこだましている。
ジェイムズが何者か、それを知っている人間は、ここにはそうそういないだろう。何せ彼は隠居生活中の身だ。知っている人間といえば、それこそ死の直前まで話していた男たちしかいまい。なのにこういう現場では、いつも女性の泣き声が響いている。なんら関係のない男が死んだというのに、まるで実の親でも殺されたみたいに。
だがチューズデイは違った。ヒスパニック系の女が見ず知らずの死体を見てヒステリーを起こしているのを横目に、彼女は犯人を捜す。
そして一人、怪しげな男を見つけたのだ。
男はウェイターだった。だがそのウェイターは、この状況をどうにかしようなどとはまったく考えていないようで、手には大きめの白いナプキンをかけて、今にも会場を出ようとしていた。
何か武器を隠すのなら、ナプキンは使える。しかも給仕人なら至って自然に見えるはずだ。よく見れば、ナプキンの先からは銀色の棒らしきものも見えていた。まるでそれは銃口のようだ。
間違いない、そいつだ。
チューズデイは目星を付けるや、すぐさま人混みをかき分けて男を追った。すると男もチューズデイに気づいたのだろう。あわててその場を早歩きで立ち去り始めたのだ。もう少し冷静でいれば隠密脱出も可能であったものを。
チューズデイも駆け足で後を追った。泣き叫ぶ女の肩を退け、会場の外へ。エントランスホールに出て、さらにその先へ向かった。給仕人の男は一足飛びでチェックインロビーの脇、賓客用出入り口を駆け抜けた。チューズデイもその通りの道を進む。
そして彼女は走りながら、左腕にはめた腕時計に向けて叫んだ。
「自動運転、回収!」
それは、彼女の車への合図だ。
MI6からの贈答品であるBMWi8。それには自動運転機能が備わっており、さらに腕時計のGPSに従って回収に向かう、ピックアップモードも搭載している。
給仕人の男はホテルを出るや、ちょうど車を駐車場へ回そうとしていた運転手を蹴り倒し、客のメルセデスSクラスを強奪した。エンジンは既にスタートしていて、あとはアクセルを踏み込むだけだった。
白銀のメルセデスは、蹴り落とされた運転手の足を弾き、そのまま出発する。けたたましいエキゾーストノート。ホイールスピンが残した白煙だけが立ちこめる。
運転手が舌打ちをして、その場で唾を吐き捨てた。ほかのベルボーイたちも唖然としてそこにいる。
そして、ちょうどそこへ飛び込んできたチューズデイ。ホテルマンたちがあたふたする中、彼女はさらに彼らの驚くようなことをしてみせた。
ホテルの地下駐車場に停められていたi8が、警備員の制止を無視してチューズデイのもとへやってきた。それも無人で、だ。ドアも独りでに開き、まるで彼女を待っていたかように停車する。彼女はそれに乗り込むと、アクセル全開。メルセデスを追いかけた。
残されたホテルマンたちは、ただただ唖然とするばかりだった。
かつてこのブライトンには、特異な電気鉄道があった。海岸沿いに造られた、世界初の電気鉄道だ。起伏の激しい内陸に路線を造るより、平坦な海岸に造った方がいい。そんな考えから生み出された鉄道は、今なお街の観光資源として残されている。今日でも、そんな世界最古の電気鉄道の勇姿を見ることができる。
そして現在、現代科学技術の粋を尽くしたハイテク車が二台、ビーチ沿いの道路を疾走していた。先を行くシルバーのメルセデスは、強引にも一般車両をはねのけながら進んでいく。豪奢なボディは、しかし交通事故を想定して造られたモノであり、衝突の度にバンパーが凹み続けている。だが、スピードと安定性は確かに高級車そのものであり、起伏の激しい道でも減速することなく疾走している。
一方のチューズデイ、BMWi8はと言えば、軽々と一般車両の波をかわし、そしてモーターを高速回転させてメルセデスを猛追している。防弾仕様のi8には、傷一つない。だが、それは装甲の堅牢さゆえではない。
このBMWi8は、英国情報局秘密諜報部、通称MI6からの贈答品である。表向きそれは『国家功労者への贈答品』という名目でルビー・チューズデイに送り付けられたが、その実彼らの目的はチューズデイの動向調査であり、i8には発信器が備えられていた。もっとも、その発信器もいまは外してあるのだが。しかし問題は、i8が元々『英国政府』のしかも『情報局』の車両であるということだ。すなわちこの車両は、諜報員に与えられた装備品であると同時、政府の緊急車両という役目も負わされている。緊急車両の装備と言えば一つしかない。警告灯だ。i8のフロントグリルに内蔵された赤青二色の警告灯は、政府緊急車両などが保有する車両と同じ機構だ。
ボンネット下、フロントグリルから赤青の閃光が警報音と共にまき散らされる。それに気づいた一般車両は、すぐに道路脇に避けていく。これで被害は最小限に押さえている。チューズデイとしては、そのつもりだった。
メルセデスはなおも逃走を続けた。大通りからいったん左折して、さらに山間のワインディングロードへと抜けていく。一般的にカーチェイスでは、開けた見通しの良い道の方が追う側にとっては有利になる。逃げるのなら、混み入った道の方が有利だ。だが、このときの男は相当焦っていたのだろう。とにかくチューズデイのi8から逃れることばかり気にしていたようで、気づけば草原広がる崖のほうへと向かっていたのだ。
チョーク材でできた白亜の断崖絶壁。イーストボーンにある景勝地、セブンシスターズである。白い岸壁の上には芝が生い茂り、豊かなコントラストを生み出している。息を呑むような美しさは、幾千年も前から人の心を打ち続けている。
しかしいま、シンジケートの暗殺者にとっては、後悔の念を想起させる、ただの断崖絶壁にすぎなかっただろう。
観光客がちらほらと見える岸壁の頂上。逃亡を続けるメルセデスSクラスは、ついに追い込まれた。右側は絶壁で、遙か下方に海が見えるのみ。もはや正面に進むしか道は残されていない。
メルセデスとBMW。その二車のエキゾーストノートが響く。けたたましいエンジンの嘶きを聞き、観光客は芝を散り散りになって逃げていった。悲鳴が岸壁の上にこだまし、やがて海の中へと消えていく。
開けた大地では、もはや周囲への被害を気にする必要もない。暗殺者は、メルセデスの車内よりハンドガン――おそらく九ミリ――を何度も放ってきたが、しかしi8の装甲を破ることはまず不可能。もう勝負は決まったも同然だった。
チューズデイは、カーナビ下にあるスイッチを押す。するとi8のボンネットより七・五六ミリ機関銃が現れ、直後には射撃を開始。メルセデスのケツに銃弾の雨を食らわせる。
どこぞの富豪から奪ったSクラスには、むろん防弾仕様など施されているはずがない。銃撃を喰らい、メルセデスのトランクは一瞬で穴あきチーズのようになった。留め具を破壊されたナンバープレートも歪み、今にも落ちそうに揺れ動く。
毎分六〇〇発近い鉛玉の嵐。メルセデスがケツを振って避けようとする。左へ旋回。チューズデイもブレーキを踏みつけ、減速。ステアリングを大きく左へ切った。
レイトブレーキング。メルセデスの減速に対し、チューズデイは接触直前で減速開始。ギリギリのタイミングで方向転換する。
そのとき、メルセデスとi8はまさしく接触寸前だった。i8のフロントガラスに、メルセデスの運転席が映る。左ハンドル仕様車だ。イギリスではマイナーだ。
乗っていたのは確かにあのホテルマンだった。そして、彼は右手に拳銃――おそらくグロック――を構え、左手でステアリングをつかんでいた。
彼の口は、「クソ!」と叫んでいるように見えた。
そして、それはあながち間違ってはいなかったのだ。
男はもはや冷静さを失い、弾丸が尽きるまで九ミリを放ち続けたのである。むろん、i8を貫通できるはずがない。たとえライフルやマシンガンで撃たれたとしても、電磁装甲によってすべてを無効化するだけの性能をこのクルマは有している。ハンドガンの銃撃など痛くも痒くもない。
だが、次の瞬間だった。
ステアリングを大きく左へ回したメルセデス。それに乗った暗殺者の男がニヤリと嗤ったのだ。赤い制帽の下、彼の浅黒い肌、口元が歪む。
メルセデスは左へ舵を切ったのでは無かったのだ。車体を一八〇度回転させたのだ。そのままギアはバックギアへ。急速後退。しかし、それでも減速した勢いでi8の正面とメルセデスの正面とがぶつかり合う。
ガラスを二枚隔てた先で、男は嗤っていた。そして男は、拳銃ではなく、なにやら長細い棒のようなものを構えたのだ。銀色の筒のようなそれは、一見して短い鉄パイプのようにしか見えない。だが、チューズデイは直感的に感じ取った。
――まずい。
アクセル全開、同時に機関銃のトリガーを再度押し込む。しかしまだリロード中。銃弾が再び薬室に送られるまで、あと五秒は必要だ。だが、五秒も待っている余裕はない。
「クソ、こざかしい真似を……!」
電磁装甲、オン。気休めかもしれないが、無いよりはマシだ。リロードが完了するまでの時間稼ぎにはなる。
金属棒の先端を向けられる。先端が青白く光った。何が起きるのかは分からないが、とにかくまずい。
アクセル全開。i8のエンジンとモーターとが駿馬が如きいななきをあげる。こうなれば、無理矢理にでもメルセデスを谷底へと叩き落とすまでだ。改造車、ハイブリッド・スポーツの面目躍如はまさにこのときだ。
たかだか二〇〇馬力と少ししか無いスポーツカーが、ツインターボの高級車にかなうのか。それは甚だ疑問だ。メルセデスがバックギアから再び一速、二速……と入れ始めると、その違いはすぐに見て取れた。軽量でモーターとエンジンの二つを使いこなすi8。その一方で、五〇〇馬力を越えるメルセデス。その両車が相撲などを取れば、どちらが勝つかは明白だろう。
チューズデイはブレーキを踏み込んだ。しかし、それもからっきしだ。タイヤは芝を噛んで、土壌をすくい上げる。もはやスリップしたタイヤは、あさつゆに濡れた芝生にはグリップしない。
「だったら、押し負けてやるまで」
言って、チューズデイもバックギアへ。
押し込まれた勢いを受け流し、ハンドルを右へと切る。車体がくるりと右へ旋回。勢い余ったメルセデスが突き抜けていく。
しかし、相手のメルセデスもすぐに体勢を立て直した。濡れた芝生の上で泥を巻き上げながらドリフト。再びi8に相対する。
Sクラスのボンネット。掲げられたダイムラーのエンブレム、スリーポインテッドスター。これだけのぶつかり合いをしながら、まだ取れなかったそれが、さながら銃の照準器がごとくi8を狙っていた。
エンジンを空蒸かしする。そのエキゾーストノートは、まるでこれから獲物を狩りに行く猛獣のようだ。
――だが、狩られるのは貧弱な電気自動車などではない。
刹那、二つの車が一斉に発進した。ホイールスピン、泥をかく。車体が左右に揺れながら急加速。敵のもとへ荒れ狂う牛のごとく突貫する。
しかし、チューズデイの狙いはむろん、『激突』では無かった。
衝突の寸前、彼女はサイドブレーキを引き、車体を横滑りさせた。濡れた土の上では、車体が慣性の法則に従っておもしろいようにドリフトする。土を巻き上げ、そして――
チューズデイは、トリガーを引いたのだ。
ドリフトしたi8が、マタドールが如くメルセデスを避ける。直後、リロードを完了した機関砲が一斉に火を噴いた。突貫するメルセデスの後方めがけ、すり抜けざまに連続発射。毎分六〇〇発を越える鉛の嵐。激烈な銃火の雨が、再びメルセデスを襲った。
これでもうタイヤは完全に死んだだろう。
チューズデイは半ば確信とともに、カウンターステアをあてる。
だが、それだけでは終わらなかった。
Sクラスは、なんとまだ動き続けたのである。銃火を喰らいながらも、再び車体を横滑りさせ、i8に食ってかかる。そしてようやくバランスを取り直したi8に再び激突したのである。
これにはもうチューズデイもどうしようも無かった。車体の横っ腹に突っ込んできたメルセデス。その豪快なエンジン出力に、もはやi8は為す術もない。ブレーキを思い切りかけるが、それも効き目はなかった。
右手に見えるホテルマン姿の暗殺者は、まるでチューズデイにこう言っているようだった。
「このまま死ね!」
しかしもしそう言われたのならば、ルビー・チューズデイはこう返すだろう。
「その言葉、そっくりそのまま返すわ」
チューズデイはハンドルを左へと切った。崖の方だ。つまり、崖へと車体は一直線である。もはやi8は落ちる寸前。
シンジケートの暗殺者も、「気でも狂ったのか?」とでも言いたげに目を白黒させている。
もちろん気が狂った訳ではない。策があるから、こうしたのだ。
車体が高速で崖に向かう。メルセデスとともに。
チューズデイは最期にアクセルを踏みつけると、ハンドルの根本にある赤いスイッチを押した。ガラスケースに包まれた厳重なスイッチ。それはつまり、緊急脱出スイッチだった。
スイッチが押し込まれた。
直後、i8の天井が開き、シートごとチューズデイは空へ投げ出された。
i8はなおも加速を止めることはない。Sクラスも、もはやブレーキが利く速度ではなかった。
上空、シートに備え付けられたパラシュートが展開。チューズデイはゆったりと降下。その一方で、i8とSクラスは白亜の絶壁へと向かう。
「さよなら、シンジケートの暗殺者」
海の青と、空の青。青々と茂る芝生。その中を失踪する車両。為す術もなく白い崖を飛び越える。
そして、二台の高級車は海へと飲まれていったのである。
風に揺られながら、蒼穹の中をゆらりゆらりと白のパラシュートが落ちていく。落下傘に繋げられたドレス姿の女性は、まもなく芝生の中に着地。スカートの裾についた汚れを叩き落とすと、シートベルトを解除し、パラシュートを外した。
外されたパラシュートは、高級車二台の沈んだ海へと投げ捨てられる。
逃げまどっていた観光客たちは、女の姿を遠目に見ていた。束の間のカーチェイス、銃撃戦、そして脱出劇。まるで映画の中のような出来事に、彼らは口をあんぐりと開けていた。
一方でルビー・チューズデイはと言えば、これからどうやって戻ろうかと考えているところだった。トカゲの尻尾切りにあい、残念ながらシンジケートへの頼み綱であったジェイムズ元副大統領の命は奪われた。依頼人であるCIAのMへは申し開きのしようはないし、そのうえi8も今や海の底である。
「さて、これからどうしようかしら」
ひとしきりの戦いは、ある種彼女に脳内麻薬を分泌させていたのだろう。
冷静な判断というのは、後々になって舞い降りてきて、余計な後悔ばかりをさせるものだ。
彼女は仕方なくバスででも帰ろうかと思った。
しかし、そんな時である。
けたたましいエキゾーストノートがこの静かな景勝地に再び響いたのだ。芝生の上を疾走する黒塗りのジャガーXJ。まもなくそれはチューズデイの目の前で停車し、後部座席から一人の男が降りてきた。
「いやはや、また派手にやったねえ」
と、降りてきた男は大声で男は言った。
チューズデイは、その男の顔に見覚えがあった。というよりも、先ほど見たばかりの顔だと、彼女は思い出した。先刻、パーティー会場でナンパを仕掛けてきたあの男だ。
「先ほどは忙しかったみたいで、改めて自己紹介させてくれないかね。ミス・チューズデイ」
「……あなた、何者?」
「安心してほしい。少なくとも君の敵ではないよ。私はネイサン・レノックス。英国秘密情報部、SIS……まあ、世間一般で言うところのMI6の者だ」
「それで、そのMI6が何の用?」
「決まっているだろう。君に依頼したいことがある。ちょうど先ほど任務も終わって、手空きになったところだろう?」
「最悪の形で終わったけどね」
と、チューズデイは視線を崖の下へ向ける。そこにはまだ沈みかけのメルセデスSクラスの姿が見えた。今頃、シンジケートの暗殺者は衝撃で即死。海へ還るのを待っている、と言ったところだろう。
「前の任務のことはCIAから聞いているよ。実は、我々が君に頼みたい任務も、実は『ソレ』がらみなんだよ」
「ソレ……?」
「言うまでもないだろう? ……シンジケートだよ、ミス・チューズデイ」